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朝目覚めると、俺は泥人形に作らせた防壁を出て波打ち際へと向かった。
冷たい水で顔を洗うためだ。
水が豊富にあるという点だけで言えば清潔を保ちやすい環境とも言えるが、ここはダンジョンの中でありながら本物の海と何ら変わらない成分の海水が満ちている。
顔を洗い流しても乾いた後に残る特有の塩のベタつきや、潮の生臭い匂いはどうしても拭い去ることができない。
結局、最後は背嚢から取り出したアルコール成分入りのウェットシートで顔全体を強く拭うことになった。
人工的な清涼感が、少しだけダンジョンの不快な空気を遠ざけてくれる。
作業を終えて立ち上がろうとした直後、目の前の水面が不自然に盛り上がった。
波打ち際の浅瀬に身を潜めていたシーナイトの急襲だ。
鋭い槍の穂先が俺の喉元を狙って突き出される。
俺は視線の端でその予兆を完全に捉えていた。
即座に黒石の巨人を顕現させる。
巨人は俺とシーナイトの間に割り込むようにして巨大な岩の拳を横へ振り抜いた。
質量の暴力がシーナイトの横腹に直撃し、くの字に折れ曲がった魔物の体が水面を跳ねるようにして遠くの海へと吹き飛んでいく。
俺の前で上から叩き潰すように殺さなかったのは、ただ単に魔物の体液や水飛沫が俺の服にかかるのを嫌ったためだ。
これ以上、不快な汚れを身に纏いたくはなかった。
「なんでお前らしかいないんだろうな」
はるか遠くで沈んでいったシーナイトの残骸に向けて、俺は一人ごちる。
海から現れる魔物がシーナイト一種類しかいないという現状は、やはり異常だ。
簡単に手早く朝食を済ませた俺は、本日の探索の準備に取り掛かる。
杖からゴアデビルを一体、そして灰流鳥を三匹同時に召喚した。
今日の目的は水平線の向こう側の海上の調査だ。
もし海中で何らかの異変が起こっている場合、例えば三階層への螺旋階段が海溝の底に沈んでいるような事態であれば、潔く探索を諦めるつもりでいる。
水中での戦闘や長期探索は、今の俺ではどう考えても不可能だからだ。
あくまで、海の上から俯瞰して確認できる範囲の調査にとどめる。
足首のアンクレットから泥人形を展開し、命綱の代わりとして灰流鳥の背中と自身の体を強固に固定してもらう。
俺は他の高位探索者のように、超人的な身体能力を持っているわけではない。
万が一、上空ではためく巨大な鳥の背から振り落とされればただでは済まない。
落下のリカバリー手段が極端に限られている俺は、自ら好んで空を飛ぶような真似は極力避けてきた。
灰流鳥の背に乗り込むのは、二日前の螺旋階段における黒炎鳥との死闘以来となる。
巨大な翼が静かに空気を押し下げ、俺の体はあっという間に芝生から引き剥がされた。
風を切って海上を滑るように飛翔する感覚には、得も言われぬ爽快感がある。
黒炎鳥と戦ったあの時は、垂直に急上昇していただけで、景色を楽しむ余裕など微塵もなかった。
だが今は、安定した水平飛行の中でどこまでも続く水平線を眺めながらわりと楽しんでいる自分がいた。
とはいえ、ここは安全な観光地ではない。
海中から未知の魔物が飛び出してきて迎撃される可能性を考慮し、高度はやや高めにしている。
「何か見えるか?」
俺は並走するように傍らを飛んでいるゴアデビルに向けて声をかけた。
悪魔は俺の言葉を理解し、無言のままゆっくりと首を横に振る。
視力が俺よりも優れているはずの召喚獣の目にも、有益な情報は映っていないようだ。
芝生の生い茂る奇妙な浜辺から出発し、すでにかなりの距離を飛んできたはずだが、眼下にはただ単調な波がうねっているだけで何も見えない。
俺たちはただひたすら、暗く変色した空の方向へと愚直に進み続けた。
やがて、明確な違和感が肌を撫でた。
何かがおかしい。
風景そのものは変わっていないはずなのに、本能が警鐘を鳴らしている。
だが、その違和感の正体がすぐには分からなかった。
