恋するブラック子猫の純愛、ゆえに抗争 ~クズに嫁がされた侯爵令嬢は小さなナイトに守られていたので全然平気でした
吾輩は猫である! 名前はある。ご主人様がボクを拾ったその日に付けてくれたからな。その名も「クリストファー」だ! イケてるだろ。
今日もちゃんと鏡の前で身支度するぞ。紳士のたしなみだ。
これがまたオトコらしい真っ黒毛のボクは、生まれて半年たったからもう一人前だ。そろそろ自分のことボクって言うのはやめて、大人猫のように振舞うのが正解だよな。
今まさに練習中だ……吾輩は猫である……いや、やっぱり言いづらいな。ここは普通に、俺、かな。
おぅ、今ガチャリと音を立てドアが開いた。
「クリストファー、おはよう。さぁご飯を食べましょう」
「にゃぁぁぁん!」
ああああセレーネ今日も可愛いニャ~~!
そのザクロみたいなきらきら真っ赤な瞳で見つめられると、ボクもうゾクゾクしてへそ天で降伏するしかないニャ! ああ幸福だにゃん。
キミのマーマレード色のつやつやした髪の毛が、くるくるっとうねっていつもボクを誘うのニャン。その毛でぐるぐる巻きにしてくれにゃん~……はっ! 語尾がニャーになってしまっていた。テンション上がるとこうなってしまう……もう大人なんだから気を付けないとな。
ボクのご主人様、スヴァルド侯爵家の末娘セレーネは三国一の美少女だ。歌もピアノもうまいし、あと、心優しい“聖女”なんだ。世間ではそう呼ばれている。聖女の特別な力で薬を作って、下街のみんなにあげてるんだ。心のきれいなキミがもう世界でいちばん大好きだ!
さて、ご飯を食べたらキミの膝の上でお昼寝さ。キミが優しく撫でてくれるこの瞬間がボクの宝物だにゃん。
「クリストファーがお家にきてから半年が過ぎたわね」
セレーネがボクと過ごした半年メモリアルを思い出してるぅ~~! なんて愛しい時間なんだ。
彼女が生まれたばかりのボクを拾ったのは半年前。
薬の材料を採りに彼女は近くの森に入った。そこで、ある木の幹が光っているのを見つけたという。すぐ木こりに切ってもらったら、小さなボクがみゃぁぁと鳴いていた……それを連れ帰ったと。
……どんなシチュエーションなんだ? いくらなんでも話盛ってるだろ?
でもセレーネの可愛い冗談はなんでも受け入れてやる。だって彼女はボクの未来の奥さんだから!
生まれて一年でいわゆる適齢期だからな。あと半年したらプロポーズするんだ。それまでにオスを磨きに磨いて、セレーネに相応しい夫になるんだ!
「クリストファー、聞いて?」
「にゃんにゃ?」
「私ね、結婚が決まったの……」
「…………にゃ?」
────落雷直撃した。
黒猫だから真っ黒こげになっても、なんら問題ないぜ……。
でもちょっと一匹にしといてくれな……。
ボクは猫だから難しいことは分からないけど……。
スヴァルドの家は由緒正しい侯爵家だけど、一族の者らが政務での失策で責任問題に発展し、分家にわたって貧窮していると、家内の猫たちの噂で知った。
自分の家よりずっと格は落ちるが、商売で派手に当てて成り上がった伯爵家の、若い当主のところにセレーネを嫁がせるっていう、経済的な援助を得るための結婚だって……。
セレーネは貴族の娘なんてそういうものだと、運命を諦めている様子だ。
いいよ、セレーネが受け入れているのなら、ボクはどこまでも付いていく。
いつでもどこでも、ボクはキミの味方だよ────。
しかし、先方の家に入る数日前、事件が起こった。
「きゃぁぁ!!」
────セレーネ! 大丈夫か!!
