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周りの水が赤く染まっていく。
墨帝蛸が握り潰した大蛇の血と、宝食ワニが噛み殺した大蛇の血が混ざり合い、透き通っていた水面が鉄錆のような色に変わっていった。
その赤い水に浮かびながら、唐突に体の奥底、腹の中心あたりが微かに熱を帯びる。
これは魔石を吸収した時の感覚だ。
なぜ。
俺は魔石に触れてもいないし、吸収の意思も示していない。
その疑問に答えるようにして、赤く濁った水面からおずおずと顔を出すものがいた。
黒い皮膚にギョロリとした大きな目玉。
宝食ワニが、口元に大蛇の尾を垂らしたまま、こちらを窺うように水面から覗いている。
「お前が食ったのか」
通常、召喚獣は疲れない。食事を摂らない。排泄もしない。
細かく命じれば何日だって微動だにせず立ち続けることも可能だ。
それなのにこの宝食ワニは、自らが殺した魔物だけでなく、墨帝蛸が握り潰した大蛇まで自ら食い、魔石を吸収していた。
食った分の強化が、そのまま召喚主である俺に還元されている。
地上であればゴブリンや騎士団に魔石の剥ぎ取りを任せていた。
だが水中ではその手段が使えない。
この宝食ワニが自分から進んで食ってくれるなら、むしろ助かる。
俺は改めて命令を出し、周囲に浮かぶ大蛇の死体を積極的に食わせた。
ワニは嬉々として、水面を漂う死体を次々と咥えては丸呑みにしていく。
その間に俺は墨帝蛸の触腕に担がれるようにして体を水面から高く持ち上げてもらい、周囲を見渡した。
マングローブのような密林が、どこまでも続いている。
太い根が水面から突き出し、それらが複雑に絡み合って壁のような地形を作っていた。
水の中は透明で底まで見通せるはずだが、ワニを潜らせても底には届かない。
底が見えないほど深い。
木の根だけが水面から突き出し、それが林のように連なっており、地面と呼べるものは存在しない。
とても徒歩では移動できず、常に泳いでいなければどうにもならなかった。
ダンジョンでは基本的に方位磁石の類が効かない。
今は水流も収まっているが、先ほど激流に揉みくちゃにされた時点で方角の感覚は完全に失われていた。
帰りの方角もわからない。
水没した際に冥馬と騎士団は回収済みだ。
鎧の重さで沈む騎士団を水中で運用するのは現実的ではなく、咄嗟に全員回収するしかなかった。
地上戦力は今この場では使えない。
現状、頼れるのは墨帝蛸と宝食ワニの二体だけだ。
明らかに準備不足だった。
水棲の召喚獣が増えたから対処できるだろうと高を括っていた。
だがここまで徹底的に水中を強制されるダンジョンだとは思わなかった。
水の中で呼吸できる遺物の存在は知っている。
だがとんでもなく希少で、市場にもほとんど出回らない。
手に入る現実的な遺物で言えば、変身の魔法が付与されたものだろう。
水棲生物や水棲魔物の姿に変身すれば、水中での呼吸が可能になる。
だが、俺との相性は最悪だ。
大半の変身魔法は人間の姿を元にして、特徴を寄せる人獣型の形態を取る。
指に水掻きが付けば指輪型の遺物が外れる。
耳の形状が変われば、イヤーカフが装着できなくなる。
遺物の大半を装飾品として身につけている俺にとって、体の形状が変わることは致命的な装備解除を意味していた。
なので水中への現実的な対抗策としては、酸素ボンベでも買い漁って張り切り妖精に装備させておくくらいしかない。
それすら用意していなかった。
次からは必ず持ち込もう。
そんなことを沸々と考えていると、俺を担いでいた墨帝蛸の触腕がゆっくりと下がり始めた。
水面に向かって、俺の体を降ろしていく。
特に何か命じた覚えはない。
俺は墨帝蛸の行動を止めなかった。
召喚獣はいかなる場合においても召喚主に危害を加えない。
階位が高い召喚獣の自律的な行動だ。なにか考えがあるだろう。
俺は墨帝蛸の行動を阻害せず、そのまま為されるがままに水へ沈められた。
「えっ、ちょ――」
