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業と日常 二(完)

作者: セイ

   三



 ハルは黙って瀬崎の説明を聞いていた。そして時間も忘れるほど、二人で討論し続けた。どちらかが納得するまで。

 二時間ほどたったころ、ようやく、いつものようにハルが折れた。二人とも疲労しきっていたが、そこには妙な満足感があった。この空気に便乗して、ハルはいつも聞けない事を一つ、瀬崎に聞くことにした。

「瀬崎、お前の話にはいつも欠点が無い。いや、そう聞こえる。それは、俺が感情的な話をするのに対して、お前は論理的に話を組み立てるからだ。確かに間違った事は言っていない。だが、何か違う。……お前、ちゃんと自分の言葉で話しているか?」

 この時、瀬崎の目がピクリと動いた。ハルは、瀬崎には心当たりがあると確信した。

「……君に、前回「感情」についてどう思うか聞いたよね。色々話し合った今では、君はどう思う?」

「俺は、今までの瀬崎の考え方とは少し違う。俺はもっと単純だ。いや、そこまで難しく考えられないだけなのかもしれない。何故お前はそんなに難しく考える? 好きだと思ったから好き、嫌いだと思ったから嫌い、それでは駄目なのか? 確かに感情の仕組みはあるだろうよ。だが、それを知ってどうする? 何かを感じる度に「今こう感じるということは、脳ではこんなことが起こっている」とか考えるのか? それ、疲れないか? 前回お前は、俺に過去の話をさせるために「感情は、人間にとってはただの負担である」というようなことを話していたな。それは、本当に俺に向けて話したのか?」

「……どういうことだい?」

「だから、お前自身も分かっていないんじゃないのか? 俺は別に知らなくたっていい。でもお前は、何かを必死に知りたがっているように見える。その「何か」を知るために、俺に過去の事まで話させていたんじゃないのか? まあ、答えになるようなものは無かったと思うが」

 瀬崎は少し無理したような笑顔を見せた。ハルをまっすぐ見つめて答える。

「ああ、その通りだよ。私は幼少の頃からその答えを求めている」

「幼少の頃?」

 瀬崎は一瞬遠くを見つめていた。虚空というより、幼少の頃の記憶を探っているようだった。

「私には親がいない。もちろん生んだのは親なのだけれど、物心つく前に孤児院に入れられてね、親の記憶はもちろん無い。……いや、不幸自慢をするつもりはないよ。この話はここまでだ。とにかく、私は知りたいのだよ。一生を懸けてでも、答えを探し出すつもりだ」

 ハルは、瀬崎の事が以前よりなんとなくわかった気がした。他人の心に無理に入り込む趣味は無いが、ハルは瀬崎のこの極端な考え方の裏側に、少し興味がわいた。

「いつか、瀬崎の都合がつく時でいいから、俺に話してくれよ。なに、暇つぶしにするだけさ。ただ、その時には、お前の言葉で、お前の出した答えを話してくれよ」

 瀬崎は目を丸くしていた。ハルは自分で思い返しても、何故こんなことを言ったのか分からなかった。だが瀬崎は、いつものような仮面の笑顔でなく、自然な笑顔で笑っていた。ハルはなんだかこそばゆい気持ちになり、結局ハルまで笑みをこぼした。

 互いの過去も、苦労も、心も知らない二人だが、こんな風に二人で笑うことはできるのだとハルは知った。


     *


 マコトは一瞬硬直した。手本のような笑顔を張り付けて答える。

「何故そう思うんだい? 僕は先生に感謝しかしていないよ。もし先生が今もどこかで生きているのなら、すぐにでも駆け付けて会いたいと思っている」

「じゃあ、何故嘘をつくの? そのケースの中、研究資料では無いですよね。一体何を隠しているのですか?」

 海風が二人に強く当たる。マコトはそれでも笑顔を張り付けている。

「たとえこれが研究資料では無いとしても、先生の失踪と何の関係があるんだい?」

「父がまめにメモを取るというのは知っていますよね。あなたが手帳を預かったのは、失踪より少し前のことです。失踪後は、誰も父の書斎がある平屋に入った形跡がありませんでした。つまり、あなたは手帳の最後のページは見ていないということです」

「最後のページに何か書いていたのかい? 確かにそれを僕は知らない。だが何を書いていても、僕が疑われるなんてこと、起こるはずない」

 マコトの笑顔が引きつり始めたのを、ナツは見逃さなかった。既に太陽は地平線の下へ帰ってしまった。風が冷たくなってきた。

「では、この名前も知りませんね。ここには、「作野吉彰」という名が記されてあります」

 マコトの目がピクリと動いた、黒だ。正直、白か黒か、どちらが出るかは博打だった。だが怪しい青年という表現は、間違いではないらしい。

「私は別に、今更何を知ったところで、公にするつもりはありません。母にだって言うつもりはありません。私の自己満足です。どうしても真実が知りたいのです。私の目的に協力してくれませんか?」

「君の目的とは?」

 ナツは今までの家庭環境、自らの犯した罪など、全てをマコトに話した。最初は警戒していたマコトだったが、悪事まで赤裸々に話すナツを見て、恐怖心か安心か、ナツにある昔話を始めた。


     *


 暗い部屋の窓が次々と開けられていく。

「おい、一体いつまで引きこもっているつもりだ? いつまでもそうしている訳にはいかないだろう。ほら、行くぞ」

 そう言って部屋に入ってきたのは、赤みがかった茶髪と、透きとおるような薄茶色の目を持つ青年である。丁度マコトと同じ、十二歳だ。部屋と言っても、町はずれの廃墟を掃除し、勝手に住み着いているだけのものである。

 マコトは数日ろくに食事をしていない。疲労の所為でもあるが、一番は精神的につらいことが続いていたからだ。食事が喉を通らない。その数日のうちでマコトはこの青年、作野吉彰と出会った。吉彰は、反社会組織の頭領の息子だった。そして、その活動を陰ながらいつも手伝っている。その活動を手伝えば報酬が貰えると知ったマコトは、吉彰に近づいて組織に入れてもらい、吉彰と共に任務を遂行するようになっていった。マコトは、任務と言っても、子供にそこまで重要な仕事はやらせないと思っていた。しかし、予想に反して、最初の任務から人のやることとは思えないものであった。

 仕事当日は、現場に直接向かうよう指示された。少し嫌な予感はしていた。マコトがそこへ向かうと、既に吉彰は来ていた。マコトは吉彰から、この時初めて仕事内容を聞いた。そして、こんな組織と関わった事を後悔した。

「まずはこの男だ。あの部屋が見えるだろう? 今からあの部屋を銃撃する。あの男は政府の犬で、父の敵だ。消さなければならない」

 二人は齢こそ同じだが、考え方は百八十度違う。マコトは、人が死ぬのを何とも思わない吉彰を嫌い、同時に興味を抱いた。一方吉彰は、案外面倒見が良く、勝手が分からないマコトに色々教え、身の回りの世話まで焼くようになった。今まで学校から帰ってすぐ仕事の手伝いだったから、齢の同じ友人ができて喜んでいるのだとマコトは思っていた。

 人当たりの良い性格とは裏腹に、吉彰は任務を綺麗に遂行していった。世間一般的には残酷なことだが、吉彰にとっては、それは日常の一部に過ぎない。

 大体は遠方からターゲットを狙う。対峙してしまっては、子供に勝ち目は無いからだ。父が海外市場と繋がっているため、武器には銃や爆発物を用いることが多い。特に小型拳銃は、必要な力が少なく、飛距離が長いから仕事に最適だということだ。

「風の向きや強さも考えなければいけない。狙いが外れてしまっては、一発で仕留めるのが困難となるからな。いいか、心臓ではなく、頭を狙うんだぞ。慣れてくると、脳天もいいが、首の根辺りはより致死率が高い」

 吉彰はマコトに丁寧に手順を説明しながら任務を進める。そして、見事一発でターゲットは息絶えた。

 数日のうちに、もう三人も手にかけてしまった。一回目は吐くくらいの不快感を覚え、立ち直れないと思ったマコトだったが、二回目、三回目と続くうちに、こんな非道に慣れてきている自分に気づいた。マコトは自分が恐ろしくなり、何も手につかなくなってしまった。

 引き返す事はできないと知っていた。だから、このまま人を殺め続けるくらいなら、自分一人の人生を犠牲にしてでもこの道から逃れるしかないと考えた。

「『先生、僕は先生に拾ってもらえて幸せでした。もっと色々な話がしたかったけど、どうやら叶わないそうです。全ては僕が招いた事態です。僕は先生の助けになりたくて……こんなこと駄目だとは分かっていましたが、いつのまにか、抜け出せないくらい、深く暗いところに迷い込んでいました。そこから抜け出すには、僕がこうするしか解決策はありません。どうか、お許しください』……よし、準備完了だ。これを書斎のテーブルに置いておけば、近いうちに僕の遺体は先生に発見されるだろう。短い間だったが、楽しかったよ。さようなら、先生」

 そう言ってマコトは、書斎の鍵を外から合鍵で閉めた。先生は出張中で、マコトは先生の家の戸締りを頼まれていた。玄関もしっかり閉めている。

「やれやれ、お前は本当に弱いな」

 突然背後から声が聞こえてきた。振り返ると、そこに立っていたのは作野吉彰。

「この家、侵入しやすいな。もっと対策した方が良い。例えば、腕の良いボディーガードを雇うとか。まあそんなものがあっても、侵入が容易いことに変わりは無い。赤子の手を捻るようなものだからな」