彼女は製薬途中に劇薬の瓶を落としてしまい、そこから発生した煙に燻られたのだ。
「クリストファー、近付かないで……。私は大丈夫よ、直接かかったわけではないから……」
でも、セレーネ、顔が……。
彼女の顔は効果のきつい薬に当てられ、右目の周囲からこめかみにかけて爛れてしまった。スヴァルド家の者は大騒ぎだ。彼女は数日後、御大尽のヨフス伯爵家に嫁ぐ身なのにと。
「3国向こうにある魔導の国の、高名な魔術士に術で治してもらうよう要請するか」
彼女の父は焦って言う。
「でもあなた、我が家にはその謝礼金がないのよ」
母も憔悴して言う。
「そうだ、金が欲しくてセレーネを嫁がせるというのに、本末転倒だ!」
なんて奴らだ。こんなひどい怪我をした娘を慰める前に、心配するのはそれなのか。
「みゃぁ……」
ボクは、何も言葉を口にせずベッドから外を眺めるセレーネの、手の甲を舐めてみた。
「私の不注意が悪いの。私が悪いのよ……」
セレーネ……。
そこからは分かり切ったことだった。腫れた花嫁の顔を目にした伯爵家当主アーロンは、その場で憚らず激高した。
「こんな醜い女を送りつけてくるなんてふざけてるのか!!」
目の前で威嚇されセレーネはたじろぐ。彼女の胸元に抱かれるボクは、全力でそいつを睨みつけた。
「アーロン様、災難ですわねぇ」
なんでお前は妻との初対面に他の女連れてるんだ!! それ妹とかじゃないだろ!
「しかし、お気に召さなくても耐えなくては。侯爵家の女を娶ることは必要事項だと、お父上から言われているのでしょ」
「こんなの気に入る以前の問題だ。美女と名高い女だと聞いたからこれを選んだんだぞ。まさかこの私を騙そうとは」
「なら下働きでもさせておけばいいのよ。また遊びに来るわ」
連れの女は呆れていってしまった。
男は初対面のセレーネをなおも蔑む。
「没落貴族も虚しいものだな」
ヨフス伯爵家、当主の座に就いたばかりの若き暴君。この家に来てすぐ家猫の噂を聞いたが、どうしようもない放蕩息子のようだ。陰鬱な気性が顔に出ている。
「金目当てで下位貴族にも逆らえないんだもんなぁ」
セレーネの両頬を片手で掴み、卑屈な声で言い放った。
「……私の家はそこまで落ちていません……」
「口答えするな!」
「きゃっ」
うわぁっ!
ボクもその場に落っこちた。それどころじゃない、大丈夫かセレーネ?
「お前なんか抱く気にもならない。その分働けよ」
そいつは言い捨て部屋を出ていった。
後日婚礼の儀でも、誓いのキスが交わされることはなく。
セレーネは心を痛めているのに、ボクの中には、彼女があの男に取り込まれず済んでホッとした自分がいる。
最低だ。きっとセレーネはこの家にいる限り家族ができなくて、それは彼女にとってとても不幸せなことなのに。
それからの彼女は、当主の妻にそぐわない家内の仕事を押し付けられていた。さすがに妻としての部屋は与えられているが、日当たり悪く誰も訪ねてこない。食事もボクとふたりきりで食べるんだ。
ボクは、セレーネとふたりの時間がとっても幸せ。でも彼女は実家でたくさんの兄姉といたように、賑やかな時間も好きなんだ。時々友人が遊びに来たり、薬が必要な人たちと会話を交わしたり、みんなと仲良くしていたいんだ。
ボクは廊下に出て階段を上り、駆け回って壁や天井、周囲を眺めてみた。この豪華でキレイな屋敷はうすら寒い。人もそれを入れる箱も、きれいに飾っている分、タチが悪い。
ここに暮らすようになって半年になる。いっつも奴は、心優しく穏やかな妻の心につけ込んで、何かがうまくいかない、何もかもに満足できない鬱憤をぶつけて解消しようとするんだ。今日だって────。
「お前、先日の晩餐会を仕切ったそうだな」
「えっ? はい……。お義母様が、たまにはそのような仕事をするようにと……」
「お前のような恥ずかしい人間がこの家の者だと知れたら、外聞が悪いだろう!!」
アーロンはテーブルの上の花瓶を振り飛ばしてセレーネを威圧した。
「にゃあああ!」
急に何するんにゃ──!
