王国は切断された!! 〜依存関係を理解しない運用者の障害報告〜
少し真面目に書きました……
ビルゲート王国は、繁栄していた。
王都には魔導灯が夜を退け、各領へと伸びる魔導通信は寸断なく情報を運び、超大型の魔導モニターには様々な情報映像が映し出されていた。
巨大な転移門は人と物を滞りなく行き交わせており、かつては想像の域にあった利便が、今や当然のものとして人々の暮らしに根付いている。
そのほとんどを、ひとりの女が支えていた。
フィオナ・アイトロン。
辺境伯家に生まれ、十四にして二進法を基礎とした魔導演算機を完成させ、十六で王太子トランク・ビルゲートの婚約者となった。
そして王妃教育の名のもとに王宮へ入り、十八で婚姻を結ぶ——
だがそれは、白き婚姻であった。
公の場に立つのは第一側室。社交も儀礼も彼女が担い、王太子は二人の側室と三人の愛妾に囲まれて日々を過ごした。政務はほとんどがフィオナの手に委ねられ、彼女は黙してそれをこなした。
婚儀の夜、王太子は一度だけ寝所を訪れた。
「味見くらいはしておこうと思ってな……」
ニヤニヤと軽い言葉でそう言った男に、フィオナはわずかに視線を向けただけだった。
「——それが殿下のご判断であれば、従います」
抑揚のない声だった。
その反応に、トランクは肩をすくめる。
「つまらんな。少しは抵抗してくれた方が堕としがいがあるのだがな……」
「——今宵はそのような振る舞いを求められてはおりませんので……」
「……ふん、強がりおって——」
口の端を歪めて嘲笑い、襟元を緩めながら一歩踏み出した…その時だった——
扉が荒々しく開かれる。
「殿下!」
第一側室を先頭に、数人の女たちがなだれ込んできた。
彼女は本来、側室に過ぎない。だが王太子の寵愛と、後宮における人脈と婚家の権力を背景に、実質的に正室のごとき振る舞いを許されていた。公の場に立つ役も、社交の表舞台も、すでに彼女が握っている。
正室という名だけが、フィオナに残されていた。
「このような夜遅くに、何をなさっているのですか」
王太子を責める口調と声音ではあったが、その目はフィオナをまっすぐに射抜いている。
トランクは露骨に顔をしかめた。
「何だ、騒がしいな」
「当然でございましょう。名ばかり婚姻で正式な場でもないこの部屋に、なぜわざわざお越しになっているのです」
「……ちょっと気が向いて、今来たばかりのところだ——」
「であれば、長居は無用。すぐにお戻りください」
有無を言わせぬ口調だった。
婚儀に伴う初夜の儀も、本来であれば厳格な作法のもとに執り行われるべきものであった。
しかし王太子の周囲においては、そのような形式はすでに顧みられることもなく、慣習は名ばかりのものとなっていた。
別の側室が、やや柔らかく口を挟む。
「殿下のお立場をお考えくださいませ。軽率な振る舞いは、後々の噂にもなりましょう」
「噂だと?」
「はい。第一側室様を差し置いての行いと見られれば、面白く思わぬ者も出ましょう……」
トランクは舌打ちをした。
「面倒なことを言う。ちょっとしたつまみ食いぐらいいいだろうが?」
「このような生煮えの小娘をつまんだりしてはお腹を下しますわ! 殿下のためでございます、お下がりを……」
第一側室たちは一歩も引かない。
その背後で、取り巻きの女たちがフィオナを値踏みするように敵意に満ちた眼で見ていた。
——排除すべき対象として。
フィオナは何も言わない——
(いかに豪奢であろうと、腐臭を放つ食膳よりは、生煮えの方がまだましだと思うけど……)
——内心ではそう思いつつも、ただ静かに立っている。
……言葉にはほとんど出さないが、割と毒舌なフィオナである——
やがてトランクは手を振った。
「——チッ……分かった、分かった。今日は引く」
そしてフィオナに向き直り、下卑た笑みを浮かべて捨て台詞を吐く。
「またそのうち、身体が空いたらな——」
そうしてフィオナの返答を待つこともなく、彼は側室たちに囲まれて部屋を出ていった。
扉が閉まる——
静寂が戻る。
フィオナはゆっくりと息を吐いた。
感情の色は、どこにも伺えなかった。
ただ一つ——
ここにおける自らの位置が、明確になっただけであった。
——そして王太子の寝屋への来訪は、これきりであった。
その後もフィオナは何も言わなかった。ただ、与えられた役目を果たし続けた。
魔導理論の構築。通信網の整備。防衛網の確立。各領との連携。王国の骨格そのものを、静かに、確実に組み上げていった。
だが、その裏には、もうひとりの男がいた。
まだフィオナが十三に満たぬ頃、彼女は領都の片隅で、ひとつの魔導具に目を留めた。粗削りではあったが、理に適った構造を持つそれを手にしたとき、彼女は製作者の名を問うた。