 勝手に廃墟に入り込むのは想像の範囲内だが、まさか先生の家にまで押し掛けるとは思っていなかったマコトは、一瞬背筋が凍り付いた。次のターゲットは自分なのではないかと思ったからだ。

「……マコト、誤解しないでくれよ。俺は別に、あいつの命令でここに来た訳じゃあ無い。俺が来たかったから来ただけだ。何やらお前が、文字通り命を懸けた見世物をやるらしいと聞いて、いてもたってもいられず来てしまった。俺にも見せてくれよ、その見世物」

「すみませんが客を招いた覚えはございません。お帰り願えますか。……で、本当は何の用で来た? 俺は忙しい。仕事じゃないなら帰れ」

 今までへらへらしていた吉彰の表情が引き締まった。直後、マコトにはどこかから拳が飛んでくる。マコトは背中を打ち、目を丸くしていた。拳が飛んできた事もそうだが、何より吉彰に驚いた。いつも死んだ魚のようだと思っていた吉彰の目から、涙が溢れていたのだ。

「……お前らはいつもそうだ。辛く苦しいことがあれば、自ら命を捨て、責任を取ろうとする。それで一体何が報われるんだよ……死んでしまっても罪は消えないし、責任からも逃れることはできない。正しい責任の取り方は、辛く苦しいこの世を、這いずり回りながら生きることだ。「死」は、ただ自らの罪から、責任から、逃げているだけだ」

 マコトは吉彰の事を、ただ茫然と見つめていた。吉彰の過去は知らない。だが、自分とそう変わらない齢で、ここまでしっかりした考えを持っていることに驚嘆した。

 吉彰は間接的に、マコトのこれからしようとしている事をやめさせようとしていた。マコトはそれが不思議で堪らなかった。吉彰と数日間共に任務をこなしていたが、その目は目の前の命など見てはいないとマコトは思っていた。

「俺は生きなければならない。生きて、奪った分の命の重さを背負ってなければならない。だが、生きる限り父の命令には逆らえない。任務の時は、自分の心を殺してでも、成功させる。その度に罪は重なる。何度楽になってしまおうかと考えたか知れない。生きて償わなければいけない罪と、生きれば生きる程に重なる罪。この矛盾はどうやったら消えるんだろうな? ……それでも俺は生きる。この世に、俺というこの意識を持って生まれた限り、無駄にするつもりは無い。いつか父のもとを離れ、人の為に生きる、これが俺の夢だ」

 いや、吉彰と逆に、マコトは目も前の事しか見えていなかったのかもしれない。組織に入れてもらうために、人間の利用価値を、吉彰の利用価値だけを考えて行動していた。吉彰の気持ちなど、毛ほども考えていなかった。勝手な固定概念を作り上げ、見直そうとしたことは無かったのだ。

 マコトは笑った。目に涙をため、それでも声を上げて笑った。吉彰はそんなマコトを見てきょとんとしていた。そして、笑いが伝染したように、次第に吉彰も笑顔になっていった。

 言葉なんてなくとも、互いを理解した。罪の重さは変わらない。互いの目的も変わらない。ただ、依然と一つ変わったことがあるとするならば、それは、自分の事を自分以上に理解し得る人が近くにいると気づいたことだ。もしかすると、こんな関係を世間では「相棒」と呼ぶのかもしれない。


 任務で二人が組むようになって、五年が経った。相変わらず罪は重くなる一方だが、それと引き換えに腕は確かなものになっていった。吉彰は射撃の腕が、マコトは情報収集の腕がプロ並みに良くなっていた。

 そんなある日、作野から新たな任務が舞い込んできた。ターゲットの写真を見た瞬間、マコトはここが夢の中だと思った。実際、そうであったなら、どれほど良かったか。

「君らにはこの男の暗殺を頼みたい。なに、いつもの標的に比べれば簡単なものだ。屈強な男でもなければ、武道の者でもない。ただのしがない研究者だ。だが、彼の研究施設と私の元下僕が密接な繋がりがあることが分かった。最近ここらで私たち本部に対する騒動が起こっている。君らには期待しているよ。まず、この角で家から出るのを待ち伏せるんだ。それから――」

 マコトは説明なんてほとんど聞いていなかった。マコトの本来の目的は、先生の研究の手助けになる事だったというのに、まさか、この手で先生を殺める日が来るなんて、想像もしていなかった。

 マコトは必死に打開策を考えた。しかし、いくら考えても答えなんて出ず、自分の過去を呪うことしかできなかった。今更逃げたところで、裏切り者として殺されるだけだ。何もやる気が起きず、ただ暗い部屋で座っていた。

「おい、今度はいつまで引きこもるつもりだ? ほら、行くぞ」

 見覚えのある光景だった。カーテンを開けながら近寄ってきたその男は、吉彰だ。

「行くってどこへ? 僕らは明日、先生を手にかける。逃げるつもりか?」

 吉彰はいつものように、笑顔で答えた。

「簡単なことだ。俺の親父を殺しちまえばいい」

 マコトは吉彰を見返し、言葉を失った。笑顔の奥に何があるのか、マコトは見抜くことができなかった。それほどに、空虚な笑顔であった。

「こうすることは、俺のいつぞやの目標だったのさ。お前には言っていなかったが。知っての通り、あいつは親父だが、子育てのようなことは今まで一度もしていなかった。戸籍上は親というだけのことさ。俺だって、いつまでもあいつの言いなりになって人を殺め続けるなんて御免だ。これが、俺の答えだ」


 次の日、マコトは先生に事情を話し、二人で逃げていった。しかしその事態は、作野の予想の範囲内だった。既に逃げ道は塞がれていた。逃げ惑ううちに、袋小路へと追い込まれてしまっていた。だが、作野にとって一つ予想外だったことがある。息子の裏切りだ。

「お前、何をしている! こんな事をして許されると思っているのか?」

 袋小路の入り口付近に、吉彰は仁王立ちしていた。

「許されるか、だって? 笑わせるなよ。お前は今までの自分のやってきたこと、許されると思っているのか? お前は俺に跡取りになってもらいたいそうだが、そんなのまっぴら御免だ。今まで俺に、何か親らしい事、一つでもやってきたか? 俺の事なんてただの駒だとしか思っていないだろ。最近の騒動は全て俺の指示だ。お前の組織は、もう終わっているんだよ」

 二人はじっと睨み合っている。辺りの空気が凍るようだった。その隙にマコトと先生は逃げようとした。しかし、そう上手くはいかなかった。流石は頭領、護衛の者は手練ればかりである。先生は頭領の護衛どもに捕らえられた。

「お前たち、これでもまだ私に逆らうつもりか?」

「……俺の目的は変わらない」

 そう言い放つや否や、吉彰は自分の父でも構わず心臓を狙ってまっすぐ発砲する。それと同時に、先生を捕らえている護衛の者にも発砲する。

 父親にはうまく当たったようだ。胸の辺りを抑えてうずくまり、そして倒れてしまった。一方護衛の方は、腕からはおびただしい量の出血が見られたが、致命傷では無かったらしい。他の護衛たちも即座に対応し、吉彰は取り押さえられた。先生は変わらず取り押さえられたまま、さらに銃口を頭に向けられることになってしまっていた。悪化しただけか、とマコトは絶望した。吉彰の父親、組織の頭領は死に、先生と吉彰は捕らえられてしまった。

「私の事が気に入らないのか?」

 口火を切ったのは先生だった。

「そこの子供は、マコトと同じくらいの子か。私はそちらの事情は知らないが、その子はまだ子供だ。先刻そこで寝ている男と揉めていたようだが、親子だったのか? 親を撃つというのは、並大抵の覚悟や原因では無いだろう。その男、お前たちの上司か。もう上司はいなくなったんだ。今やその子を捕らえておく必要は無い。離してやったらどうだ」

「何を言っているんだ。だからこそ、連れ帰って事情を聴く必要がある。こいつは父親の命を奪ったんだぞ? 野放しにしていい訳が無いだろう。お前もこの子も連れ帰る!」

 答えたのは護衛の、先生を捕らえている男だった。マコトは事前に吉彰と打ち合わせをし、吉彰が動けなくなった時の事も考えていた。その時は吉彰を裏切ってでも先生を助ける、ということに決めていた。これには吉彰も同意していた。「己の目的を達成するためには何をすることも厭わないというその姿勢、俺はいいと思うぞ」とのことだった。

 マコトは予定通り、腰の辺りに隠していた銃を握る。その異変を、先生は見逃さなかった。先生は口を「まて」と動かした。マコトはそのサインが何を意味するのか分からなかった。

「君たち、私が何故その男に目を付けられたか知っているか?」

 先生は突然護衛たちに話しかけた。護衛たちは一瞬戸惑った。先生はその一瞬を利用し、懐から折り畳みナイフを取り出す。それで護衛たちの数人に切りかかり、注意を引いた。その隙に吉彰はマコトを連れて逃げ出した。

「何するんだ! あの人数に先生一人で敵う訳が無いだろう。お前、まだ銃弾残っているな。貸せ! 僕だけでも助けに行く!」

 吉彰はマコトの言うことに耳を貸さない。マコトの手を引いて先生から遠ざける。

「……お前に言わなかったことがある。今回この任務が舞い込んできてから、お前には内緒で先生に会っていたんだ。俺だって最初は先生を助けようとして色々提案していた。だがあの人は、俺らのために自分を親父の組織に売ると言い出した。もちろん止めたさ。……だがあの人は、マコト、お前が一番の標的にされていることまで看破していた」

