桜さく
「あ、さく。今ね駅ついたから迎えにきて」
それだけ言うと、さくの返事も聞かずに電話を切った。
会社からの帰り道。
さくに会いたくなって電話をかけた。
電話越しのさくの声が、とても好き。
でもそんなこと絶対に言えなくて、高圧的にさくを呼び出す。
確か今日は居酒屋アルバイトの日。
どうするかな。
泣きの電話が来るかな。
それならそれで、いい。
でも、さくは来る。
必死に自転車をこいで、私を迎えにくる。
ほら。
駅前の少し上り坂になった道を、顔を真っ赤にしてさくが自転車をたちこぎしているのが見えてきた。
「遅いよ、さく」
汗をだらだらかきながら、ぜーぜーと息をするさくに私は鬼の一言。
「ご、ご、ごめんなさい」
白いシャツの裾で汗をふきながら、さくが謝る。
「じゃ、行こう」
自転車の後ろに座って、さくを促す。
「え、行こうってどこに」
「お花見」
早く早くとさくを急きたてて、自転車は走りだす。
大きな肩。
華奢なくせに肩幅が大きい。
首もだから太い。
風がシャツをふくらませて、さくのかたちのいいおなかが見えた。
痩せすぎず、筋肉質すぎず。
さくの体は私の好みに完璧だ。
少し猫背ぎみに自転車をこぐさくが愛しくて、後ろから腰をぎゅっと抱きしめた。
さくは、何も言わない。
だから意地悪して、背中に頭を預ける。
背中越しにさくの心臓の音が聞こえてくる。
どきどきどきどき。
それはさくのどきどきなのか、私のどきどきなのかわからなくなる。
コンビニで缶ビールを三本と、私の大好きなキャラメル味のポップコーンとさくの大好きな肉まんを三つ買う。
それから桜並木のきれいな川沿いを走らせる。
桜はまだ咲き初めで、人影はまばらだった。
遊歩道の端に自転車を止めて、コンクリートの堤防を下りた。
さくが先に飛び降りて、下で私を受け止めようと手を差し出した。
でも、素直になれない私は一人で後ろ向けに堤防を降りる。
差し出した手の行き場に困ったさくは情けない顔をして私を見る。
しかたないのでその手をつないだ。
手をつなごうってことじゃないんだけど、とかなんとかぶつぶつ言いながらもさくはでへへと笑う。
「お花見にはちょっと早かったね」
缶ビールをあけながらさくが言う。
「来週、会社でお花見があるのよ」
「ふうん」
「さくは?ゼミコンとかでお花見とかしないの。新歓コンパとかさ」
「そういえば、来週あるって」
「じゃあよかったね」
なにが、ってさくの不思議顔。
だって、今年のお花見、さくと一番にしたかったもん。
なーんてことは絶対に言えないので言わない。
3本目の缶ビールは私が、三つ目の肉まんはさくが始末した。
夜はやっぱり少し寒くて、缶ビール2本じゃなかなか酔わなかった。
「さく、飲みなおそう」
立ち上がった私はさくの手をひっぱる。
缶ビール一本でほろ酔いのさくは、ふらふらと立ち上がる。
よろめいた勢いで私とぶつかる。
「さく、重い」
「ご、ご、ご、ごめん」
慌ててさくはとびのく。
「自転車、大丈夫?私がこごうか」
「いいよ、大丈夫だよ。月子さんにそんなことさせられないよ」
だよね。何倍にもして返されるもんね。
「違うよ、そうじゃないよ」
慌てて弁解するさくのほっぺにキスをした。
さくの目がまんまるになる。
それがおかしくて、私は笑う。酔ってるのはどっちなんだか。
そして今度は素直にさくに堤防の上に引き上げてもらう。
さくが私を支える手がぎこちない。
そんなところもどきどきする。
さくといると、空気が薄くなるみたいだ。
さくと出会ったのは街角だった。
チケット買ってくれませんか。
そう声をかけられて振り向くと、学生らしい男の子が自分が一番かわいく見えるだろうと確信を持ってそうな上目づかいで私を見ていた。
「何のチケット」
