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重力に引かれ、風が耳元で轟音を立てる。
直後、強烈な衝撃と共に冷たい水が全身を包み込んだ。
着水と同時に、俺の腰と足首を固定していた泥人形が、海水に触れて急速に溶け出していくのを感じた。
不定形の魔物である泥人形は、大量の水分に極端に弱い。
これ以上展開しておけば魔物自身が崩壊してしまうと判断し、俺は遅れて泥人形もアンクレットへと回収した。
これで、俺の身を守る召喚獣は外に一体も居ない。
冷たい海水の中を沈んでいく。
杖を握り込む。周囲の海中に魔物の気配は見えない。
――龍光すら飲み込む圧倒的な物量。
勝てない……正面からでは。
本体を探さないと……!
俺は息を継ぐために海面へと浮上しようとした、その瞬間だった。
暗い海中の視界の端を、黒い弾丸のような物体が凄まじい速度で俺のすぐ脇を通り過ぎていった。
その黒い物体は海中を深く潜ることはなく、すぐに反転して海面へと戻っていく。
黒煙鳥だ。
水鳥の中には、水中の魚を狙うために数十メートルもの高さからダイブし、ほんの数秒だけ水中に潜る種類がいる。
黒煙鳥の本来の生態など知る由もないが、奴らは明らかにその水鳥に近い狩りの方法を実行している。
このままただ海の中にいれば、いずれ四方八方から飛び込んでくる無数の嘴に貫かれて死ぬ。
死が実体を伴って俺の肩を冷たく叩いているような確かな気配を感じた。
大量の黒煙鳥が矢継ぎ早に海面へとダイブしてくる狂気の状況下で俺は雑念を捨て、限りない集中力で海面だけを見据えた。
いつだって命をチップに賭けに出るんだ。
確証は無い、ただ全力でベットするしかない。命を賭ける生き方を選んだのは自分。
海の中では、俺の召喚獣達はいずれも相性が悪く勝ち目はない。
もう一度、空の制空権を取り戻さなければならない。
杖を握り込み俺に向かって飛び込んでくる黒煙鳥に対してのみ、一瞬だけゴアデビルを海中に召喚して盾にし弾き飛ばす。
水の抵抗で火槍は撃てないが、ゴアデビルの屈強な肉体なら物理的な盾として十分に機能する。
海面へ灰流鳥を二体出現させ別々の方向へ飛ばすと、すぐに星に呑まれ消滅する。
しかし周囲に散っていった星達には、逃げる隙間が出来た。
海面へと顔を出し大きく口を開け、肺が破れるほどに新鮮な空気を吸い込んだ。
その直後、俺は水中にいるゴアデビルに命令を下した。
俺の服の襟首を力強く掴んだゴアデビルが、その巨腕の筋力を限界まで爆発させ、俺の体を水中から中空へと放り投げた。
水しぶきと共に空へと飛び出した俺は、重力に従って再び落下を始める前に空中で最後の灰流鳥の召喚を実行した。
虚空に現れた巨大な灰色の鳥。
俺は泥人形の固定がない状態のまま、両手で必死に灰流鳥の背の羽毛を力一杯握り込み、そのまま無理やり背中へとよじ登った。
すぐさま、狙いを外した流星群が方向を変え、俺の乗る灰流鳥の背後から凄まじい勢いで追い縋ってくる。
だが、今度は簡単には追いつかれない。
泥人形は元々第二階位の魔物であり、俺の特性による階位昇格の恩恵を受けて体積が増大している。
そして、体積が増えたということは、それに比例して重量も爆発的に増しているということだ。
強固な装甲の役割を果たすその重さは、俺自身の体重よりも遥かに重い。
つまり、今の灰流鳥はいつも身につけている重い枷を外した状態で飛翔しているのだ。
しかし、泥人形を使わずに素手だけで巨大な鳥の背にしがみつく騎乗。
風圧と鳥の激しい動きに耐えながらその姿勢を長時間維持することは、身体能力が一般人の俺にとって拷問に等しい。
歯を食いしばり、腕の筋肉が千切れそうになるのを必死に耐えながら羽毛を握りしめる。
稼いだ距離は、およそ百メートル。
背後からは、尾を引く流星群がさらに加速して俺を飲み込もうと迫っていた。
そして、俺の両手の握力がついに限界を迎えた。
ここまでよくやったと思う。
必死に生き足掻いた。
――これでダメなら、完全に俺の負けだ。
力が抜け、空中に投げ出された俺の体を流星群が容赦なく飲み込んだ。
全身を貫かれる激痛を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
俺を包み込んだ黒い鳥の群れは、一切の物理的な衝撃を伴うことなく、突如として黒い煙となって霧散し消滅していった。
空中で姿勢を崩しながら背後を振り返る。
流星群の遥か後方、俺がさっきまで死闘を繰り広げていた海面の付近から極太の龍光の閃光が暗い空へと向かって一直線に伸び、そして消えていくのが見えた。
俺が海から飛び出す際、あえて送還せずに海中に残しておいたゴアデビル。
奴が、流星群の後方に隠れていた黒煙鳥の本体へ龍光を放ち完全に殺し切ったのだ。
黒煙鳥は分裂するようにして数を増やすが、本体が死ねば全て消滅する。
これほどの圧倒的な大群を作り出し、なおかつ本体が安全な後方付近に隠れているというのは螺旋階段で戦った黒煙鳥のボス格である黒炎鳥の戦闘方法から傾向を感じ取った。
あいつは自らは安全圏に留まり、遠距離から分裂した炎の鳥だけをけしかけてきていた。
あの戦闘経験から、俺は本体が最後尾の安全地帯にいると予測を立てていたのだ。
ただ、一度は完全に空を覆い尽くすほどに膨れ上がった分身の隙間を縫って、海面からの龍光の射線を確保するのは尋常な難易度ではない。
だからこそ、俺が囮となって分身の群れを引き連れて逃げてゴアデビルの射線をクリアにするための距離と時間をなんとかして稼ぎたかったのだ。
思惑は成功した。
だが、今回は完全勝利とはとても言えないだろう。
黒煙鳥本体が後方付近におり、なおかつゴアデビルが正確に撃ち抜けるかどうかの運の要素が強すぎた。
もし外れていれば、俺は今頃海の上で細切れになっていたはずだ。
自由落下する俺の体を、危機を察知して急降下してきた灰流鳥が再びその背中で受け止める。
衝撃で肺から空気が漏れる。
俺は灰流鳥の柔らかな羽毛の上で運否天賦で勝ち取った生存に純粋に笑っていた。




