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「また水かよ」
魔物を問題なく殺しながら進んでいくと、回廊の先に広い空間が開けた。
その空間は、緑に濁った水で満たされていた。
床面は完全に水没している。
先に進むには、この水場を超えていくしかない。
回廊の出口から向こう岸まで、目測でおよそ五十メートルほどの距離がある。
近くの崩れかけた遺跡の石片を拾い上げ、水面に投げ入れた。
石が水面に触れた瞬間、トプン、と通常の水とは明らかに違う音がした。
水面に広がる波紋の速度が遅い。
粘度がある。
水というよりも、薄いスライムのような粘性を持った液体だ。
駄目だ。この水は明らかに危険だった。
ダンジョンで奇病やウイルスが発生するとは聞いたことがないが、あの粘性と色は生物が浸かって良いものではない。
確実に俺は入らない方がいい。
しかし、左右に迂回路は見当たらなかった。
ここから先へ進むには、この水場を超えるしかない。
俺は天井を確認した。
高さはあるが、赫竜や灰流鳥を出して飛翔するには足りない。
騎士団を回収する。
鎧の重さで緑の水に頭まで沈むことになる騎士団は、ここでは使えなかった。
代わりに黒薔薇の守護者を召喚した。漆黒の巨体が回廊の出口に顕現する。
幸い深さはそれほどなさそうで、体躯の大きな守護者ならば腰程度の水位だ。
これなら問題なく歩いて渡れる。
バルガロンは自前の翼で低空を飛翔しており、天井に翼が触れそうになりながらも、器用に高度を調整して浮かんでいた。
俺は守護者の肩に担いでもらうようにして座り、泥人形も召喚して体を追加で固定する。
守護者の巨大な肩の上に泥人形が展開した粘着面でしっかりと接着され、多少揺れても振り落とされる心配はない。
守護者が一歩ずつ、緑の水の中へ踏み出していく。
巨体の足が水面を割るたびに、粘性のある液体が重い波紋を広げた。
水が守護者の脚にまとわりつくように絡みつくが、守護者の膂力の前ではさしたる抵抗にもならない。
慎重に進んでいく。
向こう岸が少しずつ近づいてくる。
異変に気がついたのは、目に見えた向こう岸までちょうど半分ほどの地点だった。
守護者が前進する時に生まれる波紋とは別の波紋が、横方向から流れてきていた。
一つではない。複数の波紋が、異なる方向から同時に押し寄せている。
このスライムのような液体の水面下で、何かが動き出している。
一匹や二匹ではない。続々と、複数の気配が目覚めるように蠢き始めていた。
「バルガロンッ」
俺は叫ぶように指示を出した。
だが、指示よりも早くバルガロンは既に動いていた。
両手を水面に向けて突き出し、大量の黒い矢を解き放つ。
何十もの黒い針が水面を貫通し、緑の液体の中へ突き刺さっていく。
水面下で何かが崩壊する感触が波紋となって伝わってきた。
泡が浮き上がり、空気が抜けるように水面の一部が陥没する。
バルガロンの矢が水中の魔物を捉えたのだ。
だが数が多い。
バルガロンが撃ち続けても、新たな波紋が次々と生まれる。
俺は守護者の歩みを速めさせた。
まだ半分を超えたばかり。向こう岸まで距離がある。
守護者が大股で水を掻き分けて進む。
粘性のある液体が巨体の動きに抵抗し、地上のような速度は出ない。
守護者の足元が、突然泡立ち始めた。
泡の量が尋常ではない。
足の裏の感触が変わったのが、守護者の体勢の揺れで伝わってきた。
――足場が崩れる。
守護者の巨体が沈み始めた瞬間、俺は判断した。
「投げろ!」
守護者ではなく、近くを飛翔していたバルガロンに向けての指示だ。
バルガロンは即座に降下し、その異様に長い腕で俺の体を守護者の肩から掴み上げると、上空の天井へ向けて放り投げた。
体が宙に浮く。
天井が迫ってくる。
空中で守護者と泥人形を回収する。
光の粒子に変わった二体が消えると同時に、天井に到達する直前で泥人形だけを再召喚した。
俺と天井の間に泥人形のクッションが挟まり、衝突の衝撃を吸収する。
そのまま泥人形が天井に張り付く形で俺の体をキャッチした。
眼下で、緑の濁った水が轟音を立てて階下へと流れ落ちていく。