 吉彰が突然意味の分からない話を始めた。

「どういうことだ? 僕が、本物の標的? 初めて聞いたぞ。というか何故僕が狙われないといけないんだよ」

「それは分からない。これにも先生が関わっているのは分かるが……。そして、先生はお前の事を助けようと今回の作戦を立てたんだ」

 吉彰がそう言い終わると、後ろの方おから銃声が止んだ。そして、何かを包む音も聞こえた。この辺りには、標的となった者を捨てる場所があった。マコトは嫌な予感がしていた。何故だか嫌な予感というものは、必ずと言って良いほど現実となってしまうものだ。

 マコトは吉彰を振り切り、無理やり戻ってこっそり様子を見た。先生は、射殺されていた。まさに今、ブルーシートでくるまれようとしている場面だった。マコトは吐き気がし、意識が朦朧としてきた。

 気が付くと、マコトの目の前には何も無かった。空に雲がいくつか浮かんでいるのが見えた。吉彰も、先生も、男たちもいなくなっていた。ただ、夢だったということでも無いらしい。家に戻ると、先生の書斎は荒らされ、書類が散乱していた。その中に、先生が愛用していた手帳も見つけた。最後のページを盗み見ると、⑫M‐K‐7と一ページに大きく書かれていた。

 丁度二年前の十二月、人口衛星の墜落事故があったのをマコトは覚えていた。以前は家族連れで賑わう遊泳地だったが、その近くに人口衛星が墜落したことがきっかけで、有害物質が流れ着くとか、そこで釣れた魚を食べると死ぬとか、様々なデマ情報が流れ、一気にその遊泳地は荒れ地と化してしまった。

 先生はよくそこへ行き、気晴らしをしていた。マコトも連れて行ってもらったことがあったので良く覚えている。そして、先生は事故後も時折訪れていたようだ。マコトはそこに何かあると確信し、本やインターネットで詳しく調べた。どうやら五年周期で、とても大きな干潮が起こるらしい。次の干潮で、マコトは先生がいつも行っていたそこへ行くと決めた。


 それは二年後の、冬至の日に起こった。冷たい風が吹き付け、辺りに人の姿は見えなかった。先生は遊泳地から少し離れたさら地から地平線を眺めることが多かった。この日、マコトもその場所へ足を運んだ。空は雨雲に覆われていた。

「……何故お前がここにいる?」

 そこには、吉彰の姿があった。

 マコトはこの二年、吉彰と一度も会うことは無かった。吉彰は父親を射殺し、組織の約七割の、その父親を支持していた人間から追われる身となった。マコトは吉彰に聞きたいことがたくさんあったが、お互い堂々と表を歩ける状態では無かったのだ。

 その吉彰が、一人で地面を掘っていた。そして出てきたのは、大きめのアタッシュケースだ。吉彰はその中をじっと見た後、そっと中に封筒を入れて去っていった。マコトは、吉彰を追うべきか、ケースを確認するべきか迷い、結局前者を選んだ。なんとなく、吉彰と話すのには今しかないと思ったのだ。

「おい、吉彰!」

 雨が激しく降り始めた。マコトは駆け寄って名を呼ぶ。気づいた吉彰は振り返るが、マコトの方へ来ることは無かった。その目には光が無く、ただ空虚のみが奥底まで広がっていた。

 マコトがその目に映ることは無かった。茂みから数人のスーツ姿の男が出て来て、マコトを囲んだのだ。マコトはもう一度吉彰の名を叫ぶが、雷によって声はかき消されてしまった。吉彰は一人の男に指示を出し、その男が呆然と立ち尽くすマコトの口をハンカチで抑えた。そこからマコトの記憶は無い。

 気が付くとマコトは、あの日のように、誰もいない中一人で空に向いて寝ていた。しかし、その視界はだんだんとぼやけてきた。雨は既にあがっているのに。


     *


 ナツはマコトの話を黙って聞いていた。マコトはナツに、作野吉彰という男が今裏社会で勢力を拡大していること、ナツの父は吉彰の父に殺害されたことなどを話した。

「このケースは、まだ僕も中身を知らない。あの時吉彰が入れたものが何だったのか、そして、先生はこれに何を託したのか、僕はそれが知りたいんだ」

 ナツは、父がもうこの世にいないことにはそう驚かなかった。しかし、研究の話といい反社会勢力の話といい、謎は深まるばかりだった。

「とりあえず今日はもう遅い、帰りたまえ。話し相手になってくれてありがとう」

 そう言ってマコトは席を立つ。既に七時を回っており、冬の北風が容赦なく二人の間を吹き抜ける。

「まだ私の目的は達成されていません。その話どおり、父が本当に殺害されたなら、私はその本当の原因を突き止めるまで諦めるつもりはありません。後日、また会いましょう」

 そういって二人は連絡先を交換した。帰りの新幹線は、行きの時とは違った高揚感に包まれていた。


 数日後、ナツはマコトと会い、ケースの中身を教えてもらった。

「ケースの中からは、色々出てきたよ。作野の事はとりあえず後だね。君のお父さんなのだけれど、実は依頼があったらしい。依頼は入っていたが、組織の頭領が直々に暗殺令を出したから、その依頼は取り扱われることは無かった。君、お父さんがどんな人だったか覚えているかい? 例えば、何か人から恨まれるようなことをやっていたとか」

「知らない。私が物心つく前に、姿を消したから。お母さんに聞いても、あまり教えてくれない」

 マコトはある写真を取り出した。

「そうか……。この写真は、依頼人の写真だ。吉彰が後から入れた封筒の中に入っていた。恐らく吉彰は依頼の存在を知っていて、独自で調べていたのだろう。経緯は分からないが。それなら君、この写真の女性にも心当たりは無いよね」

 ナツはその写真を見た途端、心臓が止まった。

「これは、一体なんの冗談ですか?」

 その写真に写っていた女性は、ナツの生みの親であり、ナツが世界で最も信頼を置く人物、ナツの母親であった。

「やれやれ、予想はしていたが、よもやここまで複雑な事情があったとはね。君、これでもまだ真実を追求するつもりかい? 最悪、今の家族を失うかもしれないよ」

 ナツは写真を見ながら、今までの母の言動を振り返っていた。言われてみると、納得のいくところが多々あった。父との思い出を聞いてもはぐらかされたり、父は行方不明だっただけなのに一度も捜索に協力しなかったり。寧ろ今まで疑わなかった方が不自然だったのだろう。それはナツが、固定された母への信頼を壊したくなかったからだ。事実、写真を見せられた今も、ナツは母への信頼と愛情を壊そうなんて考えてすら無い。

 それでなくとも、今更引き返すなんてこと、恰好悪すぎてできるはずが無かった。そして、ここまで首を突っ込んでおいてマコトを一人にすることもまた、できなかった。

「ここで引いたら、中途半端に母を疑うことしかできなくなる。どのみち私の家庭は崩壊しています。それなら、最後まで知ってから自分で判断したいです。また、今の父、竜彦もこの事件に何らかの形で関わっているのではないかと思います。竜彦から母を救うためにも、ここは引けません」

「母を救う、か……」

 マコトは何やら思案していたが、結局ナツの決心に折れた。

「世の中には知らない方が良いこともある。その上で君は、この真実を知りたいと思うのかい? 

止めはしないが、おすすめはしないよ」

「あなたも、それを承知の上で真実を探しているのでしょう? 私なら本当に大丈夫です。あなたにも協力するから、その代わり私にも協力してくれますか?」

 二人は似ているようで少し違った。最終的な目的の違いだ。マコトは先生の死の真実と吉彰の秘密を知り、吉彰を止めるため。一方ナツは、父の死の真実とそれに関する母の秘密を知り、家庭を崩壊させるため。マコトはナツのこの目的に賛同できなかった。本人は謎の正義感で行動しているが、全てが終わった後に残るのは、憎しみや嫌悪といった負の感情だけだからだ。

 しかし、ナツのしようとしていることを否定することもできなかった。マコトがそんなことをする義理は無いというのもそうだが、ナツを五年前までの自分と重ねていたからだ。最初に干潮の海を訪れたときは、吉彰のことなど頭に無かった。あるのは事実を追求するという信念のみ。これはナツの今の状態と酷似していた。マコトは五年前までの自分を見ているようで、ナツを否定することはできなかった。

「…………分かった、協力しよう。ただし条件がある。君には僕の仕事を手伝ってもらう。肉体労働では無いが、精神的に弱い人には向かないものだ。ずばり復讐屋だ。命を奪うってだけではなく、ネットを使ったり、アナログな方法を使ったり、様々な方法で依頼人の満足する復讐を行う。これをやっている限り、裏社会の情報が絶えず入ってくるのだよ。吉彰の動向も探りやすいってことだね。どうだい? これに協力してくれるなら、僕も君に協力しよう」

 ナツの答えは最初から決まっていた。

「もちろん。これからよろしく」

 そう言ったナツの目には、光が無かった。マコトはこの見覚えのある目を、どうしようもなく見ていることしかできなかった。


     *


 ハルは毎日のように瀬崎の家を訪れた。瀬崎は本を読み、ハルは依頼人の情報の確認や、依頼内容の見直しをしていた。二人のすることは別々でも、近くに互いがいると落ち着くことができた。