「何だ、うるさい猫だな。なんで黒猫なんて不吉なもの飼ってるんだ」
「すみません……」
謝るなセレーネ。女・動物って自分より小さい相手にだけデカくなれちゃう典型的な小物だコイツ。
「顔は隠していましたから……あなたの名を汚すことはけして……」
「お前のその卑屈な態度がヨフス家の評を落とすということが分からないのか!!」
はぁあ? 怒鳴って貶して卑屈にさせてその態度を栄養分にしてるド変態がなにをゆう──??
「侯爵家の出でこんな常識も分からないのか? もっと招待客の気持ちを考えろよ。お前がいたら楽しい時間も盛り下がるだろ」
出た非常識な奴の口から「俺の常識」! 飛んで返れ“気持ち考えろ”ブーメラン。
セレーネは奴なんか視界に入れることもなく、ブーメラン避けるポーズのボクを抱き上げ部屋に戻った。
「クリストファー、ずいぶん大きくなったわね。私のところに来たときはこんなに小さかったのに」
ふと気付いたように、セレーネは両手で子猫の小ささ表してつぶやく。
ああ、セレーネ可愛いなぁ……。
キミのうるんだザクロの瞳、食べちゃいたいぐらいキレイだな。でもボク、ザクロは食べられないんだ。猫には食べたら死んじゃう禁断の果実。
どうしてボクは猫なんだろう。
大人になんてなりたくなかった。どうやっても手に入らないものがある、それが分かっただけだった。キミは永遠に手に入らない。それを知ってからひたすら苦しい。
でもたとえ一瞬でも、君の安らぎになりたいから、苦しくてもずっと一緒にいるよ。ボクを撫でてキミが気持ちいいなって思ってくれれば、ボクも心が気持ちいいんだ。
あくる日もアーロンは横に女を連れ、ソファーにふんぞり返ってセレーネに謂れなき文句をぶつけていた。
「お前が盗んだんだろう? 家の金庫にあった金品を」
「金庫とはどちらでしょうか」
「お前の家には十分な施しをしているんだがな」
「もう下がってよろしいでしょうか」
「誰のおかげで食えてると思ってるんだ」
「今朝のお食事もとてもおいしゅうございました。感謝しております」
猫にも分かる会話の成立してなさ!
十分な施しだぁ? ボクは猫ネットワークを駆使してその額を知っている。由緒ある侯爵家の威を借りるには不十分な額だよなぁおい?
「お前はこの家を取り仕切るための女なんだろう? お前の責任で盗品を探し出し金庫に返しておけよ」
「そんな……。努力はしますが、私には見当も……」
そんな無理難題ふっかけて、またできなかったと責め抜くつもりだろ! イジメのリサイクルじゃないか! そういうことだけには頭回るとか、半分にぱっかり割って猫の研究所に献体してえ。
「だいたいお前の日々の働きで、この家の妻の役目を果たしてるとでも思ってるのなら大間違いだぞ」
はぁ!? お前セレーネがこの家のためにどれだけ骨折ってるのか知らにゃいのか!
「お前は鈍くさくて陰気くさいとみんなが言っているんだ」
で、出た──! 言ってる本人の頭の中にしかその「みんな」は存在しないやつ! それで「そっかぁ、みんな言ってるんだ~」なんて誰が真に受けるんだよ。
でもセレーネは真面目で純真だから真に受けてしまうんだ。セレーネそんなの一言も聞く必要ないんだからな! ……はぁ、人間の言葉がしゃべれたらなぁ……。
「以後、言われないように努めます……」
ぼそっと言い捨ててセレーネは部屋を出ていった。さすがに心配だ。あんな悪意をずっと浴びせられているのだから。
「みゃぁ……」
「クリストファー……。ふふ、陰気くさいって言われてしまったわ」
「にゃああにゃあ!」
セレーネの笑顔は明るくて可愛いぞ! どこのどんな娘より可愛い! 世界でいちばんカワイイ!!