いつもなら無視して通り過ぎるのに立ち止まってしまったことに意味はない。
「バンドやってるんです。今度の土曜日の夜にクラブワイズで」
バンド。
あ、なるほどね。
「あんたが歌うの」
すると相手は少し眉を寄せて下を見た。
「いえ。キーボード弾いてます」
キーボード。
これまた地味な。
「ふうん。いくら」
そういうとぱっと顔を輝かせた。
「ありがとうございます」
ランチ、二回分のチケット。
彼は、何かわからないことがあった時のために連絡先書いときますね、と言ってチケットの裏にケイタイの番号とアドレスを書いて寄こした。
とても汚い字で、桜井ミチルとどこまで本気だかわからない名前が書かれてた(とっても本名だったと知ったのはもっと後)。
新手のナンパじゃないの、と同僚に言われて我に帰った。
「ナンパ」
「明らかに年下でしょ。いいじゃん。このバンドってボーカルの子がやたらキレイで有名なんだって」
「ふうん」
「で、ひとりで行くわけ」
「しまった。一枚しか買ってない」
「ま、しょうがないわね。行っといでよ」
「え、ついてきてくれないの」
涼子はにっこり笑って手を組んだ。
「ごめんね。その日はデートなの。私のスケジュール押さえるんなら一週間前には言ってくれないと」
あ、そう。
じゃあしょうがない。
土曜日の夜の一人歩きなんてまったく気が進まないけど、どうせなんの予定もないし家で酔いつぶれるよりちょっとは外に出て健全にクラブとかで音楽を聴いたほうがいいに決まってる。
予定ができると、少しほっとする。
土曜日まであと二日。
頑張って乗り切ろう。
ライブのチケットをカバンにしまって私は会社の窓の外に広がる青空を見た。
いつだってお天気。
無駄にお天気。
クラブワイズへ来るのは二回目だ。
前回いつ誰と何の音楽を聴きに来たのか記憶はあいまいだ。
ひとりでなかったのは確か。
地下への階段を下りて扉を開けると、ぼんぼん重低音がおなかに響いてきた。
客の入りは7割くらい。
客層ははっきりいって私より平均5歳は若い。
バーでビールのグラスを受け取って、隅の壁にもたれてステージを眺めた。
ボーカルの子がやたらと美形だった。
ホールの女子のほとんどが彼目当てらしい。
彼女達の会話から(叫び声から)彼の名前がハルだというのがわかった。
歌は、ふつう。
でもひとりよがりじゃなくて、ちゃんと聴く人に伝わるような歌声だ。
楽器の音に消されることなく、ちゃんと言葉のひとつひとつが聞こえてくる。
ロックすぎず、フォークすぎず、パフォーマンスが派手すぎず、地味すぎず。
うん、いい音楽だ。
「君もハルが目当て?」
突然言われて、自分への言葉だと自覚するのに時間がかかった。
薄暗い照明の中、明らかに酔っぱらってると思われる様子。
もうナンパとか面倒なんですけど。
「あんなやつ、顔だけじゃねえかよ。歌とかたいしたことないじゃん」
絡み出した。
周りにいたハルファンの女子が厳しい目線を男に向けてくる。
もうやだ。
「こんなやつ放っといてさ、俺と呑みに行かない?」
そういって私の腕をつかもうとする。
勘弁してよ。
「ちょっと」
やめてよ、と言おうとしたらマイクの声が響いてきた。
「やめろよ」
びっくりしてステージを見ると、マイクを持ったハルがこっちを見ていた。
いつの間にか音楽は止んでいて、ほかのメンバーがあーあといった顔をしていた。
「その手離して、とっとと出てけ」
ハルにそう言われて私の腕をつかんでいた男は顔を真っ赤にして手を離し、何も言えないまま出て行った。
「じゃ、続けます」
何事もなかったように歌が始まった。
周りの女子の厳しい視線は今度は私の方を向いている。
この女、誰よ。
ハルのなんなの。
いえ、赤の他人です。
初対面です。
だから許して。