 しかし近頃、ハルは瀬崎の外出が多くなったのを気にしていた。それも、ハルが場所を聞いても教えないのだ。

「今日はどこに行くんだ?」

「……いつものところさ」

 毎回こんな感じで、ハルは探求心が爆発した。この日は、いつものように、気にも留めない様子で見送った後、こっそり後をついていった。

 瀬崎はいつも通り、黒のコートと灰色のマフラーを見に纏って、夕方、六時半ごろに出ていった。五分ほど歩いて駅へ行き、隣町で電車を降りた。そこから十分ほど歩いてある倉庫に辿り着いた。昔は近くに工場地帯でもあったのだろうが、今は廃れてネズミが住み着いているような倉庫だ。そして、そこには、既に一つの人影があった。

「やあ、やっと来てくれたか。いつ来てもいないから、もう来ないのかと思ったよ」

「ほざけ。お前はやり方が陰湿なんだよ。何だよ、あの録音機。わざわざ待ち伏せのように置いておかなくても、自分で渡しに来れば良かったじゃないか」

 その声に、ハルは聞き覚えがあった。

「君は僕を、何故かは知らないが避けているだろう。そして、君が定期的にここを訪れているのは知っていた。だから、これを渡すならここへ置いておくしか方法が思いつかなかった。まあ、数年ぶりに会ったんだ。少し腰を下ろして話そう」

 そう言って瀬崎は笑った。しかし、目は笑っていなかった。


     *


 ナツは母の観察を続けた。その結果、家庭内暴力は演技だということが分かった。最初は信じられなかった。だが、見てしまった。

「ナツは、気づいていないか?」

「ええ、まだ大丈夫。それで、ボスは何て?」

「まだ続けろ、だと。……お前は、自分の子供を騙して、心痛まないのかよ」

 ナツは陰からこっそり二人の話を聞いていた。時刻は午前三時。二人は、ナツが寝静まった頃を見計らって、いつもこのような話し合いをしていたのだ。

「……感じない。この身も、心も、全てこの組織に献上した。あの人に近づいて結婚し、子供まで生んだのも、全てはこの組織、そして、ボス、今は亡き作野さんのため。上が続けろと言うのなら、その指示に従うのみ」

「……そうか。まあ、俺は別に何とも思わないがな。明日は三人だ。また女から、金巻き上げてくる。ひどいものだ、俺ら下っ端がいくら頑張っても、給料は上がるどころか、下がる一方だ。どこも不況なんだな。そう言えば、あの子を今までずっと騙してきたわけだが、何故そこまでする必要がある?」

「本当は男を生んで、後継ぎにさせる算段だった。でも、そんな都合良くはいかなかった。だから今は、女だからこそできることを考えてる。あの子には、将来見合いと言って敵組織の幹部、またはそれに近い立場の者と近づかせようと思ってる。それが成功すれば、あの人にとって必ず良い方向に働くでしょう」

 家族、母親、解呪、その全ては、ナツの独りよがり。今までナツが「解放」とのたまい、殺めてきた命は、財産を搾取された後、ただぼろ雑巾のように、捨てられたのだ。そう気づいたとき。ナツはある疑問を思い出した。「人の価値とは何か」。世界は、適地適任で成り立つ。自分にとっての「適地」を知る者こそ、この世で最も価値のある存在だ。そう悟った時、ナツは家を飛び出していた。

 しかし、行く当てがある訳も無く、結局二十四時間営業している漫画喫茶で夜を明かした。母からメールが来ていたが、どうしても返信する気になれなかった。その後マコトと連絡を取り、作野との接点を明かした。

「なるほど、君の両親がね。恐らく依頼の理由は、先生の殺害が表沙汰になった時のための保険だろう。妻からの依頼なら、不倫だとかで事は済む。なるほど、君の母も、吉彰の父の派閥の残党だったんだね」

「二人の話ぶりから、まだ残党は多くあると思う。多分、その残党と吉彰派で争っているのでしょう」

 マコトは険しい表情を見せる。吉彰を止める方法を思案しているのか、ナツの家庭のことを考えているのか。

 数分押し黙った後、マコトは意外な事を言い出した。

「僕も、その争いに参加する」


 それからナツは、とりあえず家に戻って、仮面の家族を演じ続けた。作野の残党の動きだけでも把握しておくためだ。マコトの志は、現実的で無いことは分かっていた。しかし、ナツはこの博打に興味がわいた。適地適任。この世界での自分の価値は、思ったよりばかげたところにある物なのではないかと思ったのだ。

 マコトは組織を作るため、様々な場所から情報を集めていた。残党、吉彰派、その両者の下っ端から情報を買ったり、ハッキングで機密情報を集めたり、方法はいくらでも思いついた。

 そうして一年後、マコトは無事、その抗争の仲間入りを果たした。ナツは母と竜彦に、一般企業へ就職したと騙して家を出た。マコトは今まで吉彰を追うため、様々な地位の人間と関わってきた。そうして人脈を広げてきたのが有利に働いた。裏でスポンサーのような存在になってくれる人が現れたのだ。それも十数人。

 構成員は実質三人と、少ないものだった。その三人というのは、マコト、ナツ、そして拓だ。ナツは拓に見覚えがあった。

「あなた、あさみさんの……」

「ああ、そうだ。俺はあさみの息子だ。お前があさみの暗殺の依頼をしたことは承知している。安心しな、俺はお前に危害を加えるつもりは無い。寧ろ感謝している。あの女は竜彦と出会う前は、真面目に働き、貧しいながらも人間らしい生活を送っていた。だが、あの男と出会ってからは、夜な夜な俺を置いて二人で出かけ。朝になってから帰ってくることが多くなった。貧しかった生活はさらに厳しくなり、一日何も食べられない日もあったくらいだ。あの女が死んだのは、そんな矢先のことだった」

 拓もまた、マコトやナツと同じように、行き所が無く、孤独で、失うものの無い者の一人だった。ナツは拓の事を、最初は警戒していた。育児放棄ぎみだったとはいえ、生みの親なのだ。そんな人間を殺した自分は、恨まれているに違いないと。拓は親をよく愚弄していたが、ナツは、どんな人間も、生みの親を心の底から恨むことなどできる訳が無いと思っていたのだ。

 しかし、組織を結成して一年経とうとしている頃、ナツは異変を感じていた。どうやら拓は、本当にナツを恨んでいないらしい。それどころか、ナツに好意を寄せているようなのだ。

「社内恋愛はオーケーだよ」

 マコトは二人を見てこう言った。全て見通しているらしい。

 ナツはと言うと、自分で自分の気持ちが分からなくなっていた。拓の事は、今まで要注意の観察対象だった。その対象から好意を向けられたことによる温度差で、特別な感情を持ってしまったのか。それとも、本当に本能から来る特別な感情を拓に向けているのか。

 ナツはマコトと初めて会った時の事を思い出していた。遠くから見ても分かる整った顔立ち、透き通った目、悲しく儚げな雰囲気、その全てが新鮮なものであった。ナツがマコトに向けていた感情は、好意、哀れみ、尊敬、その全てが当てはまるようで、全てがずれているような感覚だった。

 マコトと拓の違いは何か。それは、ナツへ思いを寄せるか、ナツが思いを寄せるかの違いだろう。寄せる感情が好意でなくとも、ナツはこのような関係にあることは分かっていた。ナツには、好意とはどんな感覚かなんて、経験からも知識からも、説明できないものだ。何を決断するにも情報は必要不可欠であり、ナツはその情報とやらが自分には不足していると考えていた。


 数年の月日が流れ、マコトの率いる組織は、反社会勢力の中でも強大な力を有するようになっていた。人員を増やし、政府の有力な人間を抱き込んで財力と情報を確保する。そうして着実に力をつけ、残る二つの組織と肩を並べられるようにまで成長した。マコトの組織は歩合制を取っていた。法に触れるかもしれない危険な依頼、情報の売買、密輸など、日々の仕事に比例して給料が支払われるものだから、構成員は仕事に精を出した。

 そして、マコトが一人で密かに進めていた作戦があった。この作戦の成功のため、次第にマコトは構成員から身を隠すようになっていった。秘密を知る人間を、最小限に抑えるためだ。その作戦と言うのは、国の首相に、もしくは政治において権力を持つ者のそばに自分が潜入することだ。情報を買う手間を省こうとしていたのだ。

 その計画の中で一つ、驚くべき事実を知った。マコトの行動を知ってか知らずか、吉彰もまた、マコトと同じことをしようとしていた。この国は、国民の完全民主制を目指し、国民一人一人が直接、首相候補に投票することができる。もちろん吉彰とマコト以外にも候補者は数人いた。しかし吉彰は、自分の組織の人間はもちろん、一般の人にまで賄賂を贈り、法に触れてまで首相の座を手に入れた。

 吉彰が国のトップとなったことで、反社会勢力の中で内乱が勃発した。奇跡的に世間には露見しなかったが、吉彰の組織に居れば政治的に優遇されるという噂が出回った。マコトの組織も例外では無かった。構成員の約六割が吉彰派に流れてしまい、マコトのところは破綻寸前まで追い込まれた。

 それでもなお残った構成員が、元の人数の二割、つまるところ数十人という規模だ。その中の二人が、ナツと拓だった。

「最近の噂、聞いたことあるか? ボスには後継ぎがいないから、組織内の人間を後継ぎにするとか」

「ほう、それはどんな人が選ばれるんだ?」

「やっぱり、拓さんかナツさんじゃないか? あの二人、組織立ち上げの時からボスの側近のような立ち位置だし」

 喫煙室から、ふとこのような話が聞こえてきた。ナツは息を潜めて隠れる。

「じゃあ、あの二人の内ではどっちになるんだろうな? 女というハンデがありながら、依頼を誰より正確に早くこなすナツさんか、暴力で大体を片していると噂の拓さんか。未来があるのは、やっぱり女のナツさんかな。子供でも産めば、ナツさんの才を受け継いだ次のボスがすぐ決まるだろ」

