第八話:奈落の番人
甘い霧が、肺の奥へ染み込んでくる。
二度目の麻酔の匂いは、最初より腹が立った。
一度目は不意打ちだった。
でも二度目は、分かっていて吸わされる。
それが屈辱だった。
陸は床に片手をついたまま、必死に呼吸を止めようとした。
だが身体は勝手に吸ってしまう。
喉が勝手に、命令に従う。
視界の端が、黒く滲み始める。
(……まだだ)
胸の奥で叫ぶ。
声にはならない。
舌が重い。
瞼が重い。
でも意志だけは、まだ折れない。
薄れる視界の中で、ザインの姿が見えた。
膝をついている。
首輪が眩しく光り、痛みで身体が跳ねているはずなのに。
それでもあの男は、歯を剥き出しにして立とうとしていた。
怒号が聞こえる。
声にならない声。
獣の唸り。
その背後に、倒れた女が見えた。
名を捨てた情報屋。
彼女は動かない。
でも目だけは開いていた。
黒い目が、陸を見ている。
焦点は合っていないのに、確かに“見て”いる。
(……秒は作れる)
女の言葉が、耳の奥で鳴る。
数秒。
あの数秒で、陸は跳べた。
跳べたという事実だけが、暗闇に沈む意識の浮き輪になった。
カシウスの影が、陸の頭上に落ちる。
穏やかな声が、淡々と宣告する。
「再教育を」
再教育。
言葉が、冷たい。
人を人として扱わない言葉。
次の瞬間、首輪が熱を持ち、陸の身体ががくんと崩れた。
抵抗しようとした。
でも力が入らない。
意識が溶ける。
世界が遠ざかる。
(リラ……!)
名前を呼びそうになって、喉が詰まる。
声にしたら鎖になる。
でも、鎖でもいい。
今は呼びたい。
暗闇が落ちきる直前。
陸は、どこかで金属扉が開く音を聞いた。
そこへ飛び込んでくる足音。
軽い。
速い。
そして――聞き覚えのある、苛立った息遣い。
「……何をしている」
その声。
氷の刃みたいな声。
冷たくて、短くて。
けれど、胸の奥が熱くなる声。
(……リラ)
陸の意識は、そこで完全に沈んだ。
目を開けた時、光があった。
薄い光ではない。
白い。
痛いほど白い。
陸は反射で瞼を閉じ、次にゆっくり開いた。
天井が見える。
金属。
でも独房の天井とは違う。
清潔だ。
殺菌された匂いが強い。
身体が固定されている。
手首。
足首。
ベルトでベッドに縛られている。
首輪はまだある。
皮膚に食い込む存在感が、呼吸のたびに痛む。
「……起きたか」
声が聞こえる。
横。
陸が顔を動かすと、ガラス越しに誰かが立っていた。
黒い装甲服。
看守だ。
だが、目が違う。
囚人を見る目ではない。
観察する目。
虫を観察する目。
「ここはどこだ」
陸の声は掠れていた。
看守は答えない。
代わりに、ガラスの向こうで別の影が動いた。
リラだった。
陸の胸が、ぎゅっと締まる。
彼女は無事だ。
少なくとも生きている。
白い肌が少し青白い。
だが紫紺の瞳は死んでいない。
むしろ、怒りで濃くなっている。
リラはガラス越しに陸を見た。
ほんの一瞬、瞳が揺れる。
それは安堵だった。
でも次の瞬間には、いつもの仮面が被さる。
「生きてるなら動け」
リラが言った。
短い。
叱るような口調。
でも、声の底が少しだけ震えていた。
「……縛られてる」
陸が言うと、リラは舌打ちした。
「分かってる」
「今、外を片付けてる」
片付けてる。
言い方が物騒で、陸は少し笑いそうになる。
笑える状況じゃないのに。
でも笑いそうになるのは、生きてる証拠だ。
「……ザインは」
陸が尋ねると、リラは一瞬だけ目を逸らした。
その反応だけで、陸の胃が冷える。
「……あいつは」
リラが言いかけた瞬間、警報が鳴った。
部屋の外で。
低いサイレン。
足音が走る。
誰かが叫ぶ。
「侵入だ!」
「隔離区画が破られた!」
リラの瞳が鋭くなる。
