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俺は落下の衝撃で痛む背中を庇いながら、アンクレットから泥人形を展開し、灰流鳥の背中と俺自身を強固に固定させる。
心臓は早鐘のように激しく脈打ち、脳髄からとめどなくアドレナリンが溢れ出しているのを感じる。
死の淵を覗き込み生還をもぎ取った高揚感。
全身の血が沸騰するような、万能感にも似た昂り。
今の気分は、最高に気持ちが良い。
とは言え、元々の目的を見失うような真似はしない。
二の舞にならないよう、視線は常に周囲の空間へ配り、上空の黒煙鳥は早期に発見次第ゴアデビルに焼き払わせる。
二度とあってはならない。
三階層へのゲートを見つけたのは、それからしばらく海上を飛んだ後のことであった。
果てしない海の上に唐突に孤立して浮かぶ小さな浮島。
その中央に、空間の揺らぎ――次なる階層への入り口が存在していた。
ただ、ここで一つ大きな違和感が残る。
この伊勢ダンジョンは、次の階層へ進むためには必ず各階層のボス格との戦闘が必須な構造になっているはずだ。
先ほどの黒煙鳥の大群との死闘は確かに文字通りの死線だったが、あれは階層を統べるボスモンスターではない。
二階層のボスは存在しないのか?
どのみち、このダンジョン全体に致命的な異変が起きているのは確実だ。
奥へ進むたびに、その異変の濃度は増していく。
警戒を最大限に高めながら、俺は浮島へと降り立ち、黒馬に乗り換えてゲートをくぐった。
光が収まり、辿り着いた先は再び同じような緑の芝生。
そして右手には広大な海が広がっていた。
だが、空模様が決定的に違う。
一階層の晴天でも、二階層の不気味な夕焼け空でもなく、そこには早朝の冷気を思わせるような霧が立ち込めていた。
霧と言っても数メートル先が見えないほどの濃霧ではない。
ある程度遠くの景色は視認できる程度の、薄いベールのような霧だ。
だが、その白く霞んだ視界はどこから敵が襲いかかってくるか分からない不気味さを醸し出している。
俺は黒馬の周囲を固めるように五体の黒兵士を召喚し、陣形を組んでゆっくりと前へ進む。
違いは霧だけではなかった。
一、二階層ではただ芝生が波打ち際まで続いているだけだったが、ここには波に削られたような黒い岩が点在している。
ここが第三階層。
伊勢ダンジョンの最奥。
ボスの待つ最終エリアだ。
竹村から貰った資料には、第三階層の天気は『雲一つない晴天』と記されていた記憶があるが、やはりダンジョンが変質している今となっては全く役に立たない。
そのまま海沿いを警戒しながら進むと、岩場と霧が交差する奥の方にゆらりと動く人型の影が見えた。
現在、この伊勢ダンジョンに侵入し俺より先へ進んでいる人間は居ないはずだ。
そして、あの影は人間にしてはずんぐりとしすぎている。
十中八九、魔物。
俺は馬上でいつでも召喚を行えるよう意識を集中させつつ、距離を詰めていく。
近づくにつれて、霧が薄くなり影の輪郭が明瞭になっていく。
その特徴的な丸いフォルムと、頭部の形状。
あれは……間違いない!
「おーい、おーい!」
黒馬から降りた俺が警戒を解いて大声で呼びかけると、その影もこちらへ気がついたのか、岩場から降りてこちらへ向かって歩き出した。
短い足で砂利を踏みしめ、完全に姿を現したのは――。
「デラボネアさん! お久しぶりです!」
以前、ダンジョンで出会った半魚人の姿をした喋る魔物であった。
「おーう、お前はアキか」
デラボネアはのんびりとした足取りでこちらへ向かってくる。
あの時、彼との取引で黒薔薇の指輪や腕輪を入手できていなければ、確実に命を落としていただろう。
紛れもない命の恩人である。
時が経つにつれて、黒兵士や黒石の巨人に命を救われる回数が増え、彼への感謝の気持ちは膨れ上がっていた。
「あの時は本当にありがとうございました! あの、その……!」
半魚人の魔物を前にして、恩人に再会した若者のように緊張するのも探索者としておかしいとは思う。
だが、俺は彼との再会を心の底から心待ちにしていたのだ。
「あぁ、もう言わんでもわかっちょる」
俺の興奮気味な態度を制するように、デラボネアは水掻きのついた手のひらを差し出した。
俺は即座に妖精を召喚し、背嚢の中から買い溜めしておいたチョコレートバーを大量に取り出すとデラボネアの手に全て押し付けた。
以前会った時、彼はこの甘い菓子をひどく気に入っていたからだ。
「こんな大量に……。今日は生憎、お前と取引できるような遺物は手持ちに無いぞ。『ちょこれーと』はありがたく貰うがな」
