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第23話    (12月23日のおはなし)

 声が終わると同時に、通路の足元が突然消える。

 がくんと身体が落ちる感覚に二人は体勢を崩しかけたが、その足許から、先ほど光の中に飛び込んだときと同じ、また謎の抵抗を潜り抜ける感覚が二人を飲み込んだ。

 気付くと彼らは磨き抜かれた白大理石の床に着地していた。

 神聖文字の乱舞は無く、自然な光がどこからか差し込んで辺りを仄明るく照らしている。閉塞的で不可思議なあの通路が、いかに特異な空間だったかを遅れて実感した。

 目線を上げると、精緻な刺繍を施された薄紗の垂れ幕が、幾重にも天井から吊るされ、風にそよいでいる。

 乳白色の光沢を持つ薄い絹地は複雑な陰影を生み、そこに銀糸で施された刺繍がさりげなく浮き上がる。揺れるたびにところどころが小さな光を弾き、よくよく見ると意匠の中に小さな水晶や瑪瑙など、色とりどりの貴石がふんだんに縫い付けられていた。

 軽やかな風合いではあるが、同時に銀糸の縫い取りから醸し出される荘厳な雰囲気との調和が幻想的だ。

 揃いの垂れ幕は天井だけではなく部屋の奥へと複雑に巡らされ、正面を覆い、数段高くなった壇上の敷物の上にゆったりと広がっていた。

 三方がそのように同じ薄紗で覆われているため、大理石の列柱に支えられた室内の全容を掴むことができない。

 この量の布地と考えると、どれほどの針子の手が掛かっているのか、あまり詳しくないティーゼルでさえ、軽く想像しただけで気が遠くなりそうだった。

 一方、背後からは陽光を感じ、振り返ってみるとそこに壁面はなく、そのまま戸外に続いていた。

 その先の庭園には巨大な葉を広げた植物がいくつもそびえており、降り注ぐ苛烈な陽光を和らげ、通り過ぎる風から余分な熱気を取り去り、室内を快適な温度に保っている。

 いずれも北方の出身であるティーゼルもヴィーも、そこに植えられている木が何であるかは知識の外であったが、久方ぶりに目に映る生き生きとした緑は思いのほか、彼らの心に鮮やかな潤いをもたらした。

 二人はしばし、言葉もなくそちらに見惚れていたが、その間に室内で起こった異変が視界の端に映り込み、驚いて顔を戻した。

「な……っ!」

 思わずティーゼルはそう声を漏らし、ヴィーも目を見開いてはっきりと驚きを顔に浮かべる。

 室内を覆う紗幕が、鮮やかな緋色にその色を変えていた。先ほどここに着いたときは、清かにそよいでいた白い薄紗が、今は燃え立つように辺りを照らし、絹地と調和するようにささやかに存在を示していた銀糸の縫い取りは、燦然とした輝きを持って豪奢な意匠を浮き立たせている。

 そしてその緋色の洪水の中、庭園と相対する奥の壇上に――。

 二人は、この唐突な驚くべき変化が何であるのか、すぐに悟った。

 これは、この場が主の降臨を告げているのだ。

「よく来たな――と言うべきか」

 初めて耳に届いた肉声は、女性にしては低めの、甘さのない声。

 緋色を従えた、雪のように白い人影が、彼らを見下ろしていた。



 ティーゼルは唖然とする。

 その忽然と現れた相手の姿にである。

 そこに立ち、こちらを睥睨へいげいするのは、すらりとした肢体を首元から足先までを覆う白銀の衣装に包んだ女性だった。

 真っ直ぐな銀の髪は見たこともない複雑な形に結い上げられ、残りは一糸乱れる様子もなく背に流れている。人間とも思われないほど完璧に整った造作に、鋭い光を宿した銀の瞳。それを縁取る白銀の睫毛は豊かで長く、そういえば最近同じようなところに感心したことがあったか、と思い返してそれがヴィーの金の睫毛であったと気付く。

 一見して二十代後半ほどと思われるものの、その瞳が抱く底知れない影は、彼女が到底、見た目通りの年齢ではないことを如実に物語っていた。

 そんな存在がこの世に在るとも思っていなかったティーゼルは、ヴィーが先ほど、ニームの血を受け入れろ、と言った意味を漠然と理解する。

 これほど明らかに世のことわりから外れた存在を前にしたまま平常心を保つには、間違いなく覚悟と心構えが必要だった。

(……俺にもこの存在の血が流れているだと?)