彼女はガラス越しに陸へ視線を固定した。
「時間がない」
「いいか、陸」
「今から首輪の抑制が一瞬だけ揺れる」
陸の心臓が跳ねた。
一瞬。
数秒。
また、あの“穴”。
「私が作る」
リラは言った。
冷静すぎるほど冷静に。
でもその冷静さは、必死の裏返しだ。
「その間に――跳べ」
陸は息を呑む。
跳ぶ。
でも手足が縛られている。
どうやって。
「……無理だ」
陸が言いかけると、リラが睨んだ。
「無理じゃない」
「やれ」
命令。
だけど、その命令は陸を信じている命令だ。
陸は歯を食いしばった。
「……分かった」
リラは頷かない。
ただ、踵を返して走り去った。
ガラスの向こうで、操作盤が開かれる。
コードが抜かれる。
火花が散る。
リラの指が踊る。
数秒後、首輪が一瞬だけ冷えた。
熱が消える。
痛みが薄れる。
右腕の内側が、熱を持った。
(来た)
陸は呼吸を整え、意識を沈める。
座標。
遠くじゃない。
今は“ここ”から抜ける座標。
この部屋の外。
隔離区画の通路。
リラのいる場所――いや、リラは動いている。
なら、せめてこの拘束を。
(ベルト)
(外せ)
意識で、金具を切り離すイメージを描く。
跳躍というより、空間のずれを作る。
一瞬の“ずらし”。
青白い光が、ベッドの上で弾けた。
次の瞬間。
陸の身体は拘束ベルトの外側へ“ずれて”いた。
落ちるように床へ転がる。
手首の痛み。
だが自由だ。
足も動く。
「――よし!」
陸は立ち上がり、扉へ突っ込んだ。
だが扉は厚い。
ロックがかかっている。
(くそ)
右腕の熱がまだ残っている。
穴は続いている。
数秒。
まだある。
陸は扉の向こうを強くイメージした。
通路の床。
冷たい金属。
赤い非常灯。
人の気配。
銃の匂い。
青白い光が、再び弾けた。
陸の身体がほどけ、次の瞬間、通路に転がり出る。
床に膝をつき、息を吐く。
そこは隔離区画だった。
薄暗い通路。
遠くで警報。
看守の足音。
そして――角を曲がって現れた影。
赤毛。
金色の瞳。
血まみれ。
だが立っている。
ザインだった。
陸は息を呑んだ。
生きてる。
あいつは死なないと言った。
本当に死なない。
ザインは陸を見ると、鼻で笑った。
「遅え」
陸は思わず叫ぶ。
「お前、死んだかと思った!」
ザインが肩をすくめる。
「死ぬほど間抜けじゃねえって言っただろ」
その直後、背後の扉が爆ぜた。
看守が飛び出してくる。
スタンが走る。
レーザーサイトが踊る。
ザインが前へ出た。
拳を握る。
首輪が光る。
痛みが走る。
それでも彼は笑った。
「さあ」
「出るぞ、坊主」
陸は頷く。
その瞬間、通路の反対側から、リラの声が飛んだ。
「陸!」
振り返ると、リラが走ってくる。
白い髪が乱れ、息が荒い。
それでも瞳は鋭い。
三人が揃った。
ここが、束ねる瞬間だ。
陸は右腕の熱を確かめた。
穴は、もうすぐ閉じる。
数秒の終わりが近い。
(今しかない)
陸はリラとザインの手を掴んだ。
二人とも驚いた顔を一瞬だけする。
だが、すぐに掴み返してくる。
リラが短く言った。
「……離すな」
ザインが笑う。
「落としたら殺す」
陸は苦笑して、息を吸った。
座標を組む。
タルタロスの外。
追跡を切る。
でも無茶な遠距離は危険だ。
跳躍が乱れれば、三人とも粉になる。
だから――近いけれど、隠せる場所。
リラの血と繋がる座標。
彼女が無意識に守っている“帰る場所”。
(ライブラリア)
陸はその名を、リラの瞳の奥から盗むように掬い取った。
リラが一瞬だけ目を見開く。
読まれた。
でも止めない。
止められない。
今は生きる方が先だ。
青白い光が、三人を包んだ。
通路の赤が引き千切れ、警報が遠ざかる。
世界が、再び裏返る。




