第26話 (12月30日のおはなし)
皇女とヴィーのやりとりを見守っていたティーゼルは、皇女の言葉から、彼女が永い時を生き続けているという事実をあらためて認識し、慄然とする。
鉄砲水に呑まれた際、この先死を迎えることがあるのかも分からなくなった婚約者を、もしや天で永劫待ち続けることになるのかと考えた。そのときに感じた絶望や孤独をまざまざと思い出す。
なんと言っても皇女とバルサムは今、まさにそのような状況下にあると言えるのだ。
本当に人の魂が死後天に昇り、そこに存在し続けるのなら、バルサムは番人や守護者としてより、どうしてかいつまでも現れない妻を待って、天門に貼り付いている可能性もあるのでは、とティーゼルはいささか不謹慎な想像を浮かべてしまった。
ニームの皇族が具体的にどのような存在だったのかは知る由もない。しかし帝国崩壊から遥かに時が下ったエルムの世に生きるティーゼルからすると、その力といい、斃した相手の寿命が自らのそれに積み上がることといい、異質と言うほかない。
ただこの場でティーゼルが見る限りの皇女は、親しくあった夫を持ち、また自らの血を継ぐ相手に愛情を秘めた眼差しを向ける、自分たちと変わらない心の持ち主でもあることが窺えた。
彼女が奪ったという同胞の寿命が何年分になるのかなど、ティーゼルには分かるはずもない。しかし人と同様の感覚を持ったまま、たった一人、永い時を生き続けるなど、どれほどの業苦だろうと思うのだった。
「皇女、貴女が普段眠っておいでだというのは……」
ヴィーが壇上から退がるのを待って、ティーゼルは口を開いた。
皇女はこちらを見て頷く。
「お前の推測の通りだ。正直、どれほど正気を保っていられるかが分からなくてな」
淡々と語られる内容に、ティーゼルはその傷ましさを想像して眉根を寄せた。
「元より私の存在はエルムから隠されて然るべきものだ。なんと言っても、私はいまだに自由に神の力を引き出せる。そのような存在が精神の均衡を失うことがどれほど危険か、この地の有様を見ているドレイクや他のヴィテックス、そして我が子らはよく理解していた」
皇女は当時を振り返るように遠い目をし、ほんの少し沈黙する。しばし彼らに想いを馳せる様子を見せたのち、再びティーゼルに視線を戻した。
「ほかに皇族が残っていない以上、私の寿命を奪える者は存在しない。剣で突こうが槍で刺そうが、外傷も病もこの命に何ら影響を与えることはできぬ。――ああ、そうは申しても傷を負えばお前たち同様、痛いのだからな。くれぐれも試すでないぞ」
突然妙な警告を挟む皇女に、ティーゼルは何を言うのか、というように首を振る。
「そんな馬鹿な真似はいたしません」
「そうか? 人の好奇心は時折おかしな作用をするものゆえな。だが懸命だ。私はあまり寛容ではない。――話を戻そう。私の心の在りようが大陸の危機に繋がる恐れがあるならば、意識そのものを無くしてしまうのが最善であろう。そう考えた私は、永き時の果てに訪れるはずの終わりを、眠りの中で待つことにしたのだ。時折こうして目覚めることがあっても、またすぐに眠りに就く。現世と交わり、私の存在が世に影響を与えてしまうことが万が一にも起きぬようにな」
「……先ほど刻限が近いと仰せだったのは、そのためですか」
ヴィーが静かな声で問う。皇女は頷いた。
「そうだ。……さあ、そろそろお前たちを外に戻そう。私の力無くして、ここを取り囲む岩盤を通り抜けることはできぬ」
「あの鉄砲水が……?」
「水がそうであったわけではない。あの中から私がこの周辺に巡らせていた力でお前たちを拾い上げ、こちらへと召んだのだ。バルサムと私の血筋に反応してな。くれぐれも鉄砲水には気を付けよ。他の者であったら死んでいたぞ」
あの山と積まれた人骨は、『ニームの息吹』によるものだけでなく、長い年月にわたりそういった事象が繰り返された結果でもあったのか。二人は自分たちの幸運を後から自覚し、いささか蒼褪める。
「肝に銘じます」
神妙に答える彼らに、皇女は面白そうに唇の端を吊り上げた。
彼女は流麗な動作で座から降り、壇上にすらりと立つ。彫像のごとく完璧に均整が保たれた姿は、やはり天に向かって聳える一本の水晶を思わせ、冷厳な美しさを二人の目に刻んだ。
彼女は彼らを傲然と睥睨し、右手を翳す。女帝のごとき威厳に満ちた佇まいとは裏腹に、その鋭い眼差しには隠しようのない慈愛と惜別の念を湛えており、ティーゼルもヴィーも、深く胸を衝かれる思いがした。
皇女の掌から生まれた燐光が二人に迫り、そして全身を包み込む。
その光が徐々に神聖文字に形を変えていくその間に、ヴィーは皇女に向かって一礼した。
「貴女の眠りと貴女ご自身の平穏が、最後まで保たれますように」
ティーゼルも続けて頭を垂れる。
