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風がごうごうと耳元で唸る。
ゴアデビルの杖は森林狼の背と俺の腹で挟むようにして固定している。
肋骨が軋むほど押し付けているが落とすわけにはいかない。
俺はより強く毛皮を掴み顔を伏せながら走らせた。
景色が灰色の帯となって後方へ飛び去っていく。
単純な最高速度なら黒馬の方が速いだろう。
しかし今の黒馬には鞍がない。
つるりとした馬体に俺のような貧弱な身体能力の人間がしがみつけば、数秒で振り落とされ全身を打ち付けて死ぬ。
痛みを感じず文句も言わず、何より掴み所のある長い毛を持つ森林狼だからこそ選択できた逃亡手段だった。
背後を確認する余裕はないがレンが追いかけてきている気配はない。
彼には守るべきルカがいる。
ルカを一人残してまで俺を深追いすることはしないはずだ。
遺跡の通路を抜け少し開けた場所に出る。
俺は一度狼を停止させた。
荒い息を吐きながら床を擦って表面がボロボロになった背嚢を探る。
中からロープを取り出した。
震える手でそれを解き、森林狼の胴体と俺の体をグルグルと強く巻きつけていく。
見栄えなど構っていられない。
振り落とされれば死ぬ。
命綱という言葉通りの意味で俺は結び目を固く締め上げた。
ここから先は魔物の出現エリアだ。
単騎での突破はリスクが高い。
「来い」
杖を通じて召喚を行う。
漆黒の馬と異形の悪魔が空間を割って現れた。
「先行しろ」
指示と共に二体の強力な召喚獣が弾かれたように走り出す。
ラディアントだろうが何だろうが構っている暇はない。
俺は再び森林狼の首に腕を回す。
ロープを手元に手繰り寄せ強く握り直すと、白い毛並みに顔を埋めて問うた。
「匂いは覚えているな」
狼がグルルと喉を鳴らす。
朝方まで一緒に行動していたミルの残り香。
この鼻の利く魔物ならば辿れるはずだ。
「行け!」
ドンッ、と体が後ろへ持っていかれるほどの加速。
俺たちはダンジョンの回廊を疾走した。
前衛の黒馬が嘶く。
行く手を阻む毒荊棘虫の群れに対し、減速することなく紫電を撒き散らしながら突っ込む。
雷撃が炸裂する音。
ゴアデビルが掌をかざし龍光を放つ轟音。
それらが爆発的な破壊の旋律となって響くが、俺たちはその結果を確認することなくただ風となって通り過ぎる。
肉片が舞い散る中を後方に置き去りにするように駆け抜けた。
徒歩なら数時間は掛かる道のりを数十分で踏破する。
第三階層である遺跡を風のように通過して、第二階層へ。
途中、召喚獣たちが進路を変えるのを感じた。
一層目へ向かうルートではない。
脇道へ。
より深く暗い森の方角へ。
そこにミルがいるようだ。
程なくして召喚獣たちが速度を緩めた。
急停止の反動で体が前のめる。
俺はロープを強く握りしめていた手を離し、固く結ばれた結び目を解いてよろめきながら立ち上がった。
指が強張り感覚がない。
掌は赤く腫れ上がり擦り傷から血が滲んでいる。
何度も握り直し感覚を取り戻しながら顔を上げる。
「あなたね。……どうしたの」
凛とした声が静寂に通る。
俺が振り返ると巨木の陰に彼女はいた。
朝に別れ、一人で遺跡を去ったはずのミル。
「あぁ……皆まで言わなくてもいいわ」
言葉にしなくても俺の姿と、逃げてきた状況を見れば察しはつくだろう。
「……」
ミルの瞳が僅かに細められる。
「翡翠が正体を現したってことかしら」
俺は無言で首を縦に振った。
「それで、どっちだったの? ……レンか、ルカか」
彼女はフッと自嘲気味に笑う。
「または……やっぱり二人とも?」
その時だ。
彼女の不自然な笑みの違和感に俺は気づいた。
視線が下へ落ちる。
――血だ。
彼女のブーツの爪先に黒ずんだ血が飛び散っている。
戦闘の返り血にしては位置が不自然だ。
そして彼女が出てきた巨木の根元。
その影の向こうに、暗赤色の血溜まりが見えた。
『死体』の消失。
レンが叫んでいた言葉が脳裏をよぎる。
「ミルさん。その前に……なぜ死体を持ち去ったんですか。遺物ですか」
俺は単刀直入に問うた。
紅蓮人が所持していたはずの遺物。
それは第五階位のパーティーが持っていた強力な遺物。
だが、この土壇場でわざわざ仲間の不評を買い、最悪殺し合いになるリスクを冒してまで行うことか。
死体を冒涜し仲間から孤立してまで欲しかったのか。
俺の問いを聞いてミルは乾いた声で軽く笑った。
悪びれる様子もない。
むしろ開き直ったような凄みすら感じる。
「じゃぁあ、当ててあげよう。混ざり者はルカ。レンを操って皆殺しを企んでる」
俺も自然とその推測に帰結していた。
「……はい、状況から言ってルカで間違いない」
レンの恋心や庇護欲を利用し弱者を装って俺たちにけしかけた。
「まぁ、そうでしょうね」
ミルは木の幹に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
「私はレンには勝てないよ」
彼女は悔しそうに唇を噛む。
「勝てない。だから死体を盗んだの。混ざり者に強力な遺物が渡らないように」
それが理由か。
彼女は強欲で動いたのではない。
敵の戦力増強を防ぎ、あわよくば自分がその遺物を使ってレンに対抗するための力を得ようとしたのだ。
合理的な判断だろう。
だが、そこまでして手に入れたはずなのに。
「……」
ミルは深く、重いため息を吐き出した。
まるで魂が抜けていくような疲労困憊の息。
彼女は懐から何かを取り出すと、無造作に俺の方へ放り投げた。
俺は慌ててそれを受け取る。
金属製の腕輪だ。
装飾が施された鈍色の輪。
手に取った途端、俺の脳内に情報が流れ込んでくる。
これは遺物だ。
間違いなくダンジョン産のアーティファクト。
【媒体:腕輪】
【効果】
無し
「――は?」
俺は思わず声を漏らした。
目を凝らし、何度も情報を読み取ろうと試みる。
だが結果は同じだ。
効果、無し。
「これは……一体。遺物であることは理解できるのに、効果がない」
「そうよ」
ミルが虚ろな目で空を見上げる。
「確かに紅蓮人が所持していた遺物なんだけど、全ての効果がなくなってる。聞いたことないよ、こんなの。偽の遺物でもない、壊れているわけでもない。ただ『空っぽ』なの」
混ざり者に対抗するために手にした遺物。
だが、手に入れたのは何の力も持たないガラクタだけだった。
「――まだ……試してない事、ありますよ」
俺は座り込んだミルに向けて言った。




