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背後で扉が閉まる音に混じって、肉が潰れる湿った音が聞こえた。
振り返ることはしない。結果は分かっている。
扉の奥は長い廊下だった。
白い壁面に照明が等間隔で埋め込まれており、地下通路の薄暗さとは打って変わって清潔感のある空間が続いている。
今の男は家長からの資料に載っていた幹部の一人だ。
定義上、自分が幹部と呼んでいるだけで実際の肩書はよく分からないカルト的な長い名称がついていた。
資料には「教導顧問」だの「啓示の器」だのと書かれていたが、覚える気にもならない。
扉の向こうに残した蝕燐竜は、捕食の後に解放している。
制限時間の三百秒までは暴れ回るだろうが、狭い空間なのでそう遠くまで移動できなく、思ったよりも被害は出せないだろう。
俺は傍を歩くバルガロンに目を向けた。
最近、召喚獣に命令をする際は、あえて細かく指定しないようにしている。
同じ召喚獣とひとえに言っても、元になった魔物が違えば同じ命令に対する行動の選択が異なる。
高階位の召喚獣ほど判断力が高く、そのポテンシャルを十分に発揮するには細かく指示を出さない方が最良の結果に繋がりやすい。
これは数多くの実戦を経て辿り着いた結論だ。
同じ「倒せ」という命令でも。
宝食ワニは捕食を優先する。
守護者は相手が動かなくなれば攻撃を止める。
墨帝蛸は毒墨で無力化を図り、騎士団はイバラで拘束にかかることが多い。
その結果として殺してしまうことはあるが、それは状況が必要としたからだ。
だが、バルガロンだけは違う。
先ほど地下通路で奇襲してきた女性を、バルガロンは即座に殺した。
俺は「殺せ」と命じていない。
あの状況なら、首を折らずとも腕を掴んで引き倒すだけで無力化はできたはずだ。
それなのに、バルガロンは迷いなく殺した。
この悪魔にとって、「守れ」という命令に対する最良の解答は「脅威の完全な殺害」なのだろう。
だから俺はバルガロンに自由を与えず、五体の騎士団に「暴れて破壊しろ」と命じている。
施設を壊し、抵抗する人間を排除しろ、と。
死人は出るだろう。だが、騎士団が必要だと判断した上での結果なら俺は納得する。
騎士団には守護者と同じく、動かなくなった相手を追撃しない傾向がある。
――この悪魔は、危なすぎる。
ゴアデビルの正統進化。火力も判断力も桁違いに上がった代わりに、凶悪性もまた桁違いに増しているように感じる。
こいつの最良の結果には、不必要な殺傷が多く含まれているだろう。
隣を歩く悪魔の横顔を見ても、当然ながら何の感情も読み取れなかった。
考え事をしながら廊下を進んでいると、唐突に放送がかかった。
天井に埋め込まれたスピーカーから、声が響き渡る。
「現在、我々の地に足を踏み入れた探索者の不届き者が一人います――」
初めは気がつかなかった。
施設内の放送設備を煌矢の人間が使っているのだと思っていた。
だが、その声には聞き覚えがあった。
落ち着いていて、不自然なほど耳に心地良い響き。
長々とアナウンスを続けているその声は、青木のものだった。
透明化した状態で施設内を単独行動し、放送室を見つけて占拠したのだろう。
わざわざ放送をかけている理由が分からなかった。
潜入中に自分の存在を施設中に知らせるなど、普通に考えれば愚策だ。
だが、長々と続けた警告放送の最後の一言で全てを理解した。
「……――しかし、ここから誰も脱出出来ないので、必ずや捕まえます」
脱出できない。
青木がわざわざ放送で伝えたかったのはその一点だ。
これは施設全体への無差別の幻覚だ。
青木の遺物は「声を聞かせた者に幻覚を見せる」。
放送設備を通じて施設内の全員に声を届ければ、全員が幻覚の対象になる。
「脱出できない」という暗示を含んだ幻覚が、この放送を聞いた全ての人間にかかっている。
俺も例外ではなかった。