「佳き夢が気高き貴女の心を慰めますよう」
二人から安寧の祈りを贈られた皇女は目を細めた。
「今生で再び会うことはあるまいが――達者でな」
彼女の言葉が二人の耳に届いた直後、彼らの姿は何かに呑み込まれるようにこの場から消えた。
命を得たかのごとく緋色を湛えていた紗幕が、端から徐々に色を失い、静穏な乳白色に戻っていく。
その速度は先ほど皇女の来臨を告げた際よりずっと緩やかで、まるで後ろ髪を引かれている主の心境を表すかのようだった。
皇女は壇上でくるりと踵を返し、若者たちがいた場所に背を向けると、自らもその場から姿を消す。謁見の場から寝所へは、人の足では決して到達できない。彼女が行使する力でのみ、出入りが可能であった。
転移が終わるとともに、結い上げられた銀の髪はひとりでに解けてまっすぐ背に流れ、髪を飾っていた無数の玻璃の簪が、大理石の床に落ちて涼やかな音を響かせる。
纏う衣も眠りの呪符を一面に施された寝衣に変わっていた。
設えられた姿見に映る自身の姿は、初めに眠りに就く前とさして変わらない。ふん、と皇女はつまらなそうに小さく鼻を鳴らし、身体の向きを変えた。
数歩もない距離の寝台の脇に立つなり、独り言ちる。
「五百年、か……」
寝台の奥、柔らかな白色の雪花石膏が飾る壁面に、細かく流麗な文様が何段にも渡って刻まれていた。左上から途中までが仄かに光るそれは、神聖文字によって表された暦である。目覚めることがあったときに、すぐに時の経過が分かるよう刻んでおいたものだった。
(ルーシ、まだまだお前には逢えそうにない。だが……思いがけずお前の面影に会った)
皇女は寝台に腰を下ろし、ゆっくりと寝具に身を横たえた。暦からは背を向け、瞼を閉じる。
(あの者たち、エレカンペインでも相当な身代のはずであろうに……あそこまで素直で生き延びられるのか?)
つい、そんな心配をしてしまう。だが、趣きは違えど、それぞれに真っ直ぐな芯を心に宿した彼らの眼差しが脳裏に浮かぶ。
(……違うな。あれは……強さの表れかもしれぬのか)
強大な権力を負うがゆえにそれに翻弄されつつも、人の真心を手放すまいと足掻き続ける、しなやかな精神。
この先、さぞや苦労が多かろう、と小さく苦笑して、彼女は彼らに倣い、心の中で二人の生に幸いが多く訪れることを祈った。神の意識の一部を共有して生きてきた彼女にとって、祈るべき存在が何であるか、いまだ分からないままであったが。
「……やっぱりあのとき、止めを刺しておくべきだったなぁ……」
「お前、やっぱり『死に損ない』なんだな」
ティーゼルは呆れた声で言うと、ヴィーは心外だとでも言いたげに眉を上げた。
「疑いようもなく同一人物でしょ」
「いや、あまりそう思えないから言ったんだが……」
呑気な会話を交わす二人は、白刃に囲まれていた。
相手の連中にはいくらか見覚えがあった。
ヴィーが『ニームの息吹』を使って眠らせた一団である。
「なんだか知らねぇがおかしな真似しやがって」
「さっさと死んで大金に化けやがれ」
口々に浴びせられる怒声を聞き流しながら、ヴィーは小首を傾げた。
「皇女って結構大雑把なのかな?」
「お前はしっかり血を引いてるよ!」
ティーゼルは相手の剣を自分の剣で弾き返しながら叫ぶ。
ここに現れたのは、ヴィーがあのとき眠らせた者たちだけだった。残りはヴィーに恐ろしいニームの影を重ねて逃げ出し、手に入るであろう礼金も諦めたのだろうが、眠らされたばかりでその後を知らない残党が、再び徒党を組んで現れたらしい。
相手の数が減ったとはいえ、それでも自分たちよりは遥かに多い人数である。再びヴィーは手持ちの『ニームの息吹』を活用しようとしたが、それがまったく効かなかった。
皇女は発動中の呪符の力を一度に無効化すると言っていたが、それは発動後の残滓である『ニームの息吹』に宿った残り香まで消し去ってしまったようだ。
そのために眠っていた彼らも意識を取り戻したのかもしれない。
鉄砲水に襲われた峡谷から、最も近いであろうあの巨岩を目指して西へと進んでいたところ、二人は襲撃を受けたのであった。
「なーにがさっさと荒野を出れば問題無いだ……!」
舌打ちせんばかりにぼやき、ティーゼルは剣を構えて一団の中に飛び込む。
「別の問題があるなんて彼女に話さなかったから……」
「そりゃそうだな。だがお前はその可能性に自分で気付け!」
皇女を庇うような発言をするヴィーに尤もな指摘を投げつけて、ティーゼルはならず者と斬り結ぶ。
同じく剣で応戦するヴィーは悪びれもせずに言った。
「話が長くなると思って言わなかった」
「どれだけ俺を扱き使う気だった!?」
ティーゼルは眼前の襲撃者より背後の連れに恐れを抱く。
「俺は早く戻りたいんだ! さっさと抜けるぞ!」




