未送信メール
一通目:欠落の日常
小さなオフィスの片隅。デスクの上のPCモニターの冷たい光が、朝倉リオの細かく震える瞼を照らしていた。時計の針は24時17分を差している。
「……送らなきゃ、って、ずっと思っていたのに」
スマートフォンの画面には、半年以上前に作られたままの未送信メールが開かれている。
件名は空白。宛名は元恋人の佐伯ユウ。
本文には、短すぎる一文だけ。
――ごめんね。
「……これだけ、なのに」
声に出すと、その軽さに胸が軋む。
本当は、もっと書くつもりだったのに。
言い訳も、弱さも、怖さも。
でも、それらを言葉に並べた瞬間、彼に見透かされる気がして、いつも、指が止まった。
いや、違う。
――嫌われるのが、怖かっただけ。
たった一度の出来心で、いままでを無にしたくせに。
仕事の忙しさに逃げて、連絡を先延ばしにして。
いまになって、何度も書いては消した、自分のための言葉が、積み重なり、喉を塞ぐ。
「……最低」
誰に向けた言葉かも分からないまま、リオは呟いた。
PC画面には、明日が締切の資料が開いたままになっている。
大手取引先。失敗できない案件。
仕事に取り掛かるため、立ち上がる。動いた拍子、デスクの端に置いていたコーヒーカップが傾いた。
「あ、しまった。こぼれちゃっっっ……、!!!!」
リオは目をつぶって、熱いコーヒーがこぼれるのを待った。しかし、いつまで経っても、熱い感触は来ない。
恐る恐る目を開くと、信じられない光景が目の前にあった。コーヒーの中身が、カップからこぼれ出た瞬間の形で、空中に停止している。液体のしぶきの一つ一つが、完璧に静止していた。
切り取られた窓のなか、リオは震える声でつぶやく。
「もしかして……、、時間が止まっている?」
時計の針は、24時17分を差している。
二通目:四次元ストアとの邂逅
自分の足音がいつもより近くに聞こえる。車のライトの光の筋が空中で止まり、帰り道が同じだけの仲間をマネキンみたく映している。
ベルトコンベアのように人を流す街も、この時ばかりは、様子を変えていた。
―――停止。
認識できるすべての情報が、その瞬間のまま停止している。まるで誰かが再生ボタンを押すのを待っているかのように。
「あ、あの店、なくなっている。それに……あの公園も、だ。」
新人の頃、よく同期と寄っていた居酒屋が、駐車場に代わっていた。商談が失敗したとき、いつも泣いた公園も、いまは個人経営のラーメン店になっていた。
「気づかなかった……」
正直、この店にたいした思い入れはない。だけど、変化に気づかなかった自分へのわずかな絶望と、心の隅を少しかじられた微痛が、この場所に立ち止まらせる。
「ううん、そうだよ。みんな変わって、前に進むんだ。」
言い聞かせるように、自身の中に言葉を落とし、機能を停止した街を再び歩く。
「……え?」
歩き出して数歩、リオの目の前、突如霧が立ち込めた。予期しない侵入者に驚きと安堵を隠せないでいると、深くなった霧の中、ぽつんと小さなコンビニが浮かび上がった。古びた木製の看板には、パソコンで打たれたような四角い文字でこう書かれている。
四次元ストア
リオはまるで夢遊病者のように店へ近づき、その重い扉を開けた。
三通目:選択と覚悟
(カラン、カラン)
中もまた、時の流れから切り離されたような場所だった。
真っ白。めまいがするほど、視界のすべてが白だった。
自分の足が浮いて見え、思わず平衡感覚を失ってしまう。
自身がまるで、白の画用紙に切り貼りされた絵のような錯覚に陥ってしまう。
狭いようで広いこの世界に慣れたころ、すぐ目の前に、奇妙な商品が並んだ棚があることに気づいた。
「1時間券」「失くした言葉」「やり直し体験パック」――奇妙なラベルが貼られた瓶や箱が埃を被っている。
カウンターの奥から、男が、静かに現れた。