焦ったのは一瞬だった。
呼吸ができている。
顔の周囲に、薄いシャボン玉のような透明な膜が張られていた。
シャボン玉の中には空気が閉じ込められており、水中にいるのに普通に息ができる。
明らかに魔法だ。
元来の墨帝蛸にはこのような能力はない。
だとすれば、俺の特性によって階位が昇格した際に新たに獲得した魔法ということになる。
水中呼吸の問題を沸々と考えていた俺の思考が、無意識のうちに墨帝蛸に伝わったのだろうか。
触腕の吸盤を確認すると、いくつかの吸盤にも同じように空気の丸い膜が付着していた。
予備の空気膜を複数保持している。
顔の周りの膜の中の空気がなくなれば、この予備と入れ替えるのだろう。
一つの膜がどのくらい持つか。
呼吸の深さにもよるが、十分程度と見積もった方が良さそうだ。
八本ある触腕の役割を頭の中で整理する。
一本は空気膜の保存用。
一本は俺を捕まえて固定する用。
残り六本が攻撃や移動に回せる。
十分だ。
俺は墨帝蛸に指示を出し、水中を進むことにした。
後方からは宝食ワニが悠然とついてくる。
大蛇を食い尽くして満足したのか、先ほどより体表の棘が僅かに大きくなっているように見えた。
マングローブの根の隙間を縫うようにして、墨帝蛸が触腕で水を掻き分けていく。
水中から見上げる水面は木漏れ日のように光が揺れて、ここがダンジョンの中だということを一瞬忘れさせるほど静かだった。
しばらく進んだところで、前方の水中に影が見えた。
一つではない。
無数の小さな影が、雲のように固まって移動している。
鋭い牙を持つ小型の魚の大群。
黄色い紋様に赤の入った縞模様が、水中で不気味に明滅している。
俺はあの魔物を知っていた。
第四階位の跳び毒ピラニア。
牙に猛毒の魔法を持ち、水中だけでなく陸上まで跳んで追いかけてくる執念深さがある。
厄介なのは一匹一匹の体が小さいくせに、数が異常に多いこと。
今見える範囲だけでも何百匹といる。
第四階位に分類されているのは、同階位の水棲魔物と比較しても体表が異様に硬く、物理攻撃が通りにくいことも起因していた。
水棲魔物の特徴として単純な真っ向勝負を挑んでくるタイプは少ない。
しかし、それは墨帝蛸も同様だ。
数で押してくる相手には、数で対抗するのではなく搦手で無力化する。
墨帝蛸が墨を吐く。
俺を抱えたまま、噴出された黒い墨は、意志を持っているかのように急速に広がっていく。
水中に黒い雲が出現し、膨張し、跳び毒ピラニアの大群を一瞬で包み込んだ。
勢いよく突っ込んできた群れだったが、墨の壁を超えてくる個体は一匹もいない。
黒い雲の中で魚影が痙攣するように暴れ、やがて一匹、また一匹と動きを止めていく。
墨帝蛸が放つ墨は、水に溶けない猛毒の魔法だ。
元々の墨帝蛸の毒は致死性が低く、体を麻痺させる程度のものだったはず。
だが俺の特性で昇格した今の墨は、明らかに別物だった。
第四階位のピラニアを一匹残らず殺し切っているように見えた。
しばらくすると、役目を終えた墨が魔法の消失と共に水中から消えていく。
後に残ったのは、力なく漂う大量のピラニアの死体だけだった。
墨が完全に消えたのを確認してから、宝食ワニを向かわせる。
ワニは死体の群れに躊躇なく突っ込み、片端から飲み込んでいった。
跳び毒ピラニアの毒は魔法なので死んでいれば問題ない。
墨帝蛸の毒で仕留め、墨が消えるのを待ち、宝食ワニが食い、その強化が俺に還元される。
一手間かかるが、水中での狩りの循環が出来上がっていた。
俺は労うように墨帝蛸の触腕を撫でた。
ついでに顔周りの空気膜が薄くなってきていたので、触腕の吸盤に保存されていた新鮮な膜と交換する。
古い膜が水中に溶け、新しい膜が顔を覆う。
深く息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気が肺を満たした。
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