「そんなことは別に気にしていないの。でも、まったく関りないものを盗んだなんて言われるのは、心にずとんと伸しかかるわね……」
「にゃぁ……」
気にするな。あんなの負け犬の遠吠えだ。敵いっこない相手に見下げられたくない奴のたわ言だ。家の格がどうとか、セレーネがそんな目で見るわけないのに、自分が他人をそう見てるから自分もそう見られると妄執に駆られている、救いようのない奴なんだよ。
ああもう、どうしてボクは猫なんだろう。
キミはいつもこの肉球きもちいいって喜んでくれる。でもそれだけだ。
ボクの手がもっと大きかったなら。大きな手でキミを包んであげる。猫のボクはキミに抱きしめられて、とってもとっても幸せだけど、それじゃ足りないんだ。ボクも大きな身体で君をまるごと包んであげたいよ。
ボクが人間だったなら、ボクのすべてで君を抱きしめてあげる。どこへ行くにも守ってあげる。どうしてボクは人間じゃないんだろう。どうしてキミの夫はボクじゃないんだろう。
ボクが他の誰よりも、キミを幸せにしたいと願っているのに。
この日は今にも雨が降ってきそうな、憂鬱な空だった。暇を持て余した奴はわざわざこの部屋まで、難癖付けにやってきた。
これが結局、引き金になるとも知らずに。
アーロンは髪をとかすセレーネから手鏡を取り上げた。
「返してください!」
「この地方では採れない石がはめ込まれているではないか。お前が持っていても持ち腐れだ。誰かにやろう」
「それはここに来る前に友人が、餞別として贈ってくれた、大事なものなのです!」
「にゃあああ!! ……にゃぶっ」
ボクは取り返そうと跳びかかった。が、あっさり振り払われてしまう……。
「大丈夫? クリストファー……」
「にゃぁん……」
アーロンはまさしく山賊のように宝を奪って去っていった。
さすがにあったまきたわ……必ず取り戻してやるにゃ!!
「さぁみんな! 思う存分ここでお宝を入手してくれニャ!」
「「「ミャァァァ!!」」」
ボクはこの半年間、猫フットワークを最大限軽くして屋敷の内外で仲間を募っていった。この屋敷の暴君とそれに従属する人間らには、猫ですら辟易してるヤツラが多くいたのだ。
秘密の抜け穴を作り、アーロンの部屋にこいつら数十匹集結させた現在。
「キャベツ色の石がはめ込まれた手鏡を見つけた者が優勝ニャ!」
「「「「ニャァァァ!」」」」
「みんなで捕らえたウサギ一匹はその者が総取りニャ!」
「「「「ニャアアア!!」」」」
イイ感じに燃えている。ゲームは楽しくなくちゃな。奴はいつ帰ってくるか分からない。急がなくては。ボクはこの机の中を探すか。
「ミャァァン!」
バターン!!? ああ、なんかいろいろ倒れてるな。さすがお貴族様の部屋、キラキラしたものがいっぱいあってみんな喜んでいる。
「にゃにゃにゃーん!」
ビリビリビリ!?? うわぁ天蓋ベッドのカーテンが破れまくっている……確かにそれでターザンするの楽しいよな。
「ニャっ!」
「見つかったか!?」
そうだ、それだ!
「よし、アンソニーお前が優勝だ! さぁみんな、抜け穴から凱旋だ! 各々戦利品は持ったな!?」
「「「にゃぁぁぁ!!」」」
このように意気揚々と帰ろうとした時だった。扉が開き────。
「なんてことだ! 私の部屋が! 全部捕まえて蒸し焼きにしろ!」
暴君のご帰還だ。付きの者たちがこの部屋の惨状に白目をむいている。
「みんな、ボクが盾になる! 全員抜け穴から逃げろ! アンソニー、あとは頼む。それを必ずセレーネに渡してくれ!」
アンソニーは真剣な瞳でうなずいた。さすがボクと同じ黒猫、同志だ。
「おい黒猫……鬱陶しいにも程がある。山奥の谷底に投げ捨ててやろうと前から思ってたんだよ」
ふんっ。来いよ、一対一の勝負だ。ボクのセレーネずっと傷付けてきた報いを受けろ!! その無駄に増長した鼻っ柱へし折ってやる!!
「ニャァァァ!!!」
ボクの全身全霊を懸けて、貴様を葬ってやらァァ────。
「にゃっ……!」
ボクは気付いたら狭い鉄ゲージに閉じ込められていた。ここはどこだろう? 馬のにおいがする、馬舎か?
