11
夢を見ていた。現実でないとすぐに分かった。
そこにはピエロと自分だけがいた。幸せな夢だった。
「すぐに戻るからな」とピエロが言って、目を開けると、扉が閉められた。そこは夢ではなくて、現実だった。
ぼんやりと天井を見つめながら、夢の出来事と、その続きを想像した。何もかもが幸せだった。二人とも、笑っていた。
斎藤にはこれからも、笑っていて欲しい。これ以上迷惑は掛けたくない。自分のせいで辛い思いをしてほしくない。
高安は受付で電話を借りた。ありがたいことに、特に理由も聞かれなかった。言ったとしても信じないだろう。部屋に戻って、斎藤が帰ってきても入れないように鍵をかけた。電話の相手を知られたくなかったのだ。
覚えてはいたが、今まで使ったことのなかった番号を、ゆっくりと押していった。通じてほしい。通じてほしくない。両極の気持ちに揺れる。電話は、繋がった。
「……父さん?」
「晶か!」
受話器の向こうで喜びと驚きに打ち震える父親の声がした。
「無事なのか? 無事なんだな! お前が誘拐されたと聞いて、病院に飛んできたんだ! 今から警察に連絡するからな、もう大丈夫だぞ!」
まだ警察に知られていなかったのか。だとすれば、斎藤は嘘を言っていたことになる。そして、彼はまだ警察に追われていないということにもなる。
「聞いて、これは誘拐じゃない」
「何を言っているんだ」
「私が、頼んだの」
「なに?」
これから先の交渉は、一人称を変えたほうがスムーズに進む。高く上げた自分の声に強烈な違和感を抱くも、父親の動揺に手ごたえを感じた。
「私が無理を言って、外に出してほしいって、頼んだの」
「なぜそんなことを」
「ちょっとした、気の迷い」
「あの男か、あの男に言わされているのか!」
「違うよ、これが真実なんだ! お願い、私の話を聞いて」
鼻声で告げれば、しぶしぶながらも先を促してくる。
「今回のことは全て、私が頼んだことなの。あの人は優しいから、私の言う通りに動いてくれただけなの。だからお願い、どうかあの人を責めないで。警察になんて渡さないで」
「それは無理だ。あの男は警察に引き渡す」
「その時は、私も一緒」
「そうはさせない。あの男は犯罪者で、お前は被害者なんだ」
「違う!」
「違うものか、お前の声は震えているじゃないか。きっと話しているのも辛いんだろう? このままでは衰弱して死んでしまうんだぞ!」
そんなことは、病院を出る前から知っている。いっそのこと死んでしまえば楽になれると考えたときもあった。だが、それでは斎藤が本当に犯罪者になってしまう。
悪魔に魂を売って願いを叶えた人間の気持ちが今なら分かる。何に代えてでも得たいもののためになら、なんだってできる。
「私は、父さんのところに戻るよ」
「なに?」
「病院にはちゃんと戻る。喋り方を変えろっていうなら、ちゃんと変える。服装も髪型も、なにもかも、父さんの望んだ女の子になる」
「本気で言っているのか?」
今まで拒み続けてきたのだ。信じられないのも無理はない。
「そのかわり、あの人のことは忘れて。私も、今までの自分を忘れて、父さんの娘として、ちゃんとした女の子として、生きていくから」
口に出したことを想像しただけで、頭がおかしくなりそうだった。胃のあたりが気持ち悪くなって、高安は前のめりになる。立っていることができなくて床に尻をついた。
「それが父さんの、望みでしょ?」
自分の娘が男の子のような服を着て荒い言葉を使うのを、なにより悲観しているのが父親であった。その娘本人が、自分の意向に従うと申し出ている。受け入れようと言っている。本当はすぐにでも了承したいだろう。ただし、その代償に戸惑っている。
「優しさから、なんて理由は、警察に通用しない」
「通報しなければいい」
「あの男はお前を殺すかもしれない!」
「あの人が私を殺すつもりだったら、とっくに殺されてる! わざわざ食べ物を与えたり、ベッドに寝かせて休ませたりなんてしない」
「しかしだな」
「じゃあ、こうしない?」