「いやいや、ここはやっぱり男である拓さんだろう。このような汚れた組織のボスには、少しばかり体育会系の考え方も必要なのさ」

 ナツはここまで聞き、ゆっくりその場を離れていった。


 その夜、ナツは拓を人気のない路地に呼び出し、ある提案をした。

「私と結婚してくれない?」

 ナツがこう言った時の拓の顔は、誰が見ても間抜け面だと笑い飛ばすものだった。ナツは笑うのをこらえながら、事の発端を説明した。

「なるほど、後継ぎか……」

「このままだと、いつマコトの命が狙われてもおかしくない。最近は組織の未来を案じてか、内乱が多く発生している。だから、皆が期待している私たち二人が手を組めば、内乱はほとんど治まると思う」

 雨が静かに降りだした。拓は腕を組んで考えていた。

「結婚と言っても、組織内の人間に、私たちが親密な関係であると思わせることができればいいの。そして、組織の未来は安泰だ、と皆に思わせられれば大丈夫」

 雨はだんだんと激しくなってくる。拓は、こらえきれなくなったように、申し訳なさそうにナツに言った。

「ナツは、俺と本当に結婚するのは嫌なのか?」

 こうなることも、ナツは予想していた。確かに拓と結婚し、無事子供も授かれば、この組織の次世代を担う人材ともなるだろう。しかし、ナツは心に決めたことがあった。

「私は、自分の世界を広げてくれたマコトのために、この一生を捧げると決めた。あなたには興味は無い」

「興味が無くたっていい。マコトさんが作ったこの組織に貢献したい気持ちは俺だって同じだ。結婚と言っても、ただの契約のようなものなんだ。俺と、共にこの組織に身を捧げないか?」

 結婚は契約、この表現は、ナツはとてもしっくりきた。なるほど、拓の言い分も十分理解できる。この組織のためになるなら、なんでもやろう。ナツはこの日、新たな決意を固めた。しかし天は、ナツの決意をかき消そうとするように、音を立ててより一層激しく降り始めた。雨に囲まれた町の中で、行き所の無い男女が、ただ静かに見つめあっていた。


 結果から言って、ナツの拓への提案は功を成した。あれから内乱はほとんど鎮まり、やっと組織に結成当時のような平穏の空気が戻ってきた。しかし、組織内の空気とは反対に、情勢は大きく変化していった。その鍵となった存在は、吉彰であった。

 この数年のうちに、首相は二度ほど変化した。吉彰があれから立候補することは無かった。本性が暴かれそうになって自分から首相の座を退いたのか、とナツとマコトは思っていた。しかし、その予想は残念ながら外れてしまった。吉彰がそんな大胆な地位についてまで求めていたものは、自分の父の残党の動きの情報だった。ここからは想像だが、マコトから遠ざかる方法の一つでもあったのだろう。大きな地位になるほど、マコトのような地下の人間は近づきづらくなるからだ。そして情報がある程度集まったら、今度は自らが組織を率いて残党を消す仕事に取り掛かるため、表社会からは姿を消す必要があったのだ。危険を冒して吉彰が手に入れた情報はそれだけの価値があったようで、一気に残党は壊滅に追い込まれていった。残党消滅の後、吉彰の標的となったのは、当然の事ながらマコトの組織である。

 そして、数年のうちに変化したのは、情勢だけではなかった。ナツはあの日からしばらくして、一人の子を産んだ。拓との子であった。

「お母さん、今日も仕事?」

「うん、ごめんね、遊んであげられなくて」

 子は既に三歳になっていた。ナツと拓の仕事が忙しくなってきたため、二人は家政婦を雇って息子を任せていた。子は、近頃は寂しそうに両親を送り出すようになった。そんな息子を放っておいたのが、災いのもととなってしまった。

「ボスは何て?」

「これから、組織同士の全面衝突が予想される。命の保証は無い。それでも付いてきてくれるか、と。私の答えは決まってる。この命、マコトのために使う。悔いなんて無い」

「おいおい、忘れちゃいけない存在があるだろ。俺らが死んだあと、あの子はどうなる? 一人にする訳にはいかない」

「毎日生きて帰れば、問題ない」

 拓は、表情一つ変えずにそう答ええるナツを笑った。仲間がいくら減っても、二人は、互いが今日も必ず生きて帰ることを知っている。

 一方吉彰は、マコトに側近のような存在が二人いることを知っていた。そして、その息子の存在も。吉彰はその横合いをついた。手練れに真っ向勝負を挑んでも、勝利は約束されない。しかし、人質を取れば話は別だ。

 この日も生きていた二人が家に帰ったのが、夜十時。夜勤は何とか免れ、息子のもとへ急いだ。だが、二人が息子の顔を見ることは無かった。

「『息子を無事返してほしければ、マコトの首を出せ』。陰湿なやり方だな。これはまた、とんでもない天秤が現れたものだ」

「何のんきなこと言ってるの。こんなの、選べる訳が無いでしょう!」

 ナツが言った通り、二人はいつも通り生きて帰った。だが、生きていることが実感できないほど、気分は曇っていた。命の天秤ほど、傾かない天秤は無い。

「これから、どうする?」

「この命、マコトのために使うと誓った。同時に、次期ボスの命を育てることも私の使命。この二つを実際に考えたら、抗争中の今、組織のボスがいなくなるのはまずい。よって、ここはマコトの命を優先するべき」

「お前、まだそんな事……。人の心は無いのか?」

 二人の間に沈黙が走る。この問いかけは、過去に一度聞いたことがあった。ナツは自分の両親が嫌いだ。心のままに行動し、その結果人に全てを搾取されている事にも気づかない、愚かな人たち。そんな大人になるまいと、必死に感情を抑えて生きてきた。でも、この頃気づき始めていた。マコトへの忠誠心。自分は、どことなく母親に似ていると。

 今こそ、母親と自分が違うことを自分に照明する時だと悟った。母親は、自らの師のために、人間の心まで売り飛ばしてしまった。ナツは、母親は自分の命すら師への献上品だと考えていたのを知っている。

「……私は、母とは違う」

 脅迫文と睨み合っている拓が、ナツの意図を汲み取ったように答えた。

「母親を恨む気持ちは、俺も同じだ。だが、思想を無理に変えるのはそう容易じゃない。

あの子は俺に任せろ。お前には、今無理をさせる訳にはいかないんだ。子には、父よりも母が必要なんだよ」

 吉彰が把握していない致命的な情報が一つだけあった。ナツと拓の間の、第二子の存在だ。それは当然のことに思われた。その子の存在は、組織内で本当に信頼できる数人の間で、隠されるようにして育てられているのだ。激しい抗争禍で、マコトは構成員の家族を少しでも危険から遠ざけるため、本部とは別施設で、幼い子供、構成員の妻などを保護していた。その中に、ナツと拓の間に産まれた次男も含まれていた。

「でも、一人で敵本部に乗り込んだって勝ち目は無い。私も言った方が勝率は上がる。一緒に行きましょう」

 結局拓は、ナツに根負けしてしまった。マコトにこの事は報告しなかった。きっと、責任を感じてしまうだろうから。


 翌日、二人は初めて無断欠勤をした。それから二人とは連絡がつかなくなった。

「ここまで来て、不測の事態か……。吉彰の考えることは、相変わらず姑息なものだな」

 マコトは、二人が無断欠勤をした理由を何となく察していた。他の部下を二人のもとへ向かわせることも考えたが、損害が予想以上に大きく、二人のために割く人員が無かった。元はと言えば組織結成の目的は、吉彰に近づき、ばかげたことを辞めさせるため、そして、吉彰の本当の目的を聞き出すためだった。これ以上傷つく人間が現れないように。それなのに、自分を慕う部下たちの命を危険に晒すことがあっては本末転倒だ!

「これ以上、部下たちを危険に晒すわけにはいかない。自分で全て終わらせる」

 激化する抗争の中、マコトは吉彰のいる本部へ自ら赴くことに決めた。吉彰は、人を利用し尽くすまで捨てない。まだマコトのところに二人の安否情報が入ってこないということは、二人は生きている。無事かどうかは保証できかねるが、命さえあれば、助けるのに迷う必要はない。そしてマコトは、部下たちを守るためだけでなく、吉彰と最後の話をするために、自ら敵陣へ乗り込んでいった。たとえ最期になったとしても、どうしても吉彰に直接聞きたいことがあったのだ。


 マコトは日が完全に沈んでから行動を開始した。服はいつも来ている黒スーツから、適当なパーカーと動きやすいパンツに着替えた。少しでも一般人のふりをするためだ。

 二人が向かう先は、恐らく敵本部ではなく、その一つ隣の二階建ての建物だ。看板には「上原プロダクション(株)」と、何の変哲も無い一般企業のような名が刻まれている。しかし、実際その場所は、吉彰の組織がこの闇業界のトップに君臨し続けるための、人質、盗み奪ってきた品などの留置場となっている。人質となったら最期、無残に、まるで汚らしいごみでも扱うように、文字通り切り捨てられる。時々その残骸が床に転がっているとか。その施設に、息子も拘束されているのだろう。