本当は私も帰りたかったけど、でも私は何も悪いことはしてないんだしなんで私が逃げるような真似をしなくちゃいけないのよと思って踏みとどまった。
変な意地。
大人なんだし。
なんでもない振りをして、最後の歌が終わるまでじっと立ってた。
最悪の居心地の中で。
正直ハルの歌も、ほとんど耳に入ってこなかった。
ライブがおわって、周りにいた女子たちも帰って行き、やっと私は動くことができた。
変な所に力を入れていたみたいで、体中がカチコチだった。
よっこらしょ、って言いたくなるのをこらえて扉をあけた。
その後ろから声が飛んできた。
「ちょっと待って」
誰だっけ。
ああそうだ、私にチケットを売りつけた子だ。
桜井ミチルだ。
「さっきはごめんなさい。あいつ、しょっちゅううちのライブ荒らしにくるんだ。何もされませんでしたか」
そういえばライブ中の彼を少しも覚えていないことが少し後ろめたかった。
美しいハルの顔ばかり見ていたなんて、告白できない。
いや別に何もどうもとか口になかでもごもご言って、じゃあ、と今度こそ帰ろうとした。
「ちょっと待って。俺達これから打ち上げなんです。よかったら一緒に行きませんか」
「え」
キーボードとか言ってたような。
なんか申し訳なくなってきた。
「お礼とお詫び」
気後れするような桜井ミチルの健気な笑顔を前にして、私は開き直った。
何を気にする必要があるのだ。
お礼とお詫びだって桜井ミチルも言ってることだし。
家に帰ったって飲みなおすだけだし。
それならこの子たちと一緒に飲んだ方がましってもんさ。
失うものの何もない女は強い。
「じゃあ、遠慮なく」
桜井ミチルの笑顔が弾けた。
打ち上げ会場となったのは近くの居酒屋だった。
広い座敷を借りきって、得体のしれない男女が酒宴を繰り広げていた。
きっと彼らからしたら私も得体がしれないんだろうけれど。
「来てくれて、うれしかったです。ありがとう」
桜井ミチルが私の横でちょこんと正座している。
「でもせっかく来てくれたのに、嫌な目にあわせちゃってすみませんでした」
頭を下げる。
「もういいよ。気にしないで。そんなことより桜井ミチルって本名なの」
「あ、はい。みんなにはミッチーって呼ばれてるんだけど、あんましそう呼ばれるの好きじゃなくて」
「そうなんだ。かわいい名前だねとかいわれるのも嫌なんだ」
「はい」
悔しそうに唇をかむ。
「あの。また今度も来てくれますか」
「え」
「ライブ。来週、また別なとこであるんですけど」
「ふうん」
正直面倒だった。
でも、ハルには会いたい気がする。
それを彼に言うのは酷か。
「今度は、チケット、プレゼントします。俺」
一生懸命な姿がけなげで、ちょっとほろりと来た。
やばい。酔ってきたか。
「ありがとう。じゃあもらうね。さく」
「さく?」
「うん。桜井だから、さく。かわいくない?」
「いや、なんかそれってちょっと前にはやった映画の主人公の名前じゃあ」
「なによ、不満なの」
「いえ、そんなことないです。うれしいです」
「ミッチーって呼ぼうか」
「いえ、さくがいいです」
いじめるのはそれで終わりにした。
さくは私を送っていくと言ってきかなかったけれど、もちろん断った。
何かを期待されても困るし、面倒なことは避けたかったからだ。
居酒屋の前で、さくが思いつめたように私のアドレスを聞いてきたので、仕方なく教えてあげた。
それだけ。
でも、ライブの三日前には律儀にメールが入ってきた。
ライブハウスの場所やら始まりの時間やらを懇切丁寧に知らせてきたのだ。
行くと約束したからには、女に二言はない。
メールで簡単にチケット寄こせ、とさくに送る。
私からのメールにさくは律義に間髪入れず返信してくる。
返信にはびっくりマークがいっぱいついていて、それで私は笑った。