男は、全身黒のスーツにサングラスをかけ、髪型は上に掻き揚げている。見た目から年齢は推測できない。目の前の男のいで立ちが、この世界にあまりに似つかわしくなく、つい世にも奇妙な物語に迷い込んだと勘違いしてしまう。
「ようこそ。お探しの時間は、どんな種類でしょうか?」
店主だった男の声は、霧のように静かで、深く響く。
リオは戸惑いながら尋ねた。
「……時間が、買えるんですか?」
店主は微笑とも取れる静かな表情で答えた。
「四次元ストアは、あなたの願いをかなえる。誰もが一度は、戻りたい瞬間を持っています。それを、お手伝いするのがこの店です。」
リオは店内をゆっくりと見渡した。
棚の片隅。
リオの視線が、ある瓶に吸い寄せられる。
メールのアイコンの形をした、透明なガラス瓶。
胸が、痛んだ。
「それは……?」
男は一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置いた。
「送られなかったメールです」
息が、詰まる。
「過去に、送れなかった一通を、再送できます」
リオは、理解してしまった。
理解してしまったからこそ、逃げ場がなかった。唇が震えるのを感じながら、どうしても、聞かずにはいられなかった。
「……代わりに、何を失うんですか」
男は、努めて、淡々と答える。
「今のあなたです」
リオの喉が鳴った。
後悔を抱え、止まった時間にしがみついている、この自分。
それが、消えてなくなる。
過去の選択に上書きされ、存在しなかったことになる。
言葉にならない思いが、店を漂う。
でも。
迷いは、なかった。
「……構いません。」
声は、驚くほど静かに響いた。
「もう、こんな思いをしなくてすむんですよね。」
答えを期待していない問いを投げる。
男は、何も言わなかった。
リオが瓶を開けると、中から光が溢れ出し、彼女の体を包み込んだ。街の音が、逆再生のように遠くから聞こえ始め、静止していた世界が、急速に動きを取り戻し始めた。
リオが光に包まれる前、店主の口が動いていた。リオには店主がなにを言っていたか、確認することはできなかった。
四通目:再送と代償
光が収まると、リオは見慣れた、しかしどこか懐かしい部屋の中に立っていた。半年前、ユウと住んでいたアパートの一室。手元のスマホには、あの「ごめんね」の未送信メール。
「これを送れば……彼に、会える」
過去の自分の代わりに、震える手で指を動かし、「送信」ボタンを押した。
画面がまばゆい光に包まれた瞬間、窓の外から、ユウのスマホの通知音が聞こえた。
「…ユウ!!」
その音を合図に、リオは驚いた顔で、外に飛び出していく自身の後ろ姿を見た。
先ほどまで、重なっていた過去と現在が分かれ、望んでいた未来へと走り出した。
「リオ!!!」
「ユウ!!!」
リオは、部屋の窓ガラス越しに抱き合う二人を見ていた。足元の畳のシミが、ひとつふたつと増えていく。
リオの身体が、淡い光の粒子になり始める。
その時、聞こえなかったはずの店主の言葉が再生された。
「今のあなたは、もう存在しない。選択は、書き換えられました。」
外では、ユウと過去のリオが、抱き合い、笑い合っている。過去のリオは泣きながら、ユウの腕の中にいる。
現在のリオは、その幸福な光景を見つめながら、涙を浮かべた。
「……よかった。これで……」
リオの身体は完全に光の粒子となり、静かに消えていった。
五通目:望んだ未来
四次元ストアの店内。
カウンター裏の棚に、新しいガラスの瓶が置かれていた。ラベルには「望んだ未来」の文字と抱き合う二人の男女の写真が印刷されている。
誰に向けた言葉かも分からないまま、店主は呟いた。
「後悔できるのは、価値ある証か。」
(カラン、カラン……)
扉の外、時間は止まっていない、現実の街。ドアベルの音と共に、また別の誰かが、迷い込んできた。
「ようこそ。お探しの時間は、どんな種類でしょうか?」
店主の声は、霧のように静かで、深く響いた。