 しかし、吉彰に限って、そんな重要な場所の警備を手薄にするとは思えなかった。案の定、マコトより体が一回り以上大きな男たちが、マコトがそこに入った途端に襲い掛かってきた。マコトがそんな男たちの力に敵うはずも無く、軽々と壁に投げ飛ばされてしまった。武器は拳銃一つ。懐から出す隙も与えぬ男たちの攻撃に、マコトは危機を感じた。だがその男たちと同時に、探し人もやってきた。

「動くな」

 しばらく行方を晦ましていた拓の声だった。それでもナツの姿は見えない。拓は見るも無残な恰好をしていた。服はボロボロ、膝はジーンズパンツに穴が開いて血も出ていた。

 二人で男たちを縛り上げ、口には床に転がっていたガムテープを貼って動きを封じておいた。

「拓、無事だったか! とりあえず安心したよ。しかし、ナツはどこだい? 一緒に行ったのだろう。姿が見えないようだけど……」

 拓は数日何も食べていないようで、表情がげっそりしていた。その顔をさらに険しくして答えた。

「マコト、俺はもうだめだ。守るべき物、何一つ守れやしない」

 拓はマコトに、息子が吉彰の組織に誘拐されたこと、その子を助けるためにここに二日ほど潜んで動向を探っていたこと、そして、ナツが新たな人質として捕らえられたことを告白した。

「ナツとあの子は本部にいる。先刻マコトの方へ脅迫文を送っていたようだぞ。お前はもうここへ来る途中だったのなら、知らなくて当然だ」

「違うんだよ、拓、君は何も悪くない。全ては私が蒔いた種だ。吉彰が以前にも増して動きが過激になっていることには気づいていた。それを放置し、今回のような最悪の事態を招いてしまったのだよ。自分を責めるのは辞めてくれ」

「……俺がナツを助けに行かず、わざわざここで待ち伏せの如く潜んでいた理由を教えてやるよ。マコト、お前を待っていたんだ。マコトなら、どうにかして俺らの助けに来ると思っていた。でも、早まるな。お前は今や組織を率いるボスで、皆の司令塔だ。一時的に抜けるだけなら問題は無いのかもしれないが、お前がいなくなったと皆や敵に知れたら、今後どうなると思っているんだ」

 マコトは、拓のしようとしていることが分かっていた。口では護衛のためだと言いつつも、その腰には爆弾が隠して巻かれてあるのを見た。自爆するつもりなのだろう。

「マコトさえ生きていれば、組織は存続する。皆お前についていくさ。司令塔は、皆の命なんだよ。こんなことで皆の命を使う訳にはいかない。俺がここに残ったのは、ナツに言われたからでもあるんだ。あいつ、お前のために命を削ることを誇っていたよ」

 ナツがマコトに異常な執着を見せていたのは。マコトも知っていた。子を産んだのも、いずれ組織の構成員にするためだと。ナツの母親は吉彰というボスのために子を売り、ナツはマコトという己の師のために己を売った。ナツ自身は母親を反面教師にしていたようだが、ナツの事情を知っているマコトは、なんだか切ない思いだった。

 拓もナツも、マコトと三人で孤独を埋め合わせるように、偶然が重なって集っただけだ。その中で、マコトが一番先に自分の目的、自分の適地を見つけた。ただそれだけだった。そしてその目的のために、マコトは拓とナツを巻き込んだ。二人はマコトに言われずとも、協力していたに違いない。

「拓とナツの道を、私は無理やり曲げてしまった」

 マコトはこの二人の事を誰より理解している自身があった。それゆえ、余計に大きな責任を感じていた。二人が自分を慕ってくれているのは分かっていた。しかし、もし自分と関わっていなければ、もし自分に協力していなければ、二人も自分と同じように、己の目的を見つけることができただろう、と。

「二人の適地は、ここには無い」

 ぼそっと放ったマコトの言葉に、拓は笑って返す。

「たとえ適地でなくとも、それぞれの置かれた場所に、自分なりの価値を見出すことはできる。俺ら二人は、お前の力になる事に自分なりの価値を見出したんだ。定められた適地が他にあったとしても、俺とナツは、お前のいるここを選ぶだろうよ」

 そんな事を話している間に、本部の裏扉へ着いてしまった。わざわざ遠回りして路地裏から入るルートである為、吉彰は油断していたのだろう。

「君は先刻、もう何も守れないと言ったが、それは違う。私が、何も守れなかったんだ。君もナツも、私が守らなければならなかった。部下を守れないなんて、ボス失格だろう」

 懺悔でもしているように、苦しそうに言った。拓はそんなマコトの真意を汲み取ってか、ただマコトに笑いかけた。悪巧みをする少年のような笑みであった。

「ゆっくり話せるのは、今度はいつになるか分からない。だから、言いたいことを言わせてもらうぞ。お前は俺と出会った時の事、覚えているか?」

「昔話なんて、君らしくないことは辞めたまえ。――ああ、覚えているとも」

 マコトはこみ上げてくる激情を抑え、無理にでも笑顔を作って答えた。

「あの日、俺は孤児院を逃げ出したんだ。過去に何度も失敗していたが、今度は見つからない自信があったんだ。子供しか入れないような小さい土管を見つけたからだ。でも、見つかった。俺は脱走の常習犯だったから、どんなところに隠れるか知られていたんだろう。また失敗か。そう思いながら、監獄に戻りかけた時、お前が大人たちを撒いたんだよな」

「ああ、そうだ。私は体が小さかったからね。君と似た服装をして大人たちの前を通ったら、皆簡単に騙されてくれた。君の孤児院が、孤児たちに同じ服を与えてくれていたおかげだ。大人たちが混乱する顔、実に滑稽だったよ」

 二人とも、過去の悪行を思い出して自然と笑顔になった。最近はずっと眉間に皺を寄せていたマコトも、少年のように、歯を見せて笑った。

「あの時、君を助けたのは私の気まぐれだ。君が過去の自分に見えてね、ついいたずらをしてしまった」

「気まぐれでも何でもいいんだ。感謝している。あの日から、お前を兄のように、父のように思ってきた。家族だ。家族を守るのは当然だろ? お前はあの日、俺を助けてくれた。そして今度は、俺がお前を助ける。持ちつ持たれつの関係でいいじゃないか」

 マコトは、少し勘違いをしていたようだ。「部下」ではなく「家族」。そう思ってくれているとは、知らなかった。

「これ以上、言う必要は無いな。とにかく、お前がいてくれて、俺は自分の居場所を見つけられた」

 マコトは、もう無理に笑うことは無かった。先刻の激情は落ち着き、代わりに目がしらが熱くなってきた。しかし、いつまでもここで時間を使う訳にはいかない。マコトは、できればまだ拓と昔話でもしていたかったが、時間は待ってくれない。

「よし、もう大丈夫だ。行こうか」

 拓はその言葉に頷いてドアノブを回す。勢いよく開き、二人そろって非常階段へ駆けだす。途中に立ちふさがる護衛は全て、先頭を走る拓が打ち抜いてしまう。

 二人は一気に、最上階である七階まで駆け上がってしまった。そして、しっかりした足取りで部屋の扉を開く。

「やあ、待っていたよ」

 驚いた様子も無く、吉彰はマコトに言う。吉彰は右手に銃、左手にナツを繋いだ縄を掴んでいた。ナツは頭から血を流し、気を失っているようだった。

「あの子はどこだ」

「ほら、そこだ。君の近くにいるじゃないか」

 吉彰が指したところに、冷たくなって転がっている、拓の息子の姿があった。

「……お前…………殺す」

 拓は冷静さを失い、吉彰に飛び掛かる。

 即座に吉彰はナツを拓の目の前に引っ張る。ナツはひどい有様だった。見える場所には痣が付けられ、衰弱しきっていた。

「おい、周りをよく見ろ。この女、これでもまだ生きているんだぞ。俺だって、問題を起こしたい訳じゃ無いんだ」

「問題を起したくないだと? 息子と妻が目の前で転がって冷静でいられる奴がどこにいる!」

 沈黙が空間を支配する。この時の吉彰は、本当に、心の底から悲しそうな表情をしていた。

「黙れ。俺はマコト、お前と話すためだけにここで待っていたんだ。お前も、俺の事を探していたんだろ? 話したいことがある」

「こんな状況で、冷静な話し合いが成立するとでも思うのかい?」

「最初から俺はマコトにしか用は無い。人質は解放する。ただしマコト、お前が俺側に付くと約束するなら、だ」

「何が言いたい」

「組織を解散しろ」

 マコトは驚いて吉彰を見返した。どうやら本気らしい。吉彰の右手は、かすかに震えていた。怖がっているのか、気分の高揚による震えなのか、マコトには分からなかった。しかし吉彰の目は、相変わらず真っすぐマコトだけを見つめていた。

 分かった。そう言おうとしてマコト口を開いた時、吉彰から小さな悲鳴が聞こえた。

「……ナツ、お前……」

 ナツが気を失っていると思っていた拓は、驚いて声を上げた。

「最初から気を失ってなんかいない。この時を待っていた。マコトさんが到着して、お前に隙ができるこの時を。毒針を手に刺した。死にはしないけど、数日間意識を失うのは確か」

 一瞬、吉彰とマコトは何が起こったか分からず、呆然と立ち尽くした。その隙にナツは吉彰の元から脱出する。

 二人はマコトを庇うように、吉彰の前に立ち塞がった。その姿を見て、マコトは、自分が勝手に諦めようとしていたことに腹が立った。

「吉彰、お前と共に、またあの頃に戻れるかもしれない。そう思っていたが、どうやら私の思い過ごしだったようだ」

 マコトと吉彰は、互いに向かって同時に銃を構える。マコト側は手負いが多い。吉彰も吉彰で、だんだんと毒が全身に巡り始めているようだ。呼吸が少々荒くなり、目の焦点は合っていなかった。