きっと家来に捨ててくるよう命じたんだろうな。
なんでボクは猫なんだ……。
手鏡はちゃんとセレーネの元に返されたかな。彼女の役に立って死ねるなら、オス冥利に尽きるよな……。
でも、死ぬのはセレーネの腕の中がいい。やっぱりセレーネに撫でられながら逝きたい……。
「クリストファー!」
「!?」
セレーネ! どうしてここが!?
「よかった、間に合って……」
セレーネが……助けに来てくれた……。
「今すぐ出してあげるから! そしてここから逃げましょう」
何を言って……。
「ここにいる限り、あなたは捨てられてしまう。あの男の顔にあんな大きな引っかき傷をつけたなんて。もしかしたらここで殺されてしまうかも」
彼女の手でゲージが開けられた。
「にゃぁ……」
キミは今、逃げようと言った? 「逃げなさい」でも「逃がしてあげる」でもなく、まさか「一緒に逃げよう」って……?
ふたりで逃げて逃げて、森の中に入った。ここを抜けたら民家があるだろうか。
生い茂る木々の隙間から木漏れ日が差し込み、何かに「こっちへ来い」と誘われているようだ。あたたかくて明るくて、まるでセレーネと出会った、あの日の森みたい……。
「あっ……」
木の根に引っかかり彼女が転んでしまった。ごめんセレーネ、もうちょっと落ち着いて行こう。
しかし彼女は立ち上がらなかった。怪我したのか? 見せてみろ。舐めることしかできないけど……。
ボクが腕に足に頬ずりしても、腰を落としたまま無言で項垂れている。
疲れた? 休憩しようか。心配するな、必ずボクがキミを守るから。どこへ行ったって、きっとふたりで生きていける。
ん? ……ぽた?
ボクは見上げた。彼女の赤い、ザクロの瞳から大粒の涙が……。
「にゃぁにゃぁ?」
どうしたんだ? 怪我したとこ痛むのか。不安なのか? 大丈夫だよ。一緒だから……。
「ごめんね、違うの。この涙はね、幸せだから泣けてくるのよ」
「にゃ?」
幸せ? ああもう、彼女の涙はどんどん溢れ、ボクのからだに降り注ぐ。
「幸せがあふれて止まらないの。あなたとふたりで生きていくのだもの! もっと早くこうしていれば良かったわね……!」
「…………?」
雨のように降ってくる彼女の涙を下から見上げ、ボクは「ああ、きれいだな……」って見惚れていた。
屋敷で見たどんな宝石よりきらめいて、またたく雫がボクの心にほろほろ落ちる。この雨がやんだらきっとなな色の虹がかかる。それをくぐったら、ボクは生まれかわれる予感がした。
「クリストファー……?」
ふと閉じた目を開けると、いつも見上げているセレーネの顔が、少し見下げた位置にある。
「…………あ?」
なんだか多大な違和感だ。今見える景色は数秒前と同じなのに、どうも違う。
そこで自分の身体に異変があったことに気付いた私は、まず自分の手を持ち上げて目に入れた。
「大きな手……」
それは褐色の肌の、人の手だった。
「クリストファー……あなた、真実は人だったの?」
「!」
自分の身体をよく見てみた。腕が長く肩幅も広い。褐色の、人間の男の肉体だ。肩にかかる部分的に長い髪は漆黒で……。
「ああっ! ……思い出した」
「クリストファー……」
突然大きな声を出した私に、驚きもせずセレーネは、その白く可愛らしい手で私の頬に触れ、うるんだ瞳でじっと目を見つめてきた。
「なんて美しいの。このアレキサンドライトの瞳に浮かぶキャッツアイが、少しだけ開いた扉から漏れる一筋の光のよう……まるでこちらへおいでと、わたしたちの行く末を照らす光……」
「ああ、セレーネ。私が連れて行ってあげる。君を私の国へ……」
そう私が彼女をこの手で抱きしめようとしたその時。
「!」
二筋の光が私たちのいるその場の横に差し込んだ。そして瞬時に現れたのは、頭にターバンを巻いた褐色肌の若い男ふたりだった。
「ファルーク殿下、覚醒されたのですね」
「仕置きはこれで終わりだと王が仰せです。お迎えに上がりました」
「……誰だっけ?」
「お戯れを」
「覚えているさ。ゼオルとリオル。私の側近だ」
転移魔法で国からやってきたのだろう。まったく仕事が早い。
「まことにお久しぶりです殿下。私どもの時間では1年ですが、殿下には体感18年もの歳月であった。長い時であったことでしょう。ところで、そちらのお方は?」
「私の妻だ」
「クリストファー……?」
セレーネが豆鉄砲を食らった鳩のような顔をしている。これもめちゃくちゃ可愛いが、ささっと説明しなくては。
「セレーネ、私は今すぐ国に帰らねばならない。共に来てくれるね?」
「殿下……処罰の期間に伴侶を得ていたと?」
「獄中結婚、みたいなやつだよ」
「……私があなたの妻に?」
「君を生涯幸せにするから、私のために今持つすべてを捨ててくれ。君の身一つで、私の国に来て欲しい」
強気を装って言ってみたけれど、緊張するな。君の家族を、君のこの地での重責を、すべて捨てて我が国に来てくれる?
