第25話 (12月28日のおはなし)
(こいつはこんな顔もできるのか)
ティーゼルは心のどこかでそんなことを思った。
今なら分かる。血に塗れた『死に損ない』であった間、ヴィーはその血の陰で一度も笑ったことはない。
しかし何かが欠落しているよう、そんな危うさが、いつしか感じられなくなっていた。
投げやりでどこか行き当たりばったりな、ある意味歳相応とも言えた様子は鳴りを潜め、そこに佇む端麗な若者は、思慮深さを湛えた瞳をこちらに向けた。
「ティーゼル。姫のためにここまで来た貴方にわざわざ言うことではないかもしれないけれど……大切な女を、大事にしてあげて。――私にはできなかったことだから、貴方には……貴方は、手放さないでいてほしい」
これまでの彼とは違い、深い想いが込められたその言葉に、ティーゼルは咄嗟に何も言えなくなった。彼は直接ヴィーに掛けるべき言葉が見つからず、代わりに皇女を振り返った。
「……皇女、厚かましいことは承知で、もうひとつお願いがあります。どうか……彼の刀傷を治癒してやっていただけないでしょうか。俺が守るにしても、現実問題ひとりの手では限界があります。せめて彼がまともに動ければ、危険はずっと減るはずです」
「断る」
皇女の回答はにべもなかった。
ティーゼルは咄嗟に食い下がろうと口を開きかけたが、すぐにぐっと噤む。すんでのところで、文句を言える立場ではないことを思い出したのだ。
そんな彼に、皇女はほんの少し表情を和らげて続けた。
「別に出し惜しみや意地悪で申しているわけではないぞ。王族たる者が単独行動の末にそのような手傷を負うなど、どのような事情があろうと以ての外だ。ここで私があっさり治せば、こやつはすぐに痛みを忘れる。命に別状はないようだし、存分に痛みと不便を味わえばよいのだ。そのせいで連れ共々危機に陥る恐れも含めてな。きっちりしっかり反省せよ」
途中からすっかりヴィーへの説教に変わっている。
正論すぎる彼女の言葉に、若者たちは気まずそうに押し黙るしかなかった。
「……今の世で、ヴィテックスがここをどこまで注視しているかは知らぬが……。お前もそうであろうが、神の力を得る術もない彼らは、空を飛べるわけでもない。早々に禁域を脱すれば、お前たちも影の護衛が使えよう?」
皇女の指摘に、ヴィーは眉を上げる。
「確かに……仰せの通りです」
表情を明るくして頷く彼を横に、ティーゼルはひとつの疑問を口にした。
「ちなみに……。なぜ無法者や兵ではなく、間者だけが立ち入りを禁じられているのです?」
「私が好まぬゆえな」
「……は?」
こともなげに皇女は答えたが、ティーゼルは驚きに目を瞠ってしまう。彼女は謎めいた微笑を浮かべた。
「まあ――おまえたちにすべてを明かすわけにはいかぬが……他の遺構は別として、この地のあの仕掛けは、実は意図したものではない。ここは私が無意識のうちに呪ってしまった地なのだ。あのようなことは後にも先にも一度きりであったが――。当時は近付くエルムの民が、悉く毒の呪符の発動により命を落とす有様だった。ドレイクに請われて後年、解呪を試みたが……刻まれた私の悲憤が深すぎたらしくてな。除き去ることは私自身にもできなかった。……結局、私が落ち着きを取り戻すと共に呪符の乱発は収まっていった。だがこの地は私の感情と深く結びついてしまったようでな、心の奥底で赦せぬ、あるいは拒絶したいと思ってしまう者には今なお呪符が発動するのだ。私の意識が有ろうと無かろうとな。――いずれにしてもあのような目端の利く者らにここを嗅ぎ回られたくはない。今となっては好都合でもある」
超然とこちらを見下ろす彼女の様子からは、それほどまでに激しい感情を抱えているようには見えなかったが、他人事のように語るその口調こそ、御しえない自らを、敢えて意識から切り離そうとしている証左かもしれなかった。
それほどまでに深い悲嘆と憤りを彼女に与えたものは何だったのか。
明かすわけにはいかない、とはっきり言われてしまった以上、ティーゼルにもヴィーにもそれ以上踏み込んだ質問はできなかった。
「さて――。久しぶりの、それも我が子孫との語らいは思いのほか楽しいものだったが……。そろそろ刻限も近い。お前たちの望みを叶えるとしよう」
皇女の言葉に、二人ははっとする。彼女は透き通るような微笑を浮かべたまま、右手を前に差し出した。上へ向けた掌から小さな燐光が生まれる。次々と生じるそれは無数の小さな玉となって浮かび上がり、綿毛のように彼女の身体に纏わりつきながら浮遊し、その全身を覆った。
光に包まれた皇女は静かな眼差しを自身の右掌に注ぐ。その視線に応じるように、掌の近くに浮かんでいた光が上下に跳ね、そして急激に膨らんだ。直後、人の顔ほどの大きさの神聖文字を形作ると、そのまま次々と虚空に吸い込まれるように消えていった。
どれほどの時だったのか、目の当たりにした不思議な光景に見入っていた二人には分からなかった。
やがて光の玉の最後の一つが神聖文字となって消えるのを、彼らは固唾を呑んで見守る。