 さすがに信じ難い。

 傲然とこちらを見下ろす美貌は、口許に不敵な笑みを微かに浮かべているが、佇む姿勢すらも一片の歪みが無く、氷か水晶の柱を思わせた。

 ……と、彼女がふと、小首を傾げて何かを思案するような仕草を見せる。

 何事かと固唾を呑んでティーゼルが見つめていると、彼女はすい、と右手を動かした。

 すると彼女の足元にたぐらまっていた緋色の薄紗がひとりでに持ち上がり、そこで横に広がり動きを止める。

 寝椅子のように形作られたそこに、彼女はゆったりとした所作で腰を下ろすと、こちらに顔を向けたまま寝そべった。薄紗は寝具のように柔らかく彼女の身体を受け止める。

 楽な体勢を取った彼女は、再び口を開いた。

「五百年ぶりに目覚めたのでな。身体が思うように動かん」

「五百……?」

 つい、ティーゼルは訊き返してしまった。相手は口許に笑みを形作った。紅を引いていない薄い唇は、雪の精を思わせる風情だ。

「リツェアの建国……その少し後くらいから、な」

「……」

 頭がついていかず、ティーゼルは視線を虚空に彷徨わせた。

 つと、その横をヴィーが進み出る。

「禁域への立ち入りをお許しくださり、感謝いたします。私は――」

 彼が礼儀正しく名乗ろうとするのを、彼女はす、と手を上げて制した。

「よい。私の名も伝えられてはいないのだ。互いに真名の名乗りはすまい。先ほどお前たちを歩かせた回廊までの会話は聞かせてもらった。無作法は承知のうえだが、招き入れるには慎重にならざるを得ない事情があってな。――お前はヴィーと言ったか。私が何者かは分かっているのだろう?」

 ヴィーは小さく顎を引く。

「……先ほど『ようやく気付いたか』と仰いました。ということはやはり貴女は――」

 彼女はにっと笑って頷いた。

「そういうことだ。ルーシ――この呼び名は伝わっていないのだったか。バルサムの妻であった者、お前たちのはるかな祖先ということになるな」

 推測はしていても、あらためて肯定されるとその事実に圧倒されるのか、さすがのヴィーも言葉を失ったようだった。

 ……と、ふとヴィーを見る彼女の眉根が寄せられる。

「なんだ、その顔は」

「え?」

 突然険しい声で問われ、ヴィーは訊き返したが、彼女は答えることもせず右手を彼の顔の方に向けて伸ばした。

 その掌が一瞬、光に包まれたかと思うと次の瞬間、ヴィーの顔に向けて光が迸る。

 光は中空で神聖文字を象り、ヴィーの顔に貼り付いた。

「……っ!?」

 ヴィー本人も、はたで見ていたティーゼルもぎょっとする。

 ひとり、光を放った張本人だけは平然と、差し出したままの右手を何かを操るようにくい、と動かした。

 ヴィーの顔面の神聖文字がひときわ輝きを放った後、さらさらと形を崩して零れ落ちる。

 いったい何事か、とヴィーもティーゼルも目をしばたいたが、ヴィーの顔を見たティーゼルが小さく叫んだ。

「日焼けが治ってるぞ……!」

「え? ……あ、本当だ……」

 ヴィーも自分の頬を触り、日焼けによる損傷がきれいに消え去っているのに気付く。

「もしかして腹の怪我も治ってるのか?」

 ティーゼルは期待を込めて言ったが、ヴィーは首を振り、また横合いからはふん、と彼女が鼻を鳴らすのが聞こえてきた。

「そんなものは自分の責任だ。自力で治せ」

「え……」

 そっちのほうが重傷なのですが? とティーゼルは自分のことではないなりに思ったが、彼女はつまらなそうに言った。

「五百年ぶりの話し相手が見苦しい肌を晒しているのが我慢ならなかっただけだ。それ以外まで面倒など見ていられるか。キリがない」

「はあ……」

 あまりに身勝手な理由であることにティーゼルは呆れたが、キリがない、という彼女の言は確かに分からなくもなく、また五百年ぶりの話し相手が、と言われてしまえば致し方ない気もした。

「感謝いたします」

 脇腹の重傷を自己責任と言い放たれたヴィーが、彼女の発言をどう思ったのかは不明だった。彼は柔らかい表情を崩さず、作法のお手本のような優美な所作で感謝を述べる。

「さっき申したのが理由だ。礼には及ばぬが……お前、まだ幼いが我が夫にそっくりだな。またその顔に出会うとは思わなんだ」

 そう言って目を細めた彼女の顔は先ほどとは打って変わって柔らかく、そして拭い切れない寂寥がその瞳に影を落としていた。

「……あの」

 彼女に感じる傷ましさを振り払うように、ヴィーは遠慮がちに切り出す。

「伺いたいことが」

「なんだ?」

「ニームとは……二人一組で神の力を発揮すると伝え聞いております。ここには貴女の対となる方がいらっしゃるということでしょうか」

 彼の質問に、彼女は不敵に笑った。

「良い質問だな。お前の知る、その対で発揮する力というのは、神官が行使するものだ。だが私は違う。私には対など必要ない。なぜなら――」

 そこで彼女は一息置き、ゆったりと頬杖をついて続けた。

「私はニームの皇族。神の意識の一部を共有できる、ある意味神そのものでもあるからだ。――無数のエルムの民の命をすすった、まさにその神の、な」

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