足場になっていた床が大きく崩落し、瓦礫と共に粘性のある液体が滝のように下の階層へ吸い込まれていく。
その崩れた床の下には、さらに大量の濁った水が溜まっていた。
落ちてくる瓦礫を餌と勘違いしているのか、あるいは単純にこちらに反応しているのか。
下の水面に、大量の歯が並んだ丸い口だけがずらりと並んでいた。
歯だけが輪のように並び、それが何十と水面に浮かんで、落ちてくるものを待っている。
あの緑の水の中にいた魔物の正体がこいつらであろう。
下を見ないようにして、先へ進む。
崩落により元々の空間が広くなったので、灰流鳥を呼び出して背に乗り、向こう岸まで送ってもらう。
短い飛行だったが、足が地面についた時の安堵感はここ最近で一番大きかった。
少し進むと、再び膝下までの水場に出た。
だが今度の水は、先ほどの緑の粘液とは全く違っていた。
透き通るように綺麗で、底の石畳の紋様まではっきり見える。
この神殿に入る前に泳いでいた水と同じ水質に感じた。
俺はバルガロンを飛翔させたまま墨帝蛸と宝食ワニを召喚した。
墨帝蛸の触腕の一本に腰掛けるようにして座り、残りの触腕を前方の通路へ伸ばさせて進む。
七本の触腕が、水面下の壁や床、天井の隙間を探るように伸びていく。
視覚だけでは発見できない危険を、吸盤の感触で先立って察知する偵察の役割だ。
その触腕の一本が、水面下から何かを唐突に持ち上げた。
「今度はクラゲか」
触腕の先に絡みついていたのは、ほぼ透明な傘を持つ水母型の魔物だった。
水中にいた時は全く視認できなかったものを、触腕が先に触れて見つけ出したらしい。
透明な傘の縁から、細い触手が何本も垂れ下がっている。
あの触手に触れれば何が起きるか。考えるまでもなく毒だろう。
俺がバルガロンに命じて殺そうとした瞬間、それより早く動いたものがいた。
宝食ワニが水面から跳ね上がり、墨帝蛸の触腕からクラゲを丸呑みにし、クラゲは跡形もなくワニの顎の中に消えている。
何の魔物かはわからない。
だが透明で水中に隠れるクラゲ型の魔物が無毒であるはずがないと、俺は確信を持っていた。
にもかかわらず、ワニは俺の考えをわかった上でこの行動を選択している。
召喚獣は召喚主に害をなす判断をしない。
ワニが自ら食ったということは、毒は宝食ワニには効かないのだろう。
少なくとも、食う分には。
現に、ワニは何の問題もなく泳ぎ続けている。
背中のクリスタルが、また少し色を濃くした。
そのままの要領で、墨帝蛸が水中のクラゲを触腕で見つけ次第引き上げ、宝食ワニに投げ渡していった。
ワニは一つ残らず食い尽くした。
水場を相当な距離進んできていた。
神殿に入ってからどれほどの時間が経ったか、正確にはわからない。
だが体感では二時間近くは経過しているだろう。
目の前の水面下に、大きな扉が見えた。
石造りの大扉。表面に複雑なレリーフが彫り込まれている。
扉の両脇には柱が立ち、その柱にも海の生物を模した彫刻が施されていた。
ダンジョンにおいて、装飾された大扉の先にはボスがいる。
この傾向は、どのダンジョンでもほぼ例外がなかった。
この大扉は完全に水没している。
扉の上端すら水面下にあり、開けたとしてもその先に空気があるかは見た目だけでは判断できなかった。
俺はため息を一つ吐いた。
バルガロンを回収する。
ボス戦で使いたいが、その先が水没していれば出せない。
墨帝蛸に空気の膜を貰い、顔を覆う。
墨帝蛸に命じて、大扉に触腕を伸ばし、開けさせる。
水没している上に石材同士が噛み合って固着しており、相当に重い。
墨帝蛸の触腕が三本がかりで扉の隙間に食い込み、吸盤を張り付けて引く。
軋む音が水中に響く。
少しずつ、少しずつ扉が動いていく。
さすがは大型の召喚獣だ。人間の腕では到底動かせない重量を、時間はかかったが問題なく開けきった。
扉の向こうは、やはり水で満たされていた。
俺は覚悟を決めて、墨帝蛸に抱えられたまま大扉の向こうへとダイブした。
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