さくが待ち合わせに指定してきたスタバでコーヒーを飲んでいると、目の前のガラス越しに猛スピードで店に飛び込んでくる姿が見えた。
さくだ。
「ごめんなさい、遅くなって」
時間通りなのに。
「私がちょっと早くに来てコーヒー飲んでいただけだから」
「あの、月子さん、腹へってませんか。俺ゼミのせいでお昼食い損ねちゃって」
「いいけど」
さくは喜び勇んで私をスタバの上にあるカレー屋に連れて行った。
カレーなんて久しぶりだ。
「さくって、学校で何勉強してるの」
「なんか、都市計画とかそんなの」
「ふうん」
それ以上聞いても絶対にわからないだろうから、聞かなかった。
「月子さんは大学生の時、学部どこだったの」
「文学部。なんかなんにも勉強してない感じでしょ」
「そんなことないよ」
「ううん、文学部って積極的に文学やりたい子なんて少数でね。それ以外は行くとこなかったり行きたいとこに行けなかった子ほとんどなんだよ」
「そうなの」
「女子ばっかだから女子校みたいだし」
「へえ」
さくは私の話をにこにこしながら聴いている。
「実は今度、俺も歌わせてもらうことになって」
さくはとても嬉しそうに言った。
「そうなの」
「ハルさんは学校の先輩で、俺、助っ人としてバンドに入れてもらってたんですけど、本当は自分で歌いたくて」
「ふうん」
「月子さんに聞いてもらえるなんて、すごく嬉しい」
さくのストレートな言い方が面白くて笑った。
「楽しみだね」
そう言うとさくは照れてうつむいた。
初めて聞くさくの歌は、心に染みて泣けた。
ピアノを弾くさくの指がライトの中できれいだった。
あの指に触れたい。
マイク越しじゃない、さくの声が聞きたい。
さくが、ほしい。
久々に涼子と呑みに行った。
さくとは行けないような大人なバーへ。
涼子とは酒量が同じくらいなので、安心して飲める。
「今度はいたいけな少年をたぶらかしてるわけね」
さくとお花見をした話を涼子にすると、氷のような声で返された。
「たぶらかすってなによ」
「知らないよ、犯罪だよ」
「さくはもう二十歳過ぎてます」
「バイト休ませて、アッシーさせて、それでどうしたのよ」
「家まで送ってもらってばいばいしたよ」
「それだけ?それだけなの?彼の奉公への報いは?」
「なによ報いって」
「キスくらい、してやったんでしょ」
「ほっぺなら」
「ほっぺ!ほっぺですって!中学生か」
殴られた。
「若い女の子がいっぱいいるわけでしょ。不安じゃないの」
「なんでそんなわかりきったことを聞くかな」
ごめんごめんと涼子は手刀を切る。おっさんか。
さくより4つ年上の私としては、そりゃさくの周りの女子大生という存在は気にならないわけがない。
こんな変な年上女に振り回されるより、同世代の話の通じる女子と一緒のほうが楽しいだろうにきまってる。
そのネガティブな思想が私をさらに高飛車にさせるのだ。
どんな無茶を言ってもさくはきいてくれる。
そういうことでしか自分を安心させられないのだ。
歪んだ愛情。
さくは、どうなんだろう。
どう思ってるんだろう。
考えないようにしてるけど、でもとても気になる。
さくは。
さくは。
「これ、見た?」
そうそう、と涼子がかばんから雑誌を取り出す。
「マイナーな音楽雑誌なんだけどさ。びっくりしちゃったよ」
私もびっくりする。
なんと表紙がさくだったのだ。
「今までハルちゃんがこういう雑誌の表紙になったりはしてたじゃない。でもさくちゃんがってのは初めてじゃない?」
二回目のライブは涼子も一緒に連れていった。
それ以来ハルの写真を携帯の待ち受けにまでするほどの熱烈なハルファンだ。
私がライブに行っていない間も、涼子はかなり真面目に通っていたらしい(さくが言っていた)。
