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俺は名古屋港にある、ダンジョン管理所へ来ていた。
指名依頼の一環である。
ロレーヌのダンジョンを踏破してから一週間。
体の傷は社長の遺物で完治しているが、精神的な疲労が完全に抜けたとは言い難い。
それでも、じっとしていられる性分ではなかった。
今回のダンジョンは水没林型で、元々は不人気な部類に入る。
水場を得意とする遺物持ちや特性持ちの探索者には一定の需要があり、穴場スポットとも言えるダンジョンだった。
だが、現在は状況が変わっている。
足元に重い霧がはり、所々が凄まじく深く水没した足場になっており、元のダンジョンから何段階も危険な環境へと変貌してしまったらしい。
その原因の調査と、可能であれば排除。
そのために駆り出されたのが俺だ。
指名依頼を受ければ受けるほど、より危険で珍しいダンジョンに入れる。
俺としては何も損はなかった。
「高階位の人間ほど金や地位に拘らず、ダンジョンに入る為にダンジョンに潜らせるという構造は不思議だね」
家長にそう言われたことがある。
だが、探索者とはそういうものだろう。
不思議に思ったことはなかった。
目の前に未知のダンジョンがあれば入りたくなる。それだけだ。
管理所で手続きを済ませ、ゲートへ潜る。
透明な膜を抜けた瞬間、足元に水の感触があった。
くるぶしが浸かるほどの水が張っており、膝下が見えないほどの重い霧が地表を覆っている。
事前に聞いていた通りの環境だ。
周囲を見渡す。
林は鬱蒼としており、木々の葉という葉に水滴がびっしりと付着している。
空気を一口吸い込むだけで肺が重くなるような、異常な湿度だった。
息をするたびに水蒸気ごと吸い込んでいる感覚がある。
元々は第三階位向けのダンジョンだが、変容した今はどの程度の魔物が出てくるか想像がつかない。
管理所の情報では、変容前に確認されていた魔物とは明らかに異なる種が出現しているとのことだった。
ここまで湿度が異常に高いと、灰流鳥は相性が悪い。
灰流鳥は水に濡れるとその羽毛がありえないほどの水を吸い込む特性を持つ。
魔法を受け流すどころか、飛ぶことすらできなくなる。
残火の魔法も、地面がここまで水浸しでは杭を生成する足場がない。
今回は灰流鳥の出番はないだろう。
とりあえず、冥馬を召喚する。
漆黒の巨体が霧を裂くように実体化し、水を蹴散らしながら俺の傍に立った。
続けて騎士団を五体、全員乗馬状態で出す。
冥馬に跨がった五体の騎士が、霧の中に黒い影を並べる。
前回のロレーヌのダンジョンで初めて発見した、騎士団と冥馬の相乗効果だ。
ヒヨリの強化で時間制限が撤廃された今、この編成を維持したまま長時間の探索が可能になっている。
騎士三体を先行させ、残り二体を俺の左右に配置する。
先行する三騎、その後を追う形で俺も冥馬を進ませた。
水没林の中を進む。
木々の根が水面から飛び出しており、冥馬の蹄がそれを踏み越えるたびに水が跳ねる。
所々に霧に覆われた足元に水溜まりが存在するとは聞いていた。
通常の水溜まりと違い、底が見えない水面が地面の窪みに溜まっているのだ。
先行していた騎士の一体が、その水溜まりの縁で停止した。
冥馬が足を踏み入れた途端に足場が消え、進行が止まったのだ。
俺は一度下馬して、足元の水溜まりへ騎士団を一人飛び込ませた。
鎧の重さでどんどん沈んでいく。五秒経っても底につかない。十秒でも。
沈降の速度から逆算して、相当な深さがあることがわかった。
深いと確認できたので騎士を回収し、代わりに水中へ宝食ワニを召喚する。
水面が大きく波立ち、黒い巨体が実体化した。
特性で強化された宝食ワニは、以前のダンジョンで見た時とは様変わりしている。
黒く硬質な皮は鎧のようだ。
体の至る所に生えた棘は蝕燐竜のようにも見えるが、蝕燐竜のそれとは違い、様々な色の宝石のクリスタルのように光を反射していた。
水溜まりは縦にも横にも広く、水中には相当な空間がある。
水面に浮かんだワニのギョロリとした眼球と目が合う。
俺は顎で先を示すと、ワニはそのまま水中へ潜っていった。
足元の水中を泳ぐ巨大なワニの気配を追うようにして、霧の中を慎重に進む。
奇妙な感覚だった。
地下の水没部分には障害物がないのか、ワニの進行に引っかかりがない。
まるで巨大な湖の上に張った薄い氷の上を歩いているような感覚。
霧を手で掻き分けて地面を確認する。
確かに土がある。だが非常に薄い。一センチもないだろう。