渋る父親に高安は持ちかけた。簡単に承諾してくれないことは予想できていた。これはそのために用意した策であり、賭けでもあった。
「父さんが来いっていう場所に、私が行く。もちろん、あの人も一緒に。私が生きて父さんに会えたなら、あの人が本当にただの優しさから私を連れ出したと認めて、そのまま逃がしてほしい」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
「私はこれしか、あの人が悪人じゃないって証明する方法も、約束を守るために父さんのところへ帰る方法も、思いつかないよ」
それに、時間はあまり残っていないの。
か細い声の後、盛大に咳き込んで体調を訴えた。事実、高安はこれ以外の方法を思いつかなかった。もっといい案はあるのだろうが、これでも栄養不足の脳みそをフル稼働させたのだ。
「本当だね?」
一層低くなった声が言う。
「お前の言う通りにすれば、お前は私のもとへ戻り、きちんと生きてくれるんだね?」
最後通牒、という言葉を思い出した。使い方が合っているかは分からないが、今の絶望感を言い表すにはお似合いの言葉だと思えた。
「約束する」
自分の声が、別人のものに聞こえた。
指定されたのは何度か行ったことのある別荘だった。人気のない安全な場所だけ理由づければ、斎藤は車を出してくれるだろう。地名は覚えていたし、現地まで行けば案内ができる。
「本当に、約束してくれるんだね?」
「父さんこそ」
「可愛い娘の頼みだ」
電話口の向こうで怒り狂っているのか、はたまたほくそ笑んでいるのか。判断する前に電話は切られた。
ゆっくりと、毒を抜くように慎重に息をした。しかし吐き気を抑えることができず、トイレに走った。すべて吐き出しても震えが止まらなかった。全身の血が抜けたように寒かった。
これでいいんだ。これで斎藤は自分から解放される。父親が必ず約束を守る保証はないが、自分が担保だ。彼が捕まったなら、見せしめにどうしてくれようか。
もっと早く行動すべきだったが、斎藤が一緒では無理な話だ。
(絶対止めるだろうから)
苦笑した。でも、これくらい自惚れたって、いいじゃないか。
冷水で洗ってもひどい顔だったが、鏡に映った自分の姿を見て少しほっとした。今はまだ、自分のままでいる。
(ただの優しさ、か)
本当にそれだけか? 聞きたいが、聞けない。決心が揺らいでしまいそうで、怖かった。
時間を空けてもう一度スポーツドリンクとゼリーを胃に入れた。拒食は随分と大人しくなった。きっかけはピエロで、そいつともうすぐ、お別れだ。何と言って別れたらいいのだろうか。それを考えるとぼろぼろと涙が溢れてきて、高安は思考を放棄した。
受付に電話を返しに行くと、男はあれこれとぶしつけな質問を投げかけてきた。理由を聞いて思わず顔に出た。
「俺、男です」
憂さ晴らしに言ってみると、男は面白いほど慌てた。
その顔がなぜ一瞬でもチラついたのか。
後頭部と背中に回されていた腕が地面に投げ出され、高安はしがみついていた胸からゆっくりと起き上がった。自分を抱える体が突然がくがくと揺れ、世界が回ったところまでは覚えている。直接頭を打ったわけではないが、何度も回転したために足元がおぼつかない。
坂を転がり落ちたと理解したのは、血まみれの斎藤を眼下に捕らえたのとほぼ同時であった。
広がっていく血の色にぞっとした。ゴミ捨て場で倒れていたときの何倍も、危険な状態だと一目で分かった。自分を守ってこうなったのだ。
叫んで揺さぶって、ようやく目を開けたかと思えば、自分のことはそっちのけで人の心配をしてきた。動けないから一人で進めと、そう言ってきた。
頷けるわけもなく、「行け」と言われれば、高安は「行かない」と返した。そんな押し問答を繰り返すうち、斎藤は再び目を閉じていた。
起きてくれと叫びたいのに、まだ言いたいことが残っているのに、声が出てこなかった。縋りつこうとした体は自らの手で押さえつけた。
今自分にできることはなんだ? 何のためにここまで来たんだ?