私の友達であることをふりかざし、かなり強引にハルに近づいたらしく、若いハルファンとトラブルになったことも少なくないらしい(さくが言っていた)。
雑誌の表紙には、カメラを向けられて恥ずかしげにこっちをみるさく。
照れると笑ってしまうさくの、その一歩手前の表情だ。
「かわいいよね、さくちゃん。最近歌も評判いいし、こりゃブレイクするかもよ」
うれしいけど、さびしかった。
「知らないよ、ほかにさくちゃんの熱烈なファンとかあらわれて、さーってさらわれちゃっても」
またそんな風に脅す。
バーを出て駅へ向かう途中、居酒屋の前でたむろする学生たちに遭遇した。
今はどこもかしこも新歓だらけで、学生だらけだ。
だいじょうぶか。
さくの声だ。
姿を探すと、いた。
髪の長い女の子の背中をさすりながら、さくが彼女に声をかけている。
彼女の手はさくの手を握りしめていた。
心臓を冷たい手で触られたみたいになる。
「涼子、行こう」
涼子をせかして、学生の群れを横切ろうとする。
さくに気づいていない涼子は、月子、と私を呼ぶ。
目の端でさくがこっちに気づいたのが見えた。
私はあわてて怪訝な顔をする涼子の手を引いて走り出した。
「ちょっと待ってよ月子。なにどうしたのよ」
ぶーぶー言う涼子を無視して、駅までたどり着く。
「さくがいた」
はーはー息をしながら涼子に言う。
「え、嘘。なんで声かけなかったのよ」
「女の子と手、つないでた」
「嘘」
一気に酔いが回ってきた。走ったせいだ。
「う、きもちわるい」
「え、嘘、やだ。大丈夫」
涼子が慌てて私を駅のトイレに連れていく。
そこはとても清潔と呼べるような空間ではなくて、かびくさいようなアルコール臭いような、よけいに気分が悪くなるような匂いでいっぱいだった。
涼子に私の無様な様子を見せるのは本意ではないので、彼女にはトイレの外で待ってもらうことにする。
お酒飲んで吐くことになるなんて久しぶりだ。学生以来かも。
学生時代はそれがノルマであるかのように毎晩酒盛りをしていた。
その途中でいっぱいいろんな人といろんなことを経験してきた。
遊びという遊びは合法的な中でやりつくしてきた感がある。
さくは、その怒涛の中に今いるのだ。
嵐を抜けて穏やかに生きてる私とは、やっぱり世代が違うのだ。
なんてことを便器に向かって考えていた。
ようやくトイレから出ると、そこにはさくがいた。
「涼子は」
化粧の禿げた顔が恥ずかしくて、私は頬を押さえた。
「あ、先に帰るからって電車乗ってった」
げ、まじで。
「なに、涼子に呼び出されたりでもしたの」
「違うよ。さっき、月子さん見かけたから。なんか駅に向かって猛ダッシュしてて。それで電話したんだけどつながんなくて。気になったから追いかけてみたんだ」
それに俺涼子さんに番号教えてないし、と呟く。
「あ、そう」
ベンチに座り込んだ私を、さくは心配そうにのぞきこむ。
「だいじょうぶ。月子さんがこんなになるなんて珍しいね」
「ちょっと走ったから、気分が悪くなっただけ」
「なんで走ったの」
そんなこと言えるか、ばか。
「あ、電車の時間が間に合わなかったとか。でも、最終、まだだよね」
すっとぼけたことをいうさくに腹が立って、大きな声を出してしまった。
「そんなことより、さっきの子はいいの」
「え」
「なんか具合悪そうだったじゃない」
「あ、ああ。うん、大丈夫、だと思うよ。俺、月子さん追っかけてきたから後のことよくわかんないや」
「もう、ばっかじゃないの」
「え、なんで。月子さん、何怒ってんの」
えーん、と泣き出した私にさくはおろおろするだけだ。
だって、手、つないでたじゃない。
そうよそうよ、たったそれだけのことがショックだったのよ。ばか。
さくがほかの女の子といっしょのところなんて初めて見たんだもん。
それがショックで悪い?
