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灰流鳥に空中で拾い上げられ、這うようにしてどうにか螺旋階段まで戻ってきた俺は、膝から崩れ落ちた。
そのまま大の字に倒れ込み、約一時間以上はその場でぐったりと寝転がっていた。
フリーフォールの恐怖よりも灰流鳥の急上昇軌道による乗り物酔いが、俺の三半規管を揺らしていた。
冷たい石段の上でまどろみ、ようやく少しだけ吐き気が治まった頃、俺はゆっくりと目を開けた。
傍らには、寝る直前に召喚しておいた泥人形と森林狼が、彫像のように静止して待機している。
彼らは俺が階段から転落しないように肉の壁となって見張ってくれていたらしい。
そして、その足元には灰流鳥に回収を命じておいた黒炎鳥の巨大な魔石が転がっていた。
一階層のボスの魔石。
魔石を拾い上げ、即座に強化に使用する。
俺は張り切り妖精を一体召喚し、背負わせている背嚢から懐中時計を取り出させた。
カチリ、と蓋を開けて文字盤を確認する。
時刻は二十一時を少し回ったところ。
ダンジョンに潜入してから、いつの間にか八時間近くが経過していた。
「……お腹すいたー」
胃のむかつきが治まると、今度は強烈な空腹感が襲ってきた。
俺は背嚢をごそごそと漁り、エネルギー補給用のチョコレートバーを一本取り出して齧る。
その間に、妖精が甲斐甲斐しく夕食の準備を始めていた。
背嚢から携帯用のガスコンロを取り出し、小さな鍋を乗せてグツグツと湯を沸かす。
妖精はゴブリンとは比較にならないほど手先が器用だ。
俺の指示を忠実に、かつ効率的にこなしてくれる。
俺が動かずとも、沸騰した湯の中にレトルトの白米を入れ、真空パックの肉を切り裂いて投入し、小袋の調味料で味付けまで済ませてしまった。
あっという間に、熱々の肉雑炊が完成する。
甘いだけのチョコバーとは違う、塩気と肉の旨味がたまらない。
俺は鍋から直接スプーンですくい、喉を火傷しそうになりながら掻っ込むように食事をした。
現在時刻は夜の二十一時。
しかし、ダンジョン内の擬似太陽は相変わらず煌々と輝いており、夜の気配は微塵も感じられない。
ただ、高度が上がったせいか平原に比べると気温はぐっと下がり、肌寒く感じるようになっていた。
満腹になり、強烈な睡魔が襲ってくる。
これ以上の進軍は効率が悪いと判断し、俺はその日は用意してきた寝袋に潜り込み、螺旋階段の上で就寝した。
翌朝。
俺はすぐに起き出し、携帯食料で手早く腹ごしらえと身支度を済ませた。
再び黒馬に跨り、赤い螺旋階段の続きを登り始める。
風を切りながらさらに二十分ほど進むと、階段の終点、虚空に浮かぶ巨大なゲートが姿を現した。
この伊勢ダンジョンは全部で三階層構造。
このゲートを潜れば、第二階層へと足を踏み入れることになる。
俺は躊躇うことなく、黒馬に乗ったままゲートの揺らぎの中へと突入した。
光が弾け、視界が開ける。
そこに広がっていたのは、初めてこのダンジョンに足を踏み入れた時と同じような見渡す限りの瑞々しい芝生の平原。
そして右手側には、広大な海が広がっていた。
ただ、ここが第二階層であると決定的に分かるのは、頭上の空の色だった。
一階層の抜けるような青空とは異なり、空一面が血のような夕焼けに染まっている。
そして、その赤い空の一部がまるで絵の具をこぼしたかのように不自然に黒く侵食されていた。
どこか終末を思わせる、不気味な光景だ。
視線を右手の海へ向けると、波打ち際が異様に騒がしい。
波音に混じって水面が次々と爆ぜている。
ぞろぞろと、文字通り海の底から湧き上がるようにして、二足歩行のワニのような魔物――シーナイトが這い上がってきていた。
「またか」
俺は黒馬を操り、海辺から十分な距離を取って芝生の方へと後退する。
どうやら、ここからは再びボーナスタイムの始まりらしい。
一階層での戦闘を踏まえ、俺は即座に陣形を構築した。
広範囲攻撃の手駒である灰流鳥が加わった今、俺の殲滅力は飛躍的に向上している。
