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返却できない時計

一夜目:成功の虚無

高層ビルの最上階。

夜景を切り取る大きな窓の前で、九条智久(45)はグラスを傾けていた。

寝室のベッド横にある、気品に満ちた楕円形の真っ黒な机には、自身が掲載された表紙の雑誌が置かれている。

年商100億のイケメン社長の見出し。

他人から見れば、羨ましい限りの人生。

それなのに、胸の内側だけが、妙に空いている。

「……こんなはずじゃなかった」

口に出して、すぐに後悔した。

そんな言葉を言う資格は、自分にはないと分かっている。

視線が、ベッド脇の机に置かれた懐中時計へ向かう。

古い。

時代遅れ。

この部屋には、似つかわしくない。

「真理子……」

それは、過去の恋人、真理子の懐中時計だった。

時計の針は、彼女が亡くなった17時で止まっている。

時間を見る手段なんか懐中時計以外にあるのに、真理子は肌身離さず持っていた。

「この時計だと、どんな瞬間も特別に感じられるの。」彼女はそう言っていた。


智久は時計を手に取る。

高層ビルの切り放された静けさのなか、突如、懐中時計の針が動いた。風が部屋に流れ込み、窓の外に異様な光が現れる。目を凝らし光の中を見る。四次元ストアの文字が揺れている。

「冗談だろ……」

地上約120メートルの世界で、窓の外、空に、コンビニの外観をした物体がある。

現実とは思えない光景に、一瞬、時間が止まる。困惑したのも束の間、気がつけば智久は、スーツ姿のまま、店の扉を開けていた。なかには、店主であろう、仕事ができるビジネスマンの男が静かに迎える。

「お探しの時間はなんでしょうか?」

智久は手元にある懐中時計を見た。

「戻りたい」

これが愛だと、思った。

少なくとも、そう言い聞かせることで、これまでの選択を肯定できる気がした。


二夜目:返却できない時計

智久は、この店が繁盛しているのが分かった。

お客様を迎えるために扉前に敷かれたマットは、ノルウェーのHeymat-Hagl。カウンターや床には、一面に庵治石(あじいし)が使われている。

他にも、ローズウッドにアカンサス模様の装飾が施されたキャッシュトレイ。

内観のこだわりもさることながら、一番目を引くのは、店内中央に位置する、この区切りが見えないほどどこまでも続く棚。棚には無数の時計が並び、全て違う時刻を示していた。その中央には「返却できない時計」の札がかけられている。

店主の声が響く。「巻き戻せば、戻れます。ただし、二度と前には進めません」

智久は微笑した。「進んでいませんよ、最初から。」

それは、真理だった。

少なくとも、彼自身にとっては。

いまさら、一人だけ前に進める気はない。


「取引の代価は、あなたのこれからです。店を出ると、止まった過去に戻ります。」

トレードの代価を記したレシートを受け取ると、智久は足早に店を出た。

どこからともなく現れた光に包まれる。懐中時計が、真理子が持っていた時の姿に戻り、周囲は一瞬で90年代の街並みに変化した。


三夜目:見慣れた景色

先ほどまでいた場所にビルはなく、木でできた喫茶店が立っていた。この店から、温かみが感じられるのは、全体を漆で塗られたオークでつくられているからだろうか。外観や内装、机やいす、カトラリー類に至る何もかもまで、使用されている。

「って、理由は真理子と通い詰めて、マスターと仲良くなったからだけどな。」

手になじむドアノブを押し、店内に入る。鋳鉄のベルを頭上に、炒ったコーヒー豆と焼けたトーストの匂いが胸を温める。彼女の顔が見えた。

隣接する住宅との間の、わずかな路地側に位置する窓際の席。相も変わらず、彼女はそこにいた。

真理子は驚いた顔で「智久?出張じゃなかったの?」と尋ねる。

彼女の声を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが崩れた。

――これでいい。

――これが、正解だ。

そう思わなければ、ここに戻ってきた意味がなくなる。

智久は首を振り、いつものコーヒーを頼む。

時間が、ゆっくりと、流れる。


夕暮れの公園。

二人の伸びた影が並ぶ。智久のポケットの懐中時計は、針が動いていない。

真理子が空を見上げる。「ねぇ、これが最後の夕陽かもね」

17時の時報が町に流れる。

この直後、彼女は病に倒れ、僕は気づかずに進む。


四夜目:永遠の囚人

次の瞬間、違和感が走った。周囲の人が止まっている。智久だけが動ける。真理子は、空を見上げる笑顔のまま、静止していた。

「……え?」

ポケットの時計が逆回転を始め、風が吹く。時計の「チ、チ、チ……」という擬音が、耳鳴りのように響く。

暗闇に浮かぶ店主の声が、回想のように蘇った。

「進まない時間とは、永遠に繰り返す時間です。」


再び、喫茶店。

再び、同じ会話。

夕暮れ。

公園。

十七時。

何度も。

何度も。

智久は、ようやく気づく。

これは、愛ではない。

失う勇気がなかっただけだ。

「……俺は、選ばなかったんだ」

彼女の死を。

未来を。

ひとりになる可能性を。


彼は、自身の弱さを知ってなお、力いっぱい時計を叩く。

「動け、頼む!」

時計が砕け、破片が飛び散る。

カバー部分のガラスが、夕日に照らされ、

じょじょに、動きが、おそく、

やがて、止まった。

全てが静止。音のない世界。空も風も消え、目の前の真理子は永遠に微笑む。

智久は、そこに立ち尽くす。

――戻りたかったのではない。

――終わらせたくなかったのだ。

その理解が訪れたとき、彼の姿は、光の粒となって、薄れていった。


五夜目:消失

四次元ストアの棚。新たな時計が静かに置かれる。店主は呟く。

「永遠は、手に入らないから、永遠なのか」

テーブルには懐中時計だけが残り、智久だった、光の粒は、過去の二人が写った懐中時計の中に吸い込まれていった。

店の棚の上には、「返却できない時計」の札。店主が静かに時刻を合わせる。

扉の外、17時の時報がどこからか響いた。


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