振り返ると、先ほどまで確かに存在していた帰り道の扉が消えていた。
代わりに、白い壁がそこにあるだけだ。
ただの幻覚であることは理屈では分かっている。
実際にはあの扉はまだそこにあるはずだ。
だが身をもって知っている。青木の幻覚は「分かっていても抗えない」のだ。
術中に嵌っている限り、俺はあの壁を扉だと認識することができない。
つまり、俺も含めてこの施設内の全員が、今この瞬間から脱出不能になっている。
声さえ聞こえれば何でもいいのか。
スピーカー越しでも効果があるというのは、知っていれば恐ろしい運用だ。
一番の懸念だった遺物による転移脱出を防いだのは、良い働きだった。
俺はバルガロンを伴い、廊下の先にある扉を開けた。
扉の向こうは、広い空間だった。
ここに辿り着くルートが他にもあるのか、左右の壁に幾つもの扉が並んでいる。
そして正面の壁には、一際大きな両開きの大扉が一つ。
扉の表面には金と白で装飾が施されており、他の扉とは明らかに格が違った。
バルガロンに大扉を開けさせた。
重い石の扉が軋みながら左右に開いていく。
中は教会のような空間だった。
高い天井。左右に並ぶ長椅子。正面には祭壇のような台座がある。
その教会の中央に向かって、何十人もの人間が跪いて祈りを捧げていた。
全員が白い衣服を纏い、頭を垂れ、何かを唱えている。
声にならない祈りの囁きが、広い空間の中で低く反響していた。
俺が入場してやや間があった後、全員が一斉にこちらを振り返った。
動きが揃いすぎている。一人ずつ気づいたのではなく、全員が同じタイミングで顔を上げた。
そして、拍手が起きた。
何十人もの人間が、一糸乱れぬ拍手で俺を迎えている。
祈りから拍手への切り替えが、一切の淀みなく行われた。
訓練された動作だ。
「こんなに拍手を貰うのなんて、学生の発表会以来だぞ」
俺は軽口を叩いたが、返ってくるのは拍手だけだった。
全員の瞳が俺を見ている。
だがその目には、敵意も恐怖もなかった。
何を考えているのか読み取れない、空虚な瞳がずらりと並んでいる。
拍手が止んだ。
祭壇の裏側から、一人の老人が姿を現した。
白と金に縁取られた衣服を身に纏い、背筋を伸ばして歩いてくる。
歳は七十を超えているように見えるが、足取りに衰えはない。
身なりは他の信者たちよりも明らかに上等で、指先まで手入れが行き届いていた。
顔を見た瞬間に感じ取れたのは、欲だ。
歳の割にギラついた瞳。
信仰者の清廉さなど欠片もない、生臭い人間の目だった。
「照れ臭そうにしなくてもよい。これは賞賛なのだから」
老人はにこやかにそう言って、両手を広げて俺を歓迎する姿勢を取った。
まるで賓客を迎えるかのような態度だ。
「このまま皆殺しでいいのか?」
俺は単刀直入に聞いた。
老人は俺の言葉を聞いて、声を上げて笑った。
「できるのか? ここにいる者は全て第三階位以上だぞ、その悪魔一匹でな」
「できるとも」
俺は自信を込めて即答した。
迷いも虚勢もない。ただの事実だ。
老人の笑顔が、一瞬で崩れた。
俺の目を見て、冗談ではないと悟ったのだろうか。
数秒の沈黙の後、老人は表情を作り直した。
先ほどまでの余裕とは質の違う、押し殺したような平静だ。
「興が削がれたの。その者を通してやれ」
老人の一言で、祈りを捧げていた信者たちが一斉に動いた。
中央の通路を空けるように左右に分かれ、人垣が割れていく。
その動きもまた、一糸乱れず揃っていた。
老人は護衛だろう男性二人を伴って、祭壇の奥へと歩いていった。
俺もバルガロンを連れて、割れた人垣の間を悠々と歩いていった。
左右の信者たちの空虚な瞳が、俺の通過を無言で見送っている。
祭壇の奥に、もう一つの扉があった。
老人と護衛が先にその扉を開けて中へ消えていく。
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