「こっちだって、もう諦められないんだ。お前がこんなばかげた世界に足を踏み入れたのも、俺の予想の範疇だ。目的を見失っているのは、お前なんじゃないのか」

「それは――――」

 マコトが何か言いかけた途端、ナツと拓が二人そろって声を上げた。

「目的を見失った亡霊はお前だ!」

 ナツの手にはライター、そして拓は、ほんの少し前まで着ていた上着を脱いでいた。現れたのは、腰に巻き付けた大量の爆弾。

「マコトさん、あなたは自分を見失ってなんかいない。俺らがあなたに周りに集まったのは偶然か必然か、今になっても分からないが、それでも俺の目的は不動だ。あなたに忠誠を誓い、どんな時だって命を守る。あなたの悲願のために。たとえそれで落命したとしても」

「私も同じ。あなたのためなら、何だってする。親とは違う、別の理念のもとで。だからマコトさん、嘘はつかないで。あなたは、今のこの社会を変えるため、裏社会の抗争を無くすために、以前からずっと計画していたでしょう。ただそのためには、今あるこの二大勢力のどちらかが滅びる必要がある」

 ナツが言ったことは、大方的を射ていた。マコトは抗争で失われる命の数、続くはずだった人生、人の思いが、これ以上闇に葬られるのを、黙って見ていることはできなかった。しかし、組織結成当初はそんな目的があるはずも無く、また別の大きな目的があった。

 過去に想い馳せてばかりなのは良いことでは無いのかもしれない。思い出というのは、思い出すごとに美化されるからだ。それでも、マコトは、毎日のようにあの時の事を鮮明に思い出すのだ。目で見たもの、耳で聞いたもの、触ったものの感触、全てを鮮明に。

「吉彰、お前は俺を二度も助けておきながら、俺にはお前の手伝いはさせてくれないのか」

 護衛に立つ二人は、ただ静かに、マコトの話を、噛みしめるように聞いていた。

「お前はいつもそうだった。僕が沈んでいる時には手を差し伸べ、そして自分が沈んだ時には人を寄せ付けず、差し伸べた手を振りほどく。一体何がお前を邪魔しているんだ。お前はあの時、もう人を殺めるのは御免だと、言ったではないか。何故こんな巣に籠り、未だ血を流しているのだ。僕は、お前を止めるためにこの組織を結成した、と言っても過言ではない。いい加減、手を取ってくれないか」

 マコトは、今まで誰にも話さなかった目的を、初めて言葉にした。なんだか上手い言葉が思いつかない。吉彰に伝わるはずない、そう思った。

 しかし、吉彰の顔には、先ほどの影は見えなかった。悲しそうな顔で、笑っていた。鬼が垣間見せた微笑みのようなものだったが、マコトは確信した。吉彰の本質は、あの頃と全く変わっていない。

「俺はお前を……助けたわけじゃ、ない。羨まし……かった。お前の、綺麗な志を…………邪魔する奴が、許せなかった。それだけだ」

 ほとんど虫の息と言って良いほど、吉彰は衰弱していた。立っているのがやっとだ。

「だから、マコト。お前は……俺を、助けに来たんだったか? そうなら、今すぐ……この社会から、姿を消せ。お前を狙う、ならず者が……ここには多すぎる。お前が、余計な事を、しなけりゃ…………今ならまだ、引き返せる」

 そう言い放つと、吉彰は、拓とナツ目掛けて銃弾を発射した。毒の所為か、二人は当たり所が良く、ただ痛みにもがき苦しんだ。そんな中でも、二人はマコトを守ろうとした。マコトを外の非常階段へ向かわせた。言っても聞かないと思った拓は、最後の力を振り絞ってマコトを無理やり外へ追い出した。

 三人とも、ここから持ち直すほどの体力は残っていなかった。しかし、いや、だから、決断は早かった。ナツは息子の亡骸を大切に抱いた。

 ナツはライターの火を、拓の爆弾へ。そして吉彰は、銃弾を二人の脳天へ。

 その日、三つの孤独な人生は、爆音とともに姿を消した。最期は皆、仮面の下の微笑みを見せていたという。



   四



 あの日から、三年が経過した。組織は、吉彰が死んだ事により解散したらしい。そして、部下やその他関係者には何も告げずに、マコトは姿を消した。もちろん、あの二人が残したもう一人の子供も置いて。罪悪感が無かった訳では無い。ただ、どんな顔をして会えばいいのか、分からなかったのだ。自分勝手に行動し、結局誰も救うことができなかった、なんて、到底言える事じゃなかった。もう、誰を守ることもできないのなら、愛する者の隣にいる資格など無いのだ。

 現在、マコトは裏社会の情報屋だ。簡単に人のつながりは切り離せないらしく、吉彰の部下など、元々マコトと敵対していた組織の人間からの血塗られた手紙や、行き過ぎた求愛が後を絶たないのだ。

「今日は官僚と密会、その後は組の情報員と取引。……すまないね、皆。私は皆を捨てて逃げたというのに、未だ懲りずにここにいる。だが、償う方法も、もう私には分からない。だからせめて、政府と裏社会のつなぎ役として、この国が混乱しないよう、見守ることにしたよ。皆が眠るこの国を」


 そんな日々を過ごしているある日、奇妙な出会いがあった。

 いつの間にか眠らされ、拘束され、そして脅されていた。それも、齢十五と思える青年に。マコトは色々な経験を積んでも、予想不可能なことは起こるのだと学んだ。思わず笑ってしまった。

「何がおかしい」

 一喝されてしまった。

 その青年をよく見ると、本当に年は若く、そして孤独な眼をしていた。マコトには、見覚えのある眼だった。あの二人の凛とした瞳に、どことなく似ている、と思った。

「君は何故こんなことをしている。まだそんなに若いのに」

「答える気は無い」

 声も、どこか遠くで聞いたものにそっくりだった。マコトはすぐに拘束を解いて抜け出すことも可能だが、そうはしなかった。今度こそ、見捨てたくなかった、逃げたくなかったのだ。

「私は君の役に立てるよ。少し、私の死刑執行を延期してみないかい?」

 この取引に、青年は渋々同意した。

「なら、自己紹介が必要か。俺はハルだ」

 青年を信用していなかった訳では無い。しかし、裏切り者である自分が本名を名乗るのは、少々気が引けた。この子を置いて逃げたかつての自分が怯えていた。

「私は……瀬崎マコトだ。調べていたら分かると思うが、今私は追われる身だ。匿ってくれとまでは言わないが、ここでの話は内密にしてくれるかい?」

「こちらも似たようなものだ。分かった」

 かくして、瀬崎マコトとハルの物語が幕を開けた。




 ハルがマコトと共に仕事をするようになって、少し経った頃、情報屋であるマコトのもとに、興味深い情報が入った。しかし、吉報とは決して呼べるものでは無い。ここ数か月で急速に勢力を拡大し、縄張り争いがやっと終息へ向かっていた時、再び抗争の嵐をもたらす者がいた。その首領の男が、数年前に死んだと思われた作野吉彰だというのだ。

 マコトはこれを聞いて、悲しさか、嬉しさか、それとも何か違う感情か、何かが自分の中でうごめくのを感じた。それが何かと言われると、悲しさとも、嬉しさとも、一概に言葉で説明できるものでは無かった。

 マコトは再び吉彰の捜索を開始した。聞きたいことが、山ほどあった。吉彰がどう生還したか、では無く、もっと過去の事だ。今更過去の何かを解き明かしたところで、現在の自分の何かが変わるわけでは無い、ということは、重々承知の上であった。それでもマコトが過去を追うのは、それを知ること、知って目を背けず、向き合うことこそが、己の贖罪だと思ったからだ。

 しかしそうは言っても、吉彰の捜索は並みの苦労では達成しえないだろう。面倒なことに、吉彰の部下は、一度解散したとき、本当に様々な分野へ散っていた。かつては力こそ全て、という単純な者の集まりだったのが、今では情報屋、政府御用達の暗殺屋、ハッキング業者、密売人……一々上げたらきりがないほど多くの分野へ散った者たちが、再び主のもとへ集まったのだ。この数年で培った経験を発揮されてしまっては、いくら凄腕の情報屋と言っても、捜索は難しいだろう。田畑の雑草は、少し生えても手間はかからないが、密集されると厄介なものだ。

 マコトは終わりの見えない活動で、途方に暮れてしまった。


 いつものように、ハルがマコトの家に入り浸っていた時の事、マコトにとって驚くべき発見があった。ハルとあの男に接点があったのだ。こんなに近くに手がかりがあったとは、まさに灯台下暗しだ。

 マコトはハルがあの二人の子であることは勘づいていた。そして、その子がどう生き、どう成長してきたのか、常々不思議に思っていたのだ。マコトがいなくなってから、組織の構成員のほとんどは血眼になって首領を探し回り、その他は自分らを捨てた首領に愛想を尽かし、離れていったはずだった。つまり、置き去りのハルを拾う者がいたとは考えられなかったのだ。