デラボネアは目を細めて満足そうに笑うと、背負っていた大きな風呂敷の中に大量のチョコレートバーを丁寧に詰め込んでいく。
強力な遺物の取引ができないのは非常に残念だが、それはそうと俺はデラボネアに話を聞くことにした。
「何故こんな場所に俺がいるのかって? そりゃ少し長くなるがな――」
彼が語った話を簡単に要約すると、どうやらある特定の遺物を目当てに、デラボネアはこの「異変が起きた」伊勢ダンジョンへとわざわざやってきたらしい。
魔物でありながら複数のダンジョン間を自由に渡り歩いていることは以前から知っていたが目的の遺物の気配をどうやって感知しているのかは全くの謎だ。
だが、彼にはどうしても欲しい遺物があり、それを手に入れるためにこの最奥の地で実力のある探索者がやって来るのを待ち伏せしていたようだ。
「お前さんがここのボーナス部屋のボスを殺してくれ。そこで出た遺物を取引だ」
デラボネアはギョロリとした大きな目で俺を見上げる。
俺に断る理由などあるはずがない。
実力未知数のボスと戦うリスクはあるが、デラボネアが提案する取引の品は俺の戦力を劇的に引き上げてくれる。
交渉は即座に成立した。
話を聞く限り、どうやらここ三階層の正規ルートのボスも、何らかの理由で現在は「不在」らしい。
俺が相手にするのは、正規のルートでは決して辿り着くことのできない隠しエリア――ボーナス部屋の主だ。
デラボネア自身が、そこへの道を繋いで案内してくれると言う。
「準備はいいな? 戦闘は割とすぐだぞ」
デラボネアの念を押すような言葉に、俺は深く頷いて応える。
俺の覚悟を確認すると、デラボネアは足元の岩場が途切れた芝生の地面に、太い人差し指を突き立ててかき混ぜ始めた。
すると、あり得ない現象が起きる。
硬いはずの土と芝生が、次第に波のようにうねり始め、まるで水溜りのように水面が騒ぎ出したのだ。
空間そのものを液状化させるような、デラボネア特有の移動術。
デラボネアがその液状化した地面へ、躊躇いなく沈み込むように入っていくのを確認し俺もそれに続いた。
奇妙な浮遊感。
このダンジョンに来てから、何度も味わった感覚だった。
俺は即座に灰流鳥を召喚し、その背に着地する。
出現した場所は、空中の高い位置だったからだ。
周囲を見渡す。
そこは、霧のかかった海岸とは全く異なる、古代の遺跡のような巨大な閉鎖空間だった。
天井は遥か高く、石造りの壁には謎の紋様が刻まれている。
そして、見下ろす眼下の広大な床一面には、足首が浸かる程度の水が薄く張られていた。
その遺跡の中央。
薄暗い水鏡のような床の上に陣取っていたのは、一際巨大なワニのような魔物の群れだった。
顔の形状はシーナイトのそれに似ているが、二足歩行ではなく四足歩行。
何より、そのサイズが桁違いだ。
一体一体の大きさが、俺の持つ黒石の巨人とほぼ同サイズという異常な巨躯。
それが、全部で八匹。
間違いなく、この隠し部屋のボスモンスターだ。
「ようやく、地の利が帰ってきたぜ」
俺は灰流鳥に指示を出し、巨大ワニたちの頭上、安全な空域へと移動する。
海の上とは違う。
ここは完全に俺が上を取れる、有利な戦場だ。
俺は右手の拳を強く握り込みながら、腕輪の感触を確かめる。
黒い薔薇の装飾が施された腕輪。
召喚するのは、今まで猛威を振るってきた黒石の巨人ではない。
俺はこの勝利を確実なものにするため、温存していた最高のカードを切る。
「こい、黒薔薇の守護者」
俺の呼気に呼応し、腕輪から尋常ではない量の黒い靄が溢れ出す。
空中で顕現したその姿は、黒石の巨人の正統進化とも呼ぶべき圧倒的な威容だった。
ベースとなる黒曜石のような体躯はそのままだが、全身に鋭く美しい黒い薔薇の装飾が煌びやかに施されている。
岩の塊のようだった拳はさらに巨大化し、破壊力に特化するように足は短く太く変化している。
そして、赫怒のように輝く真紅の双眸。
空中で実体化した黒薔薇の守護者は、まるで巨大な隕石のように、真下にいるワニの群れへと向けて自由落下を開始した。
重力と、守護者自身の規格外の質量が生み出す、回避不能の落下攻撃。
真紅の双眸が、跡を引くような美しい軌跡を描き守護者は水張りの床へと激突した。
轟音。
遺跡全体が激しく揺れ、床の水が津波のように吹き飛ぶ。
落下地点の真下にいた一匹の巨大ワニは、反撃の隙すら与えられず、守護者の巨大な両足に踏み潰された。
強靭なはずの鱗と骨が砕け散り、原形を留めない肉塊へと変わる。
水しぶきと血煙が舞い上がる遺跡の中で、守護者がゆっくりと立ち上がる。
残る七匹の巨大ワニが一斉に咆哮を上げた。
圧倒的な暴力による蹂躙。
ボーナス部屋の戦闘が今始まる。