私は一瞬、目を伏せた。そしてもう一度、彼女の小さな顔を見つめると、そこに浮かぶのはふわりとした微笑みだった。
「連れていって。あなたとなら、地の果ての暮らしでも構わない」
……ああ、幸せだなぁ。
「ははっ、そんな遠くではないよ。3つ向こうの国だ」
「殿下、いいかげん服を着てください」
「えっ? あ、そういえば!」
全裸でプロポーズしてた……。
「殿下、どうぞ」
魔法で服も転移してきた。
こうしたわけで転移魔法で祖国へ、我が妻を連れ帰ったのだった。ここになら、彼女の顔の状態を戻す魔術師などいくらでもいる。私の魔力でも舐めたら治せそうだが、まぁそういうことは追い追い、ということで。
セレーネの母国より東南に位置する我がオステレアン王国は、世に聞こえた魔術師の多くいる魔法大国だ。地下資源が豊富で経済的によく潤った先進国家でもある。蒸した地域だが、王宮の中は術師らが流水の循環を支えているので快適だ。
私はここの第一王子、ファルーク・エステレン。今やっとすべてを思い出したところなのだが。
「父王にイタズラをして罰として他国に流されたことは思い出したが、いったい何をしたんだっけな?」
「寝ている王の額に“肉”という文字を書かれたのですよ。王は気付かずそのまま議会に出てしまわれて。本当に覚えがないのですか?」
「いやゼオル、それは違う。殿下が書かれた文字は“魚”であった。だから猫にされてしまったのだ」
「つまり“肉”だったら犬にされていたのだな?」
犬であったとしてもセレーネは大事に撫でてくれただろう。
「ハリネズミにされていたのではないでしょうか」
「ああ、王はハリネズミがお気に入りでいらっしゃるからな」
ハリネズミであったとしても……いや、猫で良かった。ハリネズミじゃそれを求めるのは酷すぎる。
「ところで、ゼオルリオル」
「「はい」」
「彼の国で行われている商業取引、小さなものまですべて洗い、ヨフス家と繋がっているものはひとつ残らず差し止めろ」
「は、すべてでございますか?」
「ヨフスと関わる先方には救済措置を取る。この国の大手商会と結び付ければ文句はないだろう。ヨフスの周囲をすべて乗っ取り、アーロンを孤立無援にするんだ。分かったな」
「御意」
すぐにもジ・エンドだ。生きてもいけまい。
人はひとりでは生きられない。最後に残る命綱は「人の温情」のみ、だが、それも得られる人間とそうでない人間がいるのだ。
そこでメイドがこの国の衣装に着替えたセレーネを連れてきた。
「ああ、なんて美しいんだ。すごく似合っている」
「とても素敵なドレスで嬉しいわ。けれど、肩があらわになっていて少し恥ずかしいの……」
可愛い~~!!
「この国は暑いからな。慣れてくれ」
でもセレーネの素肌は他の者に見せたくないジレンマ~~!