もちろん、さくには言えない。
さくは私がどうして泣いてるのか分からずしばらくおたおたしていたけれど、隣に座ってそうっと私を抱きしめた。
びっくりした。
今まで私がさくを抱きしめたことはあっても、その逆はなかったから。
びっくりのあまり涙も引っ込んだ。
「よくわかんないけど、俺のせいだったらごめん。そうじゃないんだったら、もうちょっとこうしてていい?」
「さくのせいだよ」
えっ、とさくは私から離れようとする。
さくのシャツをひっぱって、それで涙をふく。
「さくのせいだけど、もうちょっとこうしてて」
おそるおそるといった感じでさくは私の肩に腕を回す。
首の下に頭をのせると、ほっとしたように腕に力をこめた。
さくの広い肩幅が好きだ。
耳元で囁いてくれる声が好きだ。
ごめんね、ってわけもわからず謝ってくれるさくが大好きだ。
家まで送るというさくの申し出を固辞した。
これ以上さくにこの姿を見られたくない。
口紅禿げてるし。
髪もぼさぼさだし。
そう言うとさくはちょっと笑った。
電車の窓から手を振るさくを見た。
あ、雑誌のこと、言うの忘れちゃった。
なんだか気まずくて、しばらくさくに電話できなかった。
でもやっぱり声が聞きたくて、1週間くらいしてから必死の思いでさくに電話をかけた。
のに。
つながらなかった。
留守電の声がむなしく聞こえるだけ。
こんなこと、今までに一回もなかった。
授業中でも、バイト中でも、夜中でも早朝でも、電話したらさくは必ず出てた。
きっとライブ中は出ないだろうけど、その時間に電話をかけたことがないので、やっぱり電話に出ないさくなんて初めてだ。
どうしたんだろうと焦って何回か掛けてみたけど、やっぱりつながらなかった。
大した用事があるわけじゃないのに、何回も電話をかけるなんて、と自重しようとするんだけど、焦りは消えなかった。
やっとつながったのが、最初にかけてから2時間後。
「あ、月子さん。ごめんね、今ちょっと話せないんだ。またかけるから。ごめんね。じゃ」
とっても素気なく切られてしまった。
あれ。
どうしたんだろう。
何してるんだろう。
何か大事な用事なのかな。
ライブとか、リハーサルとか、また雑誌の取材とか撮影とか。
そうだよね。
さくだって忙しいよね。
学生だし。
バイトだってあるし。
さらにバンド活動もあるし。
うわ、今まで私かなり無神経にさくを呼び出してたりしたけど、それって結構かなり奇跡的なんじゃない。
今まで呼んだら必ず来てくれてたことの方が奇跡なんだよ。
そうだよね。
そうだよね。
「で、落ち込んでるわけ」
煙草をふかす涼子の冷たい視線を甘受する。
何をいまさら。
はい、おっしゃる通りです。ごもっとも。
「ていうかさ、それでなんでさくちゃんからの電話を無視してるわけ。かわいそうじゃない」
「だってさ」
「たかが一回忙しくて電話に出れなかっただけでしょ。それでふつう着信拒否する?むごすぎるわ」
「だってさ」
「だってじゃない!あんたね、自分をナニサマだと思ってんの。そんなことできる立場なの?」
「そうだけど」
うじうじしてる私に涼子は盛大に溜息をつく。大量の白煙とともに。
「はー、もー、あんたって子はじれったいわね。会いたいんでしょ。好きなんでしょ。そんな態度じゃうまくいくもんだってこじれるわよ」
そうだけど。
「怖いんだもん」
さくに断られることに慣れてないからさ。