バイトノール・ギガビット。
平民の少年は、呼び出しにも怯むことなく現れ、自らの設計を簡潔に語った。過不足のない言葉であった。
「その形、ちょっと無駄が多いわ」
「え……あ、いや、仕方ないだろ。素材が足りなくて」
「なら、こっちをこうして……計算で補えばいい」
「……そんなこと、できそう……だな?」
「できるわ。たぶん」
「……じゃあ、やってみようか」
その場で示された改良案に、彼は即座に応じた。フィオナの理論に、彼の手が追いつく。彼の発想に、フィオナが道筋を与える。
その応答の端々には、この時代の水準を超えた体系立った知識がにじんでいた。フィオナ自身もまた同様であり、互いに口には出さずとも、それが単なる才覚ではないことを理解していた。
理を組み立てる者と、それを形にする者——
まるで別の時代、別の世界において"技術"を扱っていたかのような感覚が、二人のあいだには自然と共有されていた。
二人は身分の差を越え、ただ"技術"のために言葉を交わし続けた。
小さな工房から始まった試みは、やがて演算機となり、通信機となり、領都を結ぶ"網"の原型となった。
——それが始まりであった。
だが、その成果は隠しきれるものではなかった。
王家はそれに目をつけ、名目を整えた。すなわち、婚約である。
王太子妃として王宮に迎え入れることにより、その"技術"を王家の内に取り込む——それが表向きの理由であり、実のところは支配の手段であった。
当時の辺境伯家に拒む余地はなかった。
婚約を告げられたとき、フィオナはただ静かに頷いた。
バイトノールは何も言わなかった。
ただ、その日を境に、二人のやり取りはより慎重なものへと変わった。
表には出さず、記録にも残さず、それでも途絶えぬように。
いずれ必要になると、互いに理解していたからだ。
それは反抗と呼ぶには早すぎる、しかし確かに芽吹いていた備えであった。
フィオナが王家に召されてからも二人は、王都と辺境伯領とを繋ぎ、絶えず"技術"を進めていた。
王国が繁栄を極めたのは、必然であった。
そして婚姻から三年後——
「もう十分だろう」
ある日、王太子は言った。
机の上には、整然とまとめられた報告書。
——生産量、流通量、人口推移、防衛稼働率。すべてが上向いている。
「お前の役目は終わりだ、フィオナ。離縁とする」
淡々とした口調であった。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「慣習だ。三年、子がなければ離縁は認められる」
フィオナはわずかに目を伏せた。
「……その慣習は、本来、夫婦としての営みがあった上でのものと理解しておりますが——」
「なんだ、抱かれたかったのか?」
トランクは下品に嘲笑う。
「結果として子がいない。それで十分だ」
「……そうですか」
「不満か?ならば……」
「いえ。殿下のご判断であれば——」
王太子のことばに被せるようにフィオナは言った。
言葉にするまでもなく、その理は破綻していると分かっていたからである。それに今さら欲情されて押し倒されてはたまったものではない。
離縁は王太子自身の判断であると同時に、フィオナを怖れた第一側室らの目立たぬが執拗な働きかけによるものであろう。
フィオナは、わずかに首を傾け何気なく付け加えるような口調で問うた。
「——維持は可能なのですか?」
「何がだ——」
「現行の魔導網の保守、更新、運用。その他の全てを含めて——」
王太子は鼻で笑った。
「技術者は育っている。お前ひとりがいなくなったところで、もはや何の問題もない」
一拍置き、続ける。
「——それとも、自分でなければ回らぬとでも言いたいのか」
「……いえ」
フィオナは静かに答えた。
「確認です——」
「なら済んだな。すぐに王宮を出ろ」
その言葉に、わずかの躊躇もなかった。
慰謝料の話は出なかった。結納金に関する返還の話もなかった。持ち出せる財も、衣装も、ほとんど許されなかった。
着の身着のまま——
フィオナ・アイトロンは王宮を後にした。
辺境伯領——
帰還したフィオナの姿を見て、アイトロン辺境伯は言葉を失った。
事情を聞き終えたとき、その怒りは静かな形を取っていた。
「……そうか」
低く、短い一言だった。
その場にいた家臣たちも、誰ひとり声を発しなかった。
ほどなくして、バイトノールが呼ばれた。
扉が開き、彼が室内に入る。
フィオナと視線が合う。
「無事で何よりだ」
「ええ——」
短いやり取りであった。
それ以上は続かない。
話すべきことは、山のようにあったからだ。
権限の整理。魔導機器の管理。各領との接続状態。王都側に残した系統の切り分け。
五年の間、密かに研ぎ澄ませてきた牙をむき出しにするときが迫ってきたのだ。
