苦み
傘を畳んで硝子扉の取っ手を掴むと、開ける前から室内が込み合っているのが見て取れた。
授業が終わってから一目散に来たのでまだ席はまばらに残っているものの、これから更に客が増えるのは経験上確定である。私は運良く空いていた定位置である角の席に羽織っていたカーディガンとエナメル質のバッグを置いた。入口近くのカウンターに戻ってオーダーをする。
私が大学から徒歩二分の場所にあるこのカフェを行きつけにしたのは入学してからすぐ、もう二年も前になる。雨の日でなくともここに来るのは日課になっているから、雨粒を散らしながら駆け込んでくる見知らぬ客に対して排他的な気持ちが芽生えてしまう。
入ってきた男女、恐らくカップルは角の席に近づいたが、椅子に置かれている私の荷物を目に留めると立ち止まって店内を見回した。
(残念でしたー)
心の中で下らない独占欲が立ち上り、何を考えているのかと自戒する。
カップルが別の席を見つけて落ち着いたのを見届け、私はぼんやりとした眼を硝子の外に向けた。雨は数分前よりも勢いを増している。
オーダーしたチャイラテを受け取って座席に戻る。壁を背にして座り、店内を一度に視界に収めながらカップを口元へ運んだ。
スマートフォンを弄りながら、次の授業までの一時間以上をただ無為に消費していく。
いつも通り、繰り返してきた光景。
そこへ一石が投じられたのは、SNSのタイムラインも読み飽きて、チャイラテを一息に飲み干してしまった頃であった。
未だに降りしきる雨の中、やけに大柄な男が店の前で傘を畳むのが、退屈で店内を眺めていた私の目の端に映った。硝子は濡れて、向こうにいる男の姿は歪んで見える。金髪であることだけがかろうじて分かった。
間もなく男は扉を引いて店内に入ってきた。挨拶をした店員の声が及び腰だったのを変に思ったのか、菓子が並べられたショーケースを見つめていた客も入口に目をやった。
店内の客が次々とその男に視線を突き刺す様子を視界に収めながら、私も同じようにあっけにとられた。
茶色混じりの長い金髪を後頭部で纏めている男は、奇異の眼差しを向けてくる周囲の人間に露程の関心も示さず、カウンターの内側、店員の後ろの壁にあるメニューを真剣な顔で見た。
やがて店員を見下ろすと、首を少し突き出して注文をした。店員は怯えているのか見蕩れているのかわからない顔で、上目遣いに頷いてレジを操作した。
発したのは日本語だろう。声は聞こえなかったが、辿々しく動く口元のリズムが英語とは異なった。
大きな男は注文を終えると、店内を見回して口を少し開いた。彼は今頃になって自分の座席が残されていないことを悟ったようだ。少し肩を落とした男が、ふと私の方を見た。
咄嗟に視線をスマートフォンに戻す。今のは私を見たわけではなく、私の鞄が置かれている椅子を見たのだと直観で理解した。そして今、彼は私を見ているのかもしれない。
時計を見た。授業まではあと三十分以上も残されている。雨脚も収まる気配がない。
私は自分の感が当たらないことを祈りつつ、スマートフォンを見つめ続けた。
果たして、店の光りが遮られ大きな影が私の座席に落ちた。
私は男の足下から這うように視線を登らせた。
使い込まれて汚れた白い運動靴、百回以上洗濯したようなジーンズ、股下はテーブルよりも高く、革ジャンを着たシルエットは細長い。
「すみません、いっしょにすわってもいいですか?」
「どうぞ」
思っていたよりも流暢な日本語に驚きながら、一瞬だけ顔を見て許可をした。このような注目された状況でなくても、私は断れない性格なので許してしまうだろう。
男は私が荷物を退かした席に長い身体を押し込め、手に持っているカップをテーブルに置いてから座り心地を調整した。その刹那に彼の顔を盗み見る。
