触れ合うその日まで
――夜の静寂が町を包むころ、ある家の屋根裏の古い梁が軋む音だけが響いていた。
彼女はいつもそこにいた。高いところからすべてを見下ろし、埃と光の狭間で静かに微笑む存在。
彼女の瞳は柔らかく、どこか遠い記憶を宿していた。
一方、彼は彼女の下で、いつも彼女を見つめていた。
足音や笑い声、時には涙の重さも一身に受け止める存在。
年月とともに輝きは失われ、身体は軋むようになり、傷痕も増えて行った。
二人は言葉を交わさない。
彼は彼女の存在を感じ、彼女は彼の温もりを知っていた。
家の中の住人たちが入れ替わり、子供の笑い声が響き、老夫婦の静かな会話が漏れるたび、二人はただ見つめ合った。
彼女は変わらず清らかで、時折差し込む陽光に白く輝いた。
彼はしかし、年々その姿をくすませ、歩くたびにギシギシと悲鳴のような音を上げた。
自分はまだ大丈夫と、彼は自分に言い聞かせる。
彼女には聞こえないはずなのに、彼女の視線が少しだけ優しくなる気がした。
――十年が過ぎ、住人は新しい家具を運び込み、彼の身体に新たな傷を刻んだ。彼はそれでも彼女を見上げた。
彼女は変わらず彼を見つめ続けている。
君はあまり変わらないねと、彼は心の中で呟いた。
彼女は答えず、ただ静かにそこにいた。
時折、風が窓を揺らし、彼女の周りに光の粒が舞った。
それが彼女の笑顔だと、彼は信じた。
――二十年目、家の住人は減り、静寂が家を支配し始めた。
彼の軋みはますますひどくなり、歩くたびに鈍い痛みが走った。
もう長くないかもしれないと、彼は思った。
それでも彼女を見上げることをやめなかった。
彼女は少しだけ寂しそうに彼を見つめた。
夜、月明かりが彼女を照らすと、彼女の輪郭がぼんやりと揺れた。
それはまるで、彼女が初めて彼に手を伸ばしたかのようだった。
でも、触れ合うことはできない。
二人の間には、彼と彼女が触れ合えない隔たりが常にあった。
――三十年目、住人はさらに少なくなり、家はほとんど空っぽになった。
彼の表面はひび割れ、軋みはまるで泣き声のようだった。
それでも彼は彼女を見上げた。彼女は変わらずそこにいたが、彼女の視線には深い悲しみが宿っていた。
もうすぐ限界を迎えることを、彼女も感じていたのかもしれない。
君だけは変わらないでと、彼は心の中で願った。
彼女は静かに彼を見つめ、答えなかった。
――四十年目、異変が訪れた。
地鳴りが響き、地面が揺れ、空が裂けたような轟音が響いた。
家は悲鳴を上げ、梁が折れ、壁が崩れた。
彼女は恐怖に震えながら、それでも彼を見下ろしていた。
彼は最後の力を振り絞り、彼女を守るように軋んだ。
家が崩れ落ちる瞬間、彼女の姿が彼に近づいてくるのを感じた。
今度こそ、君に触れたいと、彼は思う。
光と埃の中で、初めて二人の距離が縮んだ。
瓦礫の山となった場所で、かつての天井と床は互いに触れ合っていた。
彼女の白い破片が、彼の傷だらけの表面にそっと重なる。
もう見つめ合うことはできないけれど、初めて感じる互いの温もりに、二人は静かに微笑んだ。
やっと触れ合えたと、彼女が囁いた気がした。
ずっと待っていたと、彼が答えた気がした。
崩れた家の下で、四十年分の想いが、ようやく一つになった瞬間だけが、確かにそこにあった。