個人的な言葉を挟む余地はなかった。
それから半年——
辺境伯領は静かに動いた。
外から見れば、何も変わらぬように見えた。交易は続き、通信は保たれ、王国は依然として機能していた。
だが内側では、すべてが再構築されていた。
中枢は辺境伯領に集約され、各領との接続は再認証され、権限は整理され、制御は一本化されていた。
もとより、これら魔導機器および魔導網に関する一切の権利は、フィオナ・アイトロン個人に帰し、辺境伯家の名において管理されていたものである。王家がこれを用いていたのは、あくまで婚姻を前提とした貸与契約に基づくに過ぎなかった。
ゆえに、その婚姻が一方的に破棄された以上、契約もまた効を失う。
残されるのは……権利の所在は辺境伯家にある——という事実のみであった。
そして——
「アイトロン辺境伯家は、本日をもってビルゲート王国より独立する」
フィオナの姿や声が、各地の巨大モニターに映し出された。
その瞬間だった——
王都の魔導網が、沈黙した。
通信が途絶える。
灯りが消える。
転移門が停止する。
城門は開かず、指示は届かず、兵は動けない。
「なぜだ! なぜ動かぬ!」
王太子トランクは怒号を上げた。
だが応える者はいない。
その混乱の最中、再びモニターが光を帯びる。
——映し出されたのは、王太子自身であった。
酒に溺れ、女に囲まれ、政務を嘲り、責務を放棄する姿。
暴言、嘲笑、無関心。
フィオナが王宮に在籍した期間、日々記録されていたものが、そのまま流された。
ざわめきが広がる。
やがて、それは怒りに変わり、そして冷たい断絶へと変わった。
貴族たちは沈黙し、やがて一人、また一人と立場を変えた。
——王都は孤立した。
「止めろ!!……こんなもの……!」
トランクは叫ぶ。
だが、止まらない。
彼には、それを止める手段がなかった。
——何ひとつ、持っていなかったからだ。
やがて映像は消え、代わりにフィオナの姿が映る。
——ただ静かに、そこに立っていた。
「……なぜだ」
誰にともなく、トランクは呟いた。
答えは、すぐに与えられた。
「——あなたは……何一つ築いていない」
それだけだった。
それ以上の言葉はなかった——
その後、各領は相次いでアイトロン辺境伯家の独立を支持し、そのもとに連なっていった。
魔導機器の維持と運用、そして王国全土を結ぶ魔導網の制御に関わる権限と能力が、王家ではなく辺境伯家にこそ存するという事実が、もはや隠しようもなく示されたからである。
機能を失った王都と、なお滞りなく稼働を続ける辺境伯領。その差は明白であり、各領にとって選ぶべき側は自ずと定まっていた。
かくして王国は、抗うこともかなわぬまま、辺境伯家を中核とする緩やかな連邦へと移行していった
ビルゲート王家は、名ばかりの存在として取り残され、やがて影を薄くしていった。
騒動が収まった頃——
辺境伯領の一室。
フィオナは書類から目を離し、静かに息を吐いた。
「……これで、一段落ね」
「ああ」
対面に座るバイトノールが応じる。
半年以上の間、幾度となく顔を合わせてきたが、こうして何にも追われず向き合うのは初めてだった。
「——これからどうする……?」
彼が問う。
「続けるわ——」
フィオナは迷いなく答えた。
「この体制を整える。まだまだ不備は多いもの」
「……そうだな」
短く同意が返る。
しばしの沈黙。
やがて、バイトノールが口を開いた。
「俺は……最初から決まっている」
フィオナは視線を上げる。
「お前とやる——」
それだけだった。
飾りも含みもない。
「……そう」
「何を……?」とは問わない——
フィオナはわずかに目を細めた。
「なら、形も整えるべきね」
「ああ……」
「——婚姻のことよ?」
「そのつもりだ」
間を置かず、肯定が返る。
フィオナは一度だけ視線を外し、すぐに戻した。
「合理的ね。統治上も都合がいい」
淡々とした言葉。
だが、そこで終わらせなかった。
ほんの少し上目遣いで確認するように——
「それだけでは…ないのでしょう?」
バイトノールは答える。
「……それだけでも構わないが——それだけじゃない」
短い言葉だった。
——だが、十分だった。
フィオナは僅かに口の端を上げ頷く。
「なら何も問題はないわ——」
そして、はっきりと言った。
「受けるわ」
それで決まった。
余計な言葉はなかった。甘い囁きも不要だ——
二人の間に必要なものは、すでに積み重なっていたからだ。
白き婚姻は終わった——
そして今……フィオナが選び取った新たな縁が、静かに結ばれようとしていた。
それは飾りではなく、借り物でもなく——
共に積み重ねてきた日々の先に、互いの意志で結ばれる、確かなものだった。