「今はみなさんでどういうお話を?」
「殿下のいい年して恥ずかしいイタズラの話ですよ」
話すな~~!
「殿下は罰として、他国の地で王子という肩書なしに生きる苦しみを味わう、そんな試練を余儀なくされたのです」
「まぁ……」
「しかし、殿下は刑期を全うされた。人としてひとまわりもふたまわりも成長され帰ってこられた。王もお喜びになることでしょう」
「どういった苦難が殿下を大人にしたのか、我々には想像もできませんが……」
「苦しんだ! ものっすごく苦しかった!」
愛する人に思いを届けられない苦しみ。撫でられるだけで撫でてあげられない苦しみ。愛する人を救えない苦しみ。自国で日常を漫然と過ごしていた私はその苦しみを知ることもなく、それはそれで幸福であったのだろう。
「しかし、君と出会えた幸せの中で抱きしめていた苦しみは、私が大人になるために必要なものだった。これを知る前にはもう戻れない」
私は自身の大きな手で彼女を抱き寄せた。
こうして君が私の腕の中にいるなんて夢みたいだ。この幸せを知る以前、自分がどう生きていたかなんて思い出せないほどに、君を愛しているよセレーネ。……なんてまださすがに口にできない恥ずかしい!
「ファルーク様。私ももうあなたなしでは生きられない。これからもずっと、あなたのために生きていく」
セレーネ、もう可愛すぎる!!
「……だからまた自分のことボクって言って」
「ん? 今、何か言ったかい?」
「いいえ、何でもないの。ねぇ、あの、ちょっと恥ずかしいわ」
彼女がそこで、じろじろ我らを眺める従者ふたりを流し目で見た。
「……お前たちあっち行け!」
「「御意」」
** side:セレーネ
「まさかあなたが魔導の国の王子であったなんて……」
さすがにそのようなこと、私もあずかり知らぬことであった。
でもねクリストファー、私はあなたの心をずっと知っていたの。
本当は、あなたに恋心を盗まれて、ただあなただけの私であることを誓った女なの。
始めはたまたま拾った飼い主と拾われた猫だったかもしれない。でもすぐに幼いあなたの声が聴こえてきた。私を大好きでどうしようもなくて、起きている間じゅう、私のことを考えていて、私のすべてを褒めていて。ただ私がそこにいるだけで、こんなにも幸せになってくれる。
あなたはみなが言うように、私を聖女だと思っているのだろうけど、違うの。私、本当は魔女なのよ。魔女が黒猫の声を聴けないわけがない。
大人になったら求婚してくれると言ったから、私もすっかりその気になって……。
でも私は侯爵家の娘。政略の道具に使われることは分かっていた。運命からは逃げられない。
だからわざと劇薬を落として顔を燻った。愛しい人の他に身を捧げるなんて、耐えられなくて。こうすれば私は嫁ぎ先で妻とは扱われないだろう。現に私の策は功を奏した。体面上の夫にどれほど虐げられようとも、これっぽっちの苦難でもないわ。愛しい人に庇われているのだもの。
小さなナイトに守られて慰められて、いつも愛を感じられた。これは狂気? そうね、恋は狂気なの。
このままあなたとふたりきりの、家族でいようと思っていた。もちろん心苦しかった。私を抱きしめられない苦しみにあなたが苛まれるのを、ただ知らないふりしてるだけ……。
言ってあげれば良かった? 「私はあなたを愛してる。たとえ猫であろうとも……」って? そうしたらきっとあなたは更に苦しむわ。私を人の男性と同じように愛することができない運命を恨むことでしょう。
だから苦しみも共に抱いて、ふたりで明日を生きていこうと。せめてこの愛が少しでも伝わるように、私は優しく優しくあなたを撫でていた。
そして今、あなたに優しく優しく撫でられて、私は生まれてきた意味を知る。
今まで自分がどう生きていたかなんて思い出せないほどに、私は今、生きている。
~FIN~
お読みくださりありがとうございました。
よろしければブクマ、評価、感想など頂けましたら嬉しいです。
下記の連載中作品もちらりとのぞいていただければ幸いです。
『おひとりさまの準備してます! ……見合いですか?まぁ一度だけなら……』
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