プロローグ
「とおこちゃん…?」
暫く聞くことがなかった名前を呼ばれる。
その名前で呼ばれるのは実に十数年ぶりだ。そもそも、昔の記憶で言う洋風の名前が一般的なこの国の中で、ごく日本的なその名自体、聞くことがなかった。
だが、記憶というものは恐ろしい。何せ、「透子」として生きていた時間の方が今よりも長いのだ。思わず、声の方向を振り返ってしまう。
そこにいたのは金色にところどころ淡い茶の模様の入った、恐ろしいほどの美形だった。ぬけるように白い肌に金色の目が映えている。体躯はしっかりとしているものの、まだ完成しきらない危うさ、というか色気がある。きらきらとした輝きが瞳に散っている。
斑紋を思わせる独特の髪の色合いからして、十中八九彼は獣人だ。制服以外に身に着けているものから、高位貴族だとわかる。制服こそ共通だが、そこにつく装飾品は自由なので、意外に外見でわかるものだ。
名前を呼ばれた衝撃で思わず観察してしまったが、礼儀に反することだとはっと我に返り、一礼をする。そのまま去ろうとしたが、気配がそれを許さない。だが、そもそもここは学校の廊下なので、立ち止まっては迷惑になる。
気配を感じつつもじりじりと後ずさり、本来の目的だった図書館へと行こうとすると、その途端、後ろからがばっと抱きつかれた。
「とーこちゃぁんっ!!」
美形にあるまじき情けない声で男は抱きついてくる。この体は同年代に比べてかなり小柄なので、抱き着かれればひとたまりもない。地面にキスをするかと思ったが、それに反して地面から足が浮いた。
(ヤバイ、こいつ!なんてがっかりなイケメンなんだ!いや、それより私の貞操のほうが危ういのか?!)
イケメンなら許されるという言葉があるが、そんなわけはない。やっていることは変態である。なので、何とか自由になる足で無茶苦茶に蹴りつけながら、大声を出す。当たった手ごたえ…いや、足ごたえはあったけれど、堪えた様子は一切ない。
しかし、攻撃魔法は授業以外では使用禁止。本当の本当に最終手段だ。そもそも、魔法回路を構築するとか、植物の改良とかが専門なので、あんまり得意じゃない。
「な、なんなんですか、あなた! 離してくださいっ。誰かーーーっ」
しょうがないので叫ぶことにする。誰か気づいてきてくれれば御の字だ。幸い、肺活量には自信がある。その間も一所懸命にもがくが、その手は揺るがない。
「と、とーこちゃん、ひどいよ!僕だよぉ、ずっと探してたのに…。15年かかったのにッ」
あまりにも情けない声に、もがくのをやめ、自分を持ち上げている彼を見下ろすと口元に小さなほくろがあるのが見える。思わず既視感を覚え、まじまじと見つめる。
通った鼻筋にくっきりと張った金色の瞳。ちょっと情けなさげな表情。美形なのに、ちょっと残念なこの雰囲気。非常に既視感がある。
「……ルー?」
「とぉこちゃぁーーーーーんっっ」
金髪のイケメンは人目をはばからずに、抱き上げた私の腹に顔をうずめて大声で泣きじゃくる。じんわりと湿って鬱陶しいことこの上ない。
ついでに言えば、で私は騒ぎを聞きつけてやってきた教師と生徒のさらし者になっていた。