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ゲートを潜り抜けた先に広がっていたのは、視界の果てまで続く広大な緑の平原だった。
天井など存在しないかのような、抜けるような青空。
足元には手入れの行き届いたような、瑞々しい緑の芝生が敷き詰められている。
靴底を通して伝わる感触は、ここがダンジョンであることを忘れさせるほどに柔らかい。
視線を右手に向ければ、視界の果てまで続く水面が広がっていた。
頭上にある擬似太陽の光を乱反射している光景は、紛れもなく「海」そのものだった。
ダンジョン内という閉鎖空間でありながら、遥か彼方には水平線が霞んで見え、そのスケール感に平衡感覚が狂いそうになる。
岸辺には絶えず白い飛沫を上げて波が打ち寄せ、低い波音が響き渡っていたが、芝生と海という組み合わせが、ここがダンジョンであるという異質さを際立たせていた。
青臭い草の匂いと、海特有の潮の香りが混ざり合い、少し気分が悪くなるほどの濃厚な空気が漂っている。
俺は黒馬と妖精を召喚する。
指示を出すと、二体の妖精は即座に役割分担を始めた。
一体が背負っていた俺の背嚢から、黒馬用の鞍を取り出し、手際よく黒馬へ装着を始める。
もう一体は俺の元へ歩み寄り、背嚢のサイドポケットからチョコバーとペットボトルの水を取り出して恭しく差し出した。
俺はそれを受け取り、パッケージを破る。
カカオの香りと砂糖の甘さが口いっぱいに広がる。
先ほど社長たちが言っていた名物の伊勢うどんに比べれば、なんと無粋で素っ気ない食事だろうか。
水を喉に流し込みながら、俺は平原の彼方へと目を凝らした。
芝生の緑とは対照的な、揺らめく赤茶色の集団が視界に入る。
火焔土器。
奇怪な魔物たちだ。
その名の通り、土器の表面からは常に絶えることのない炎が噴き出し、周囲の空気を陽炎のように歪ませている。
数は七から十といったところか。
群れを成して徘徊するその姿は、美しい草原に落とされた焼け焦げのシミのようだ。
第四階位の魔物。
伊勢ダンジョン第一階層の主な魔物である。
鞍の装着を終えた妖精が、ぺこりと頭を下げる。
俺は妖精たちを一度戻し、黒馬の背へと跨った。
視点が高くなり、風の通りが良くなる。
脳内でシミュレーションを行う。
この第一階層は、主にこの火焔土器が出現する。
相性を考えれば、ゴアデビルの龍光の通りが悪く、効率が悪いだろう。
また、常に高熱の炎を纏っているため、直接触れる攻撃を主とする森林狼や、泥人形での拘束も悪手だ。
触れた端から焼かれ、こちらの戦力が削がれてしまう。
必然的に、熱に強く、物理的な破壊力に優れた手駒が必要となる。
俺の選択肢は一つだ。
主の意図を汲んだ黒馬は、滑るように芝生の上を疾走し始めた。
距離が縮まる。
こちらの接近に気づいた火焔土器の群れが、燃え盛る体を揺らしながら、不気味な浮遊感を持って向かってくる。
俺は走りながら、進行方向に右手を突き出した。
――空間が歪む。
現れたのは、黒く肩口に黒い薔薇の装飾があしらわれた黒石の巨人。
巨人は雄叫びすら上げず、ただ質量による暴力として火焔土器の群れへと突っ込んだ。
先頭にいた土器が、身にまとう炎をぶつける。
だが巨人は、それを黒曜石のような硬質な胸板で受け止め、傷一つ負わずに歩を進める。
間合いは既にゼロ。
巨人の丸太のような腕が振り上げられ、そして振り下ろされる。
乾いた破砕音が響き渡った。
人の背丈ほどもある燃える土器は、生半可な攻撃であればその強固な外皮と熱で弾き返す厄介な敵だ。
だが、重量と硬度において遥かに勝る巨人の拳の前では、素焼きの粘土細工と変わらない。
抵抗すら許されず、砕け散る。
中から魔石と共に、燃え盛る破片が花火のように四散した。
一体を粉砕した勢いのまま、巨人は横薙ぎに腕を振るう。
二体、三体と巻き込まれ、美しい平原に土器の残骸がばら撒かれていく。
地上戦が一方的な蹂躙へと変わる中、俺は空への警戒を怠らない。
頭上に影が差す。
見上げれば、俺の上空を円を描くように飛んでいる鳥の姿があった。
黒煙鳥。
全身が煤のような黒い羽毛に覆われた、不吉な鳥だ。
最初は一匹だったはずの影が、二匹、三匹と、円を描くたびに増殖していく。
これはどこからか仲間を呼んでいるのではない。
一匹が旋回行動を取りながら魔法により同一の個体を増やしているのだ。
増える量には際限があるらしいが放置すれば空を覆い尽くすほどの群れとなり、一斉に襲い掛かってくる。
厄介極まりない特性。さっさと潰すに限る。
俺の周囲に、黒い靄と共に五体の骸骨騎士が現れる。
彼らは即座に戦況を理解した。
手にしていた盾と長剣を流れるような動作で腰と背中のホルダーへ収納し、代わりに背負っていた弓矢を手に取る。
弦を引き絞る音が重なる。
狙いは正確。
風を切る音と共に、五本の矢が放たれた。
それは吸い込まれるように黒煙鳥の群れへと殺到する。
一度の射撃で、三匹の鳥が射抜かれた。
断末魔と共に、射抜かれた鳥のうち二匹が黒い煙となって霧散する。
あれは偽物だ。
最後の一匹は実体を保ったまま、力なく地面へと落下した。
重量を感じさせる音と共に落ちた魔物から黒煙が上がる。
地上を見れば、黒石の巨人が最後の火焔土器を握りつぶし、戦闘を終えていた。
静寂が戻る。
熱気と、土の焼ける匂いだけが残った。
俺は巨人と黒兵士を待機させ、ゴブリンを召喚する。
小柄な緑の従魔たちが、散らばった魔石を拾い集め始める。
俺は黒馬の上で、次の獲物を探して視線を巡らせた。
効率的で、感情の入る余地のない作業。
今日はこうして、淡々とダンジョンでの狩りを続けていく。
第五階位という高みへ至るために、必要な「積み重ね」を終わらせるために。