上空を旋回する三羽の灰流鳥が、無数の純白の杭を地面から打ち上げる。
杭に貫かれたシーナイトを中心に「残火」の魔法が発動し、辺り一面の芝生を灰に変えながら次々と敵を燃やし尽くしていく。
俺の近辺には五体の黒兵士を配置し、接近を許した個体を弓で正確に射抜いて殺していく。
同時にゴブリンと泥人形をフル稼働させ、後方で深い溝を掘らせ、即席の待避壕を作成する。
さらにゴアデビルも前線へ投入し、龍光で敵の密集地帯を消し飛ばす。
圧倒的な火力による、一方的な制圧戦。
しかし、それでもシーナイトの湧きは異常だった。
殺しても殺しても、海から際限なく増援が現れる。
このシーナイトの殲滅戦は、実に八時間にも及んだ。
途中、押し込まれそうになったため黒石の巨人も前線へと投入し、文字通り石の壁として戦線を維持させた。
一度だけ、状況を打破するために蝕燐竜も投入して暴れさせたがそれは悪手だった。
圧倒的な暴力。
そのあまりの無双ぶりに知能の低いシーナイトたちでさえ恐怖を覚えたのか、海から陸へと上がってこず波間から様子を伺うようになってしまったのだ。
膠着状態のまま無情にも蝕燐竜の召喚時間である三百秒が経過し、竜は黒い霧となって回収されてしまう。
すると、竜の気配が消えた途端待ってましたとばかりにシーナイトたちの攻撃が以前にも増して苛烈になったのだ。
戦術のミスをリカバリーし、なんとか最後の群れを片付けた頃には、俺も疲労困憊だった。
見渡す限りの平原が、シーナイトの死骸と残火による灰で埋め尽くされている。
全ての死体から魔石を回収するには、数時間では足りない。
結局、今日は泥人形に作らせた即席の堀の中で寝泊まりすることになった。
ゴブリンと黒兵士を総動員し、夜通し魔石を剥ぎ取らせる。
回収された魔石と、ドロップした遺物を次々と取り込み、自身の強化へと変換していく。
これだけの大群を屠ったのだ。
だが、体感として第五階位への進捗はようやく残り五割ほどといったところ。
まだ半分。
ここまで狂ったように狩り続けても、まだまだ足りないのだ。
次の日。
俺は改めて第二階層の探索を出発した。
海と芝生の狭間を黒馬が進んでいくが不気味なほどに静まり返っていた。
火焔土器や黒煙鳥、そして海からは昨日散々狩ったシーナイトが散発的に現れるだけ。
本来、第二階層から出現するはずの他の強力な魔物の姿が全く見えないのだ。
海からは地血鮫が相変わらず出てこないし、空を飛ぶ新たな脅威も現れない。
これでは、一階層とまるで同じ状況ではないか。
俺は黒馬に跨りながら、波打ち際を駆けさせた。
視線は、右手の水平線へと向けられている。
夕焼けに染まる海の向こう側。
そこで、何らかの異変が起きている可能性が高い。
頭では分かっていた。
だが、海は俺にとって圧倒的に不利な地形だ。
水上を移動する手段を持たない俺が、海の向こうの異変に首を突っ込むのは自殺行為に等しい。
だからこそ、俺は今回はその違和感を『無視する』という選択をした。
――だが。
そこから丸二日間。
俺は、三階層へのゲートへと続くはずの螺旋階段を見つけることができなかった。
広大な第二階層を森林狼の嗅覚、灰流鳥の上空からの視界、あらゆる手を使って調べ尽くした。
だが、結果として分かったのは何も無いということだけだった。
この第二階層だけで、俺はすでに計三日間も彷徨っていることになる。
22時過ぎ。
妖精が作った雑炊を無言で食べながら、俺は再び夕焼けに染まる水平線へと目を向けた。
唯一、確認していない場所。
それは、海の向こう側だけ。
竹村から貰った事前の資料では、この第二階層にも一階層と同じような螺旋階段が存在するはずだった。
だが、ダンジョンが変質したのか現状を打破するには海へ出るしかない。
引き返す、という考えは端からなかった。
家長との約束の期限は刻一刻と迫っている。
俺は雑炊を食べ切り、気合を入れるように両手でパンッと頬を叩いた。
その日はそのまま、泥人形に作らせた防壁と焚き火の近くで就寝する。
明日は、海上へ向かう。