どれほどの時間、海上を飛んでいたかを計算しようと俺は一度灰流鳥を空中に滞空させた。
懐中時計の文字盤を確認する。
時刻は朝の八時を回ったところ。
朝にしては暗いなと思った所でようやく気がついた。
ここは太陽の運行がないダンジョンの中であり、擬似太陽の光量は常に一定に保たれている。
――暗くなるはずがない。
俺はゆっくりと空を見上げた。
二階層に入ってからずっと頭上にあった赤い夕焼け空。
しかし、その夕焼けの赤が不気味なほどの漆黒に侵食されている面積が出発した時よりも明らかに増大している。
いや、違う。
黒い面積が増えたのではない。
俺自身が、その黒く染まった地点の直下へと近づいているのだ。
ここにきて、確かな進展だった。
やはり俺の読み通り、ダンジョンの異常の核は海上の向こう側に存在していたのだ。
俺は灰流鳥の飛行角度を微調整し、夕焼け空にぽっかりと空いた巨大な穴のような、圧倒的な暗闇の虚空へ向けて速度を上げた。
道中、散発的に黒煙鳥が空から襲いかかってくるが、ゴアデビルの迎撃によって鎧袖一触に焼き払う。
今の俺の目的はこんな雑魚の相手ではない。
俺は進む。
ただひたすらに進む。
やがて、周囲の光が完全に奪われ、暗く、昏い闇の中へと飲み込まれた。
夕焼け空は完全に消え去り、そこはまるで月のない夜のような漆黒の空間へと変貌していた。
しかし、完全な暗闇というわけではなかった。
ダンジョン内特有の燐光現象によるものか、見上げる空には無数の星のような光が明滅しながら輝いていたのだ。
――あぁ、しまった。
その美しい光景を見た瞬間、俺の背筋に氷をねじ込まれたような悪寒が走った。
俺は致命的なミスを犯していたのだ。
ダンジョン内特有の燐光現象であれば、光が規則的に明滅することなど絶対にあり得ない。
もし、あの空の上の無数の星が、ダンジョン内の擬似太陽と同じシステムで稼働している擬似星であるならば明滅していても説明はつくだろう。
しかし、今のこれはそうじゃない。
絶対に違う。
灰流鳥を滞空させ、周囲の状況を冷静に観察したことで、ようやくその事実に気がついた。
空の上。
星のように輝いて見えていた光の明滅。
それは、全て俺を見下ろしている黒煙鳥の目だったのだ。
ダンジョン特有の弱い燐光の中で、唯一視認できるのが奴らの放つ眼光だった。
体色は完全に漆黒の背景に同化しており、羽ばたきの音すら立てない無音の飛翔特性を持っているため全く気がつかなかったのだ。
俺たちが空中で静止しているにも関わらず、頭上の星々が俺たちを中心にして凄まじい速度で円を描くように旋回しているのが、それが生きた魔物である何よりの証拠だった。
黒煙鳥には、俺なりに細心の注意を払っていたつもりだった。
上空で増殖し、群れとなって襲いかかるその特性。
この伊勢ダンジョンにおいて、真に恐ろしいのは火焔土器でも、シーナイトでもない。
この鳥こそが、最大の脅威だったのだ。
星の奔流。
夜空の星々が全て剥がれ落ちたかのように、無数の流星となって俺たちへと一斉に殺到してくる。
「ゴアデビル!!」
俺が喉が裂けんばかりの絶叫を上げると、少し離れていたゴアデビルは即座に両手を頭上へと突き出した。
両手の先端から極太の光の柱が放たれる。
迫り来る星の群れに向けて撃ち放たれた龍光が、空間を焦がして激突する。
光で形作られた巨大な龍の顎が、無数の流星を丸飲みにしようと牙を剥く。
――圧倒的な物量の差。
龍が流星を喰らったのではない。
龍の光そのものを、黒煙鳥の果てしない群れが完全に飲み込み押し潰してしまったのだ。
俺は即座に空での迎撃を諦め、退避を選択した。
黒煙鳥の群れに飲み込まれる寸前のゴアデビルを解除し、杖の中へと回収する。
すぐさま灰流鳥に命じ、全速力で距離を離そうとする。
だが――間に合わない。
四方八方から迫る鳥の群れは、すでに灰流鳥の退路を完全に塞いでいた。
このままでは召喚獣ごと飲み込まれる。
俺は決断した。
灰流鳥の召喚を強制解除し、俺自身は何も持たない丸腰の状態で暗い海へと身を投げた。