「俺が、必ず助ける」
自分にしてくれたように、顔にかかった髪を分けてやる。何に対して笑っている? 問う時間さえ惜しく、雨の中を駆け出した。常人にしてみれば駆け足程度の速さであったが、それが精一杯だった。
走りながら、高安は泣いていた。自分にあの男を担ぐだけの力があったなら。そうでなくても、全力疾走できる体であったなら。
病院のベッドの上で何度も描いていた、飛んだり跳ねたり、自由に走り回る自分の姿が遠くに見えた気がして、高安はその背中を追った。
肺を突き刺すような痛みに歯を食いしばる。ぐらぐらと揺れる視界に目を凝らす。何度足を滑らせても立ち上がった。くじけそうになるとポーチを胸に抱いた。
今どのあたりだろう。一本道だから間違えるはずはないのに、疑いたくなる。すでに走ってなどいない。体はふらふらと右に左に揺れている。
顎を滴る水を拭ったとき、木々の隙間から見え隠れするものがあった。それが別荘の屋根だと分かり、高安は叫んだ。残る力を振り絞って、声を張り上げた。もう歩けなかった。体が言うことを聞いてくれなかった。立ち尽くし、無様に泣き喚いた。
「晶!」
一年ぶりに生で聞く父の声。飛びつくように抱きしめられた。そっと慈しむように頬を撫でた指が水滴と涙を拭ってくれた。
それなのに、斎藤と違うというだけで、なんの感慨もなかった。ただ、疲弊しきった体を預ける場所として、父親の胸に倒れ込んだ。ひどい娘だ。それをなんとも思わなかった。頭の中は斎藤のことでいっぱいだった。
「あの人を」
怪我はないかとしきりに尋ねる父親に訴えた。
「お願い」
「もう、大丈夫だからな」
「お願いだから」
「もう、喋るんじゃない」
車を持ってくるよう命令する声は激しく、自分に語りかける声はとろけるように優しかった。
歩いてきた道を振り返る。いくつかのカーブを経てたどり着いたために、斎藤の姿はもちろん見えない。直線であったとしても、姿を拝めたかどうか怪しい。雨脚がさらに強くなって、打ちつける雨粒が周りの声をかき消していく。
「怪我をしているんだ」
掠れた喉がひり出したのはただの吐息であった。
「早く助けに行ってくれ」
枯れるほどに流した涙は雨にまぎれてしまう。
「頼むから、殺さないでくれ」
心の中で叫んでいるのか実際に口にしているのか、その判別がつかなかった。
(これじゃまるで、小説だ)
事実は小説より奇なり? 確かに、花咲かピエロと痩せぎすのガキがボロぞうきんみたいになって死にかけているなんてのは、奇怪で奇妙で奇異なことだろうよ。読んでいた本にだってこんなのはなかった。
病室に積まれた文庫本の、多くは逃走を描いたものであった。逃げ出すことのできないベッドの上で読みふけり、活字の中の主人公になりきっては逃走の自由を味わった。結末がどうであれ、逃げるということ自体が自由の象徴であるように思えた。
その中に、理不尽な権力から逃げる主人公を描いたものがあった。彼は自分のため、愛する恋人のために、一年もの間、逃げ続けた。なぜこんなときに、思い出したのだろうか。
「後でまた、会える」
そうだ、同じなのだ。
共に逃げようと誓った恋人を置いて一人その場を離れる主人公が、泣きはらした寝顔にかけた言葉は、一字一句同じものであった。
権力を握っていた人間の失脚によって、逃走劇は幕を閉じる。しかし、主人公がどうなったのかは、誰も知らない。生きているのか死んだのか、真相は謎のまま。ほとぼりが冷めた後、恋人は思い出の地を巡りながら主人公を探す旅に出る。電車に飛び乗る後ろ姿が、小説のラストだ。その旅の先に物語の本当の結末があるのだと高安は思う。
主人公が残した言葉はきっと、恋人が会いに来てくれると確信していたからこそのものだ。そうでなければ、今生の別れかもしれない場面であんな台詞は出てこない。彼らは三年もの間愛を育み、お互いに相手と添い遂げようと考えていた仲だった。
きっと恋人は主人公を探し出す。主人公も、何年だって待ち続ける。再会した二人はより深い絆で結ばれ、同じ歩幅で、その後を生きていくのだろう。
自分と斎藤が出会ったのは、たったの数週間前。一緒に過ごした時間は全て合わせても一日に満たない。それなのに、彼らと境遇を重ねている自分がいる。
あの日から、彼らが過ごした月日と同じだけの時が過ぎた。二人が共に生きたように自分たちもできたらと、星の数ほどに思い浮かべた。あのホテルのベッドで見たように、夢にも現れた。だけど、目覚めた世界にいるのは自分だけだった。
(滑稽な話だよなぁ)
紅の引かれた唇を湾曲させる。待ち続ける者と、探しに行く者。はたして主人公は自分と斎藤のどちらだろうか。高安はもう何百回と捲った本の表紙を爪の先でなぞった。
十本ある指の先は全て、可愛らしいピンク色のマニキュアとストーンで飾り付けられている。足の指も同じ色で塗られ、ヒールの先端で存在を誇示していた。
「晶さん」
顔を上げれば、そこに広がっているのは、色とりどりの花で飾られた空間だった。