黄金色の髪は生え際ごと後ろに引っ張られ、結び目から先は湿気の影響か緩やかにウェーブしている。露出した真っ白なおでこは出っ張っており、高い鼻と相まって眼孔との落差を強調し、コーカサスの人間であることが分かる。
髪と同じ色のまつげは光を反射して煌めいているようにも見えた。
男は姿勢を正すと顔を上げて、蒼い瞳で私を見つめて唇を歪めた。男の目線の高さは私よりも頭一つ上であった。
私は首だけ動かして会釈し、手元に意識を集中させようとした。そうするほどに感覚は外へ開き、男がカップをカチャリと鳴らしたり、鼻をすすったりする音がはっきりと耳朶を刺激してくる。
何を読んでいるわけでも見ているわけでもなく、ただ目の前の男を見ていないというアピールのためだけに画面を操作した。
「ここ、でんぱがよわいですね」
「え?」
咄嗟のことに私は聞き逃してしまい、顔を上げた。蒼い視線が私を貫いていた。男は自分の日本語がおかしいと思ったのか、少し思案してから言い直した。
「Hmm…Smart Phoneのでんぱ、つうじにくいですね」
「あ、そうですね、はは」
実際には通信速度の差など感じていなかったが、私の口は勝手に肯定をした。視線をすぐに手元に落としても、蒼い視線はまだ透視するように私を見ているのだと思うと身体が裏返ってしまうような緊張が続いた。
予感に反して、男はそれ以上会話を広げる素振りを見せず、黙って私と同じようにスマートフォンとカップを動かすだけであった。
次の授業が始まる十五分前になると、いよいよ私は席を立たねばならないのだが、一度しか言葉を交わしていないこの男の前をただ立ち去るのももったいないような気がしてきた。
自分から会話の芽を摘んでおいて、目の前に転がる非日常の欠片を拾わなかったことを後悔している。
脚は神経を失って動かず、腰は椅子に根を張った。
何かきっかけはないかと手に汗を握っているうちに、スマートフォンに表示される時間は一分、また一分と時を進めた。
十分前になると、私の心は言い訳を始めた。今更話し掛けたところで授業があるのだから大した話はできない。道ばたの外国人との会話よりも親に学費を払ってもらっている大学の授業の方が大切だ。日本語がどれくらい通じるかもわからない。
九分前だ。行かなければならない。行くと決めた瞬間、私の身体は力を取り戻して、腰を浮かせた。男の視線を受け止めながら、椅子にかけておいたカーディガンを羽織ってエナメルバッグは肩にかけた。
チャイラテのカップを手に取って男の横を通り過ぎる時、焦点合わせずにその白い顔を視界に掠らせた。
男は私に目を向けることなく、ただカップに口を付けながらスマートフォンを見ていた。
雨は止んで、曇り空の果てに太陽の光が微かに漏れている。
大学までの道を歩いて行くうちに、私はどうしてか惨めで泣きたくなった。
何も変えることができない自分の決断力の弱さ、それに気づいていながら直そうとしない不甲斐なさ。
この劣等感は日常に紛れていくのだろう。授業が終われば忘れて、こうしてふとした時に思い出す。
苦い思いを繰り返して、苦みは薄さのあまりすぐに消え、積み重なることなく、私を突き動かすことなく、毎日に散りばめられていくのみ。
立ち止まれ、私の脚。
振り返れ、私の身体。
声をかけたいならかければいい、それだけのことだ。
何を迷っている、まだ間に合うだろう。
けれど、私は大学の敷地に入り、棟にも入り、階段を登って行った。一段登るたびに苦みが増していく。
これが私。
私が私である理由。
私の行動が私を生みだしている。
過去の延長線上の未来を迎えるだけの生き物。
見慣れた教室に入って友人の顔を見た瞬間に、極限まで高まっていた苦みは、何事もなかったかのように霧散した。
だがそれは再び集結するときを待っている。
日常の中の当て所ない不安として、私を苦しめるために。