光が去ったあとのこの場は、急激に薄暗くなったように感じた。それはこの奇跡のような邂逅のときが終わりに近付いたことに対する、彼らの寂寥を映しているようでもあった。
「……これでこの大陸で今発動している呪符はすべて効力を失う。お前の婚約者もほどなく目覚めるであろう」
厳かに告げる皇女に、ティーゼルは騎士の礼を取って頭を垂れた。万感の想いを込めて謝意を述べる。
「感謝いたします。皇女」
「この馬鹿者を頼んだぞ。――ヴィー、近う寄れ」
突然指名され、ヴィーは驚いた顔をする。
「……はい」
戸惑いつつも返事をし、彼女の言葉に従って進み出た。
彼が近くまで歩み寄る間に、皇女は上体を起こし、紗幕の座に腰掛ける。
ヴィーが正面まで来ると、彼女は両手を彼の頬に伸ばした。
「……皇女?」
両頬を白い手に包まれ、ヴィーは驚きの表情で彼女を見上げる。
皇女はヴィーの目を覗き込むようにじっと見つめ、それから慈しむような眼差しで微笑んだ。
「何があったか、詳しくは訊かぬが……。ずいぶんと傷ついた目をしている。大切なものを失ったゆえか」
一瞬、ヴィーは口を引き結んで否定するような素振りを見せたが、すぐに観念して俯いた。
「そ……の通りです」
認めたくない、という強がる心は、この永い歳月を生きる存在にとって、どれほど些少でつまらないものに映るだろう。そう思うと意地を張ること自体が無様に思えたのだ。
亡骸を見ることも叶わなかった彼女。
政略という大きな流れによって、運命を交えることを定められた相手。
この先どちらがどれほど傷つくことになっても、その大きな目的のために手を取り合い、互いを捧げようと誓い合ったのに。
しかし第三者によって誓いは反故にされた。それはそのまま彼女の死に繋がった。異変を聞き、蟄居先の僧院から隣国の彼女の許へと何頭もの馬を潰して走りに走ったが、着いたときにはすでに、彼女は冷たい土の中だった。
このことに関し、あの国の中枢がこぞって蒼褪めるくらいには厳しい処断を下してやったが、それはあくまで貴族としての自分が取った政治的な必要措置だ。腹いせや復讐といった感情的な決着を付けたわけではなかった。
気持ちが追い付かない。彼女の死を頭では嫌というほど理解しているのに、心が受け入れない。
赦し難い行いで自らの国を危うくした彼らの望む通り、自分が消えてやったらあの国はどうなるのだろう。知ったことか。
そんな渦巻く感情が抑えきれなくなり、気付けば荒野に足を踏み入れていた。
自分が死んだら彼女の死も、その死に託された彼女の望みも無意味になる。だから死んではいけないと分かってはいる。でも今こうして呼吸をし、命を繋いでいること自体がもう辛い。
そんな思いで彷徨っているうちに、本当に命の危機が迫る事態になった。
食糧は尽きるし、次々と賊は襲ってくる。生きているのが辛いなどという話はどこへやら、無我夢中で敵を倒し続け、しかし道を失い、ついには斬られて動けなくなった。
皇女に指摘されるまでもない。確かに自分は呆れるほどに愚かな真似をした。
(……でも)
ここに来なかったら、あのままいつもの道を使ってただ僧院に帰還していたら。
自分の心は本当に死んでしまっていたかもしれない、とヴィーは思うのだ。
「泣けもしていないようだな」
素直に認めたヴィーに皇女は言う。
ヴィーは肯いた。
「そんな余裕は……まだありません」
「そのようだな」
やはり女性にしては甘さの無い、落ち着いた低めの声には、しかし明らかな慈愛が滲んでいた。
ヴィーは伏せていた目線をようやく上げる。まっすぐに皇女の目を見上げた。
相手の美しくも鋭い銀の瞳は、しかしその奥に自分と同じく傷を抱えているように見えた。それは、二度と逢えない相手を希求する心か。
「……貴女は……いつかバルサムに逢えるのですか?」
どうかそうであってほしい、そんな想いが溢れ出して、ヴィーは考えるより先に問うていた。彼の想いを感じ取ったのか、皇女は笑みを深くする。
「……恐らくな。神と戦った云々《うんぬん》はドレイクの作り話だが、少なくとも魂は天にはいるであろう。後は私が――奪った他の皇族の寿命をすべて使い切るのを待つのみだ」
「奪った寿命?」
「皇族同士の争いは寿命の奪い合いなのだ。皇族を斃したいと考えた場合、その相手の寿命を奪うことが唯一の手段。私は自分以外の皇族全員の寿命を奪った。それがどういうことなのか――私が周りの者すべてに置いていかれながら、何百年と生き続けることになるのだということは、夫には……黙っていた」
皇女は目を伏せる。
ヴィーは少しの間唖然としていたが、やがて悪戯っぽく微笑んで言った。
「それはバルサムに叱られてしまいますね」
「ふん、先ほど私に小言を言われた腹いせか。生意気なやつめ」
皇女は軽くヴィーを睨んだが、本気でないことはヴィーにも分かりきっていた。
「私と比べるまでもなく、お前の生きてきた時はまだまだ短い。焦らずに歩むがよい」
「……はい」
ヴィーが返事をすると共に、皇女は彼の頬から手を離した。