その薄い土の層の真下が、全て水なのだ。
異常な構造。
元のダンジョンでもここまで極端な地形ではない。
変容の原因が何であれ、ダンジョンの根本的な構造が書き換えられている。
自然と左耳の墨帝蛸のイヤーカフへ意識が向いた。
遺物であるため耳にしっかり固定されており、ただの衝撃では外れないことを指先で触れて再確認する。
水棲の召喚生物が手札に増えたから、今回の指名依頼を積極的に受けた。
足元が今にも崩れ落ちてもおかしくないこの状況、頼る場面は早いだろう。
慎重に、一歩一歩確認しながら進む。
嫌な予感というものは、得てして当たる。
足元の土が、あるときを境にして一斉に崩れ落ちた。
冥馬ごと水中に落下する。
冷たい水が全身を包み込み、視界が一瞬で切り替わり、咄嗟に息を止める。
来るだろうと身構えていたので、パニックにはならなかった。
だが、落下と同時に強力な水流が体を掴んだ。
横方向への凄まじい流れだ。
地下に川のような水流が走っている。
冥馬が水中で足を掻くが、この流れの中では蹄をかける地面がない。
俺は冥馬と騎士団を回収する。
――息がやばい。
息を止めていられる時間はどのくらいか。
第三階位を超えた者であれば、強化された肺活量で五分は活動できるだろう。
だが俺の肺は只人のままだ。
泳ぐのは得意な方だが、息を止めていられるのはせいぜい三十秒がいいところ。
水流に揉まれながら、肺の中の空気が急速に消費されていく。
吐き出すのだけは絶対に避けなければならない。
一度吐けば、反射で水を吸い込む。そうなれば終わりだ。
近くに呼び寄せたワニに掴まろうとしたが、水流が強すぎて手が届かない。
視界の端が暗くなり始めた十数秒後。
俺の体を、柔らかく、しかし確実な力で包み込むものがあった。
八本の触腕。
青と黄色の毒々しい危険色が、水の中でもはっきりと見える。
墨帝蛸。
水中で咄嗟に召喚した墨帝蛸が、俺の体を触腕で抱え込んでいた。
その魔物的脅威は一切のなりをひそめ、召喚主である俺を優しく包み込んで水流から守っている。
太い触腕が俺の背中と腰を支え、吸盤が服越しに肌に密着して体を固定する。
もう流されない。
俺は腕で上を指した。浮上しろ、と。
墨帝蛸は残りの触腕で水を掻き、力強く上昇していく。
水流に逆らう推進力は、ワニのそれとは方向性が違った。
複数の腕が同時に水を押し退け、螺旋を描くようにして垂直に昇る。
やがて水面が近づく。光が見える。
顔を水面から突き出した瞬間、俺は肺の中身を全て吐き出して大きく息を吸い込んだ。
湿った空気がこれほどうまいと感じたのは初めてだった。
周囲を見渡す。
先ほどまでの霧に覆われた水没林はどこにもなかった。
辺り一面がマングローブの密林のように変わっている。
太い根が水面から何本も突き出し、その間を縫うように水路が広がっていた。
水は透き通るように綺麗で、底まで見通せる。
その水面の至る所から、巨大な大蛇が何匹もこちらへ向かって泳いでくるのが見えた。
水面から飛び出した一匹が、俺の頭上へ飛びかかってくる。
その顎が俺に届くよりも早く、水中から黒い巨体が跳ね上がった。
宝食ワニが大蛇を空中で咥え、そのまま水中へ引き摺り込む。
水面下で体を捻る振動が伝わり、やがて動かなくなった大蛇の体が浮かんでくる。
それでも数は多い。四方から水面を割って蛇が迫る。
墨帝蛸は大型の魔物だ。
体躯はワニと同等だが、その触腕は八本ある。
人の胴体よりも太い大蛇ですら、この触腕に比べれば細い。
近づいてきた大蛇を、水面に出した触腕が掴んだ。
吸盤が鱗の上に吸着し、一度掴まれば逃げることは叶わない。
触腕がゆっくりと締まっていく。
大蛇が体をくねらせてもがくが、墨帝蛸の筋力の前では無意味だった。
鱗の隙間から血が滲み、やがて握り潰された大蛇がぐったりと水面に浮かぶ。
一本の触腕は依然として俺を離さず、残りの七本が同時に動いた。
左から迫る蛇を二本の腕で捕まえ、右から来る蛇を叩き落とし、水面下から浮上してきた蛇を絞め上げる。
一匹残らず殺し切るまでに、さほどの時間はかからなかった。
水面に浮かぶ大蛇の死体と、静かに波打つマングローブの水路。
墨帝蛸は俺を支えたまま、水面に体の上半分だけを出して漂っている。
八本の触腕のうち七本が仕事を終えて緩やかに水中に垂れ、俺を抱える一本だけが変わらぬ力で体を支え続けていた。
墨帝蛸はまだ、その力の本質を出し切っていない。
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