たった一回の拒否が、もうすべてを拒絶しているように感じちゃうんだよ。
もしまた電話して忙しいからまたね、とか言われちゃったら。
たぶん、もう、立ち直れない。
「あまあまのあまあまのおおあまね」
たばこの火を灰皿のふちでぎゅっぎゅっと消して、涼子はふんっと鼻を鳴らす。
「あんたなんて、そうやっていつまでもうじうじと悩んでなさい。さくちゃんだって、あんたなんかより、ほかの若い健全なこのほうが楽に付き合えるってもんだわ」
反論できないから、余計につらい。
その日はなんとか無事仕事をこなして会社を出た。
はー。
溜息をついて駅に向かおうとしたら。
縁石に腰かけた、さくがいた。
くるっとまわれ右したくなったけど、できなかったのはさくが怒った顔をしてたから。
「ひさしぶりだね、さく」
私の前に立つさくの顔をまともに見れなくてさくの着てるグレイのパーカばかり見てた。
「なんで、電話に出てくれないのさ」
「えーと、忙しくて」
しらじらしい嘘に、さくは泣きそう顔になる。
「もしかして、怒ってるの」
「え、なんで。怒ってないよ」
怒ってるのはさくのほうでしょ。
「電話、ちゃんと話できなくて切っちゃったから、怒ってるんでしょ。あの日、何回も電話くれてたよね。なにか大事な話があったんでしょ」
恥ずかしくて顔がほてるのがわかった。
違う。
大事な話なんてなかった。
ただ、さくが電話に出なかったから。
それがショックだっただけ。
何も言わない私を持て余すさく。、
沈黙の後、大きくため息をついた。
「本当に月子さんは思ってること何にも言ってくれない人なんだね」
びっくりした。
「そんなことで諦めたりしないってずっと思ってたけど、でもそれもしんどくなってきたよ」
つきん、と胸が痛くなった。
泣くもんかと思っても、ぽろぽろ涙があふれて止まらなかった。
歯をくいしばって、口がへのじになるのがわかっても、声が出てしまいそうだった。
こんな人前で泣くなんて。
しかもさくの前で泣くのは2回目だ。
そんな不覚があってはならない。
眉を寄せたさくは、私の手を引いて近くの公園に連れて行った。
「月子さん。言ってくれなきゃわかんないよ。月子さんがどうしてほしいのか。俺、超能力とかないし、月子さんの心とか読めないし」
こくこくと私は頷く。
言いたいことは一つだけ。
さくが好き。
それだけ。
「あのね」
さくがやさしい顔で私を見る。
「さくが、好きなの」
さくの顔がぱっと輝く。涙でぼやけてよく見えなかったけど。
そしてためらうことなく私を抱きしめる。
「俺も、月子さんが好き」
えーん、とやっぱりさくの腕の中で泣いてしまう。
あの日、さくが電話に出れなかったわけが、公園の裏に止めてあった。
青い小さなクルマ。
「免許取りに行ってたんだ。超最短コースで」
「どうして」
「だって、月子さんに呼ばれた時自転車じゃ不便だし、家に帰る月子さんを電車でみおくったりするの、もういやなんだ」
またしても、えーんとさくの胸で泣いてしまった。
「月子さんがこんなに泣き虫だなんて知らなかったよ」
私が泣くのはさくの前だけだよ。
なんてことを言ったらきっと調子にのるだろうから、言わない。
どきどきしてさくを見つめた。
「世界中が敵になっても、俺は月子さんを守るよ」
どんなつらいことがあっても、月子さんを泣かせるようなことはしない。
俺は月子さんが大好きだ。
大声で叫んだっていい。
大好きだ。