 それでも、ハルはこの業界で、しっかり自分の力で生きている。こうなるまでには、先人の力が必要不可欠なのだ。そして、その先人こそが、吉彰であった。

「俺は孤児院の出だ。幼少の頃、肉親だと思っていた人たちが、本当の家族でないことに気が付いた。そして、俺は何を思ったか、そこで、生まれて初めての殺人を犯した」

「では、君はそれからずっと逃げ続けていたのかい?」

「いや、ある人に拾われたんだ。名を葛西という」

「……葛西?」

 その名を、マコトは久しく聞いていなかった。瀬崎という名の方が、自分に馴染んでいるような気がしていた。危うく自分の名さえ、忘れてしまうところだった。

「ああ、そうだ。知り合いか?」

「……まあ、少しね。で、今『葛西』は何をしているの?」

 途端にハルの表情は曇る。

「あの人は今、行方知れずなんだ――――」


 マコトはハルの話を録音したものを持って吉彰を探しに出た。というのも、吉彰と思われる人物の目撃情報が入っていたからだ。今度も誤情報という可能性もあるが、なんとなく今回こそは、吉彰に近づける気がしていた。

 そこは廃墟と化したレンガ造りの倉庫だった。中は外界と隔離され、まるで数百年の時が止まり、置いていかれたような、悲しい空気が漂っていた。

 マコトは入口で、録音した音声を流しだした。理由は無いが、こうすれば、吉彰に会えると思ったのだ。しかし、倉庫に入った瞬間に、その必要は無かったと悟った。

 人影があった。それも、見覚えのある、今まで追ってきた者だ。

「引き寄せられたのは、私の方だったようだね」

 音声は止めない。録音機からは、ハルの、吉彰と出会った時の話が流れ始めた。吉彰はただ黙って聞いている。いざ遭遇すると、どうすればいいのか、何から話せばいいのか、分からなくなってしまった。

 吉彰は、壁に沿って山のように積み上げられた段ボールを背にして、座っていた。虚空を見つめるその目は、月光の入り込む屋内でも光を取り入れることなく、ただ孤独に、そこに存在していた。けれどもマコトが入ってきたことを認めると、かすかに一瞬、その目に光を宿したようにも見えた。

 マコトはそれの三つばかり離れたところで目を瞑って立つ。二人とも、考えていることは同じなのだろう。しかし、そこに踏み込む勇気は、あいにく互いに持ち合わせていなかった。話は自然とハルの話になった。

「あの子を育ててくれてありがとう。私は、以前では考えられないほど、充実した生を知った。全てあの子の、そして、お前のおかげだ」

 相変わらず沈黙を決め込んでいる吉彰だったが、かすかに鼻を啜る音がした。

「じゃあ、また。今度は、言いたいこと全て話し合おう」

 それからマコトは吉彰を追うのを一旦辞めた。心に余裕ができたのだ。吉彰とはまた会えるという、何の根拠もない勘だけであったが、それだけで十分なのだ。

 その代わり、またあの頃のように、先生の死の裏を調べ始めた。というのも、先生の死と吉彰が密接なつながりがあると確信したからだ。吉彰はあの日、忌々しい過去の日、マコトのもとへ来る前に、先生と会ったと話していた。それに、吉彰と会った時に分かったのだ。吉彰は自分の為でなく、他の誰かの為に今も活動をしている。過去か、或いは何かの呪縛らしいものが、吉彰にずっと絡みつき、離れないのだ。その何かの所為で、未だ吉彰は自分のすべきことができていない。マコトは吉彰のあの空虚な目を、過去にも一度見ている。

 マコトは、再び生きる目的を見つけたこの日を、第二の誕生日とすることにした。そして、生きる理由と共に、過去の罪と向き合う覚悟もできたのだ。


 けれども調査の甲斐なく、何もできずに三か月の月日が経った。季節は廻り、春。

 吉彰について調べるのは、自分もその素性を知られる危険が伴うということだ。だからまずは、吉彰を間近で見てきた弟子に話を聞くしかない。

「ハル、君の過去を、私に話してくれないかい? というのは、僕は君の師の『葛西』と知り合いでね、丁度僕も消息が気になっていたところなのだよ。話してくれれば、何か分かるかもしれないからね」

「前回の続きか。……分かった。何か分かったら教えてくれよ」

 そう言ってハルは、「葛西」について話し始めた。

「前回、たしか出会って少し経ったところまでは話したよな。じゃあ、そこでの生活について話すぞ。あの人は、普段どんな仕事をやっているのか、俺には何も教えてくれなかった。俺も俺で、知ろうとしていなかった。あの人は、俺が聞いてもどうせ教えないか、はぐらかすに違いない。俺は、毎日のように、拳銃の使い方、剣術、武術、その他の訓練を受けた。俺には才能もあったようで、習得にそう時間は掛からなかった。そうして、早くも三年が過ぎた。その頃から、あの人俺に顔を会いに来なくなり、その代わりに、裏社会の構造、礼儀、仕事の受け方、その他、自立に必要な知識を教えてくれるようになった。そして五年経った頃には、一人で仕事を受け、生活に必要な金は自分で稼げるようにまでなった。全てあの人のおかげさ」

 そこまで話した後、ハルの表情が曇った。マコトもその後は想像がつく。

「あの人はある日、突然姿を消したんだ。何も言わず、礼も言わせてもらえないまま。今、もしどこかで生きているのなら、一度でいい、育ててもらった礼が言いたい。あなたのおかげで今の自分があると伝えたい。そして、許されるなら、自分を生んでくれた親のことを聞きたい。何故だか知らないが、一度も話してくれなかったんだ」

 マコトは最後の一言を聞いて、心臓がどきりと鳴り、自分の中の暗い記憶が、鮮明に思い出された。そして、自責の念が波となって一気に押し寄せてきた。現実からは逃げられないとは知っていたが、どうしても耐えきれなくなり、マコトは眉間に皺を寄せ、目を固く瞑った。それでも、脳裏に映る、あの日の凄惨な光景は、消し去ることはできなかった。

 マコトにも、吉彰がハルを追い、助けた理由は分からなかった。何かまた嫌がらせを考えているのか、それとも懺悔の気持ちからなのか。

「よしあ……葛西は、いつも出かける時、何も言わずに出ていった? それとも、例えば、何かを探しているとか言っていたかい?」

「そういえば、確かに、誰かを探していると言っていたな。名前は教えてくれなかった。だが、どうしても探さなければいけないと、毎日口癖のように言っていたのを覚えている。恋人とか、家族とか、親密な関係の人には違いないな。お前は何か知らないか?」

 親密な関係で思い出したことがある。しかし、にわかには信じがたい事実であった。ナツの母親と吉彰の母親が同一人物だというのだ。つまり、その女性は作野と離婚し、その後先生と結婚したことになる。この事実は、作野が先生を恨む理由を十分説明できるだろう。しかし、ナツが母について言っていた事が気がかりだった。

 ナツは、母親は作野に、過剰と言っていいほどの信頼を寄せていると言っていた。もしそれが本当だったなら、作野が先生を殺す動機には、その女性は無関係ということになる。

 となると別の動機があるということだが、マコトはここで早速行き詰ってしまった。

 情報屋として必死に調査したが、結果は虚しく皆無。八方塞がりになったマコトが最終手段として計画したのが、吉彰の再捜索である。近頃は吉彰からのアプローチも無かったので、捜索は以前にも増して難航した。

 とはいえ、方法は一つ、残されている。例の倉庫にある仕掛けをするのである。この世であの男、吉彰だけが掛かる罠だ。

 マコトは自身の書斎の引き出しから、小型録音機と、拳二つ分ほどの木箱を取り出した。そして、その冷たい機会に、こう語りかける。

「お前に聞きたいことがある。運命が分かたれたあの日のことだ。お前は、先生について、そしてその暗殺計画について、何を知っている? それに、私を助けた後、お前はどこに消えたんだ? まだ聞きたいことは山ほどある。是非直接会って話がしたい。お前がもしこれを聞いているのなら、満月の夜、亥の刻に、またここに来てくれないか」

 そっと木箱にしまう。それには暗証番号で開く鍵を付けた。番号は、先生の誕生日に設定する。吉彰なら解除できると確信し、メモには、あの人の誕生日、とだけ書き置き、例の倉庫へ持っていく。頻繁に、という訳では無いが、例の倉庫付近では、その男の目撃証言が多いのだ。もしかすると、その倉庫が、組の拠点となっているのかもしれない。


 満月の夜、マコトは例の倉庫へ足を運んだ。そして、呆然と立ち尽くしていた。

「お前は、また私から遠ざかってしまうのか」

 そこに、吉彰の姿は無かった。


     *


 日は沈み、月は出ていなかった。街灯と小さな星々が、静かに街を照らしていた。

 ハルは物陰に隠れる。幸運なことに、たくさんの段ボールが積み重なっていていたその隙間に丁度良く隠れられたのだ。

「今日は、護衛も無く一人で来たのかい? 珍しいじゃないか」

 瀬崎は、皮肉そうに言った。

「ああ、そうだ。そんなに殺気立って怒るほどの事じゃないだろ」

 瀬崎の眉がわずかに震えた。今度は本物の殺気を、隠そうともせず、むしろそれで相手を圧迫しているようであった。

「殺気だって立つさ。何せ、お前はあの二人を亡きものにしたのだ。しかも、その子供まで道連れにして。怒らない方が、異常だろう。そうは思わないか、吉彰」

「まあ、殺気を抑えろ。お前はそれを聞きに来た訳では無いんだろ? もっと昔の、あの忌まわしい事件を掘り返すのは、お前くらいだ。お前こそ異常だぞ」

 睨み合いがしばらく続いた。ハルは、あたりを覆う冷たい緊張感が耐えられず、逃げ出してしまいたかった。それくらい、二人の放つ空気は、威圧感を含んでいたのだ。

 沈黙は瀬崎が破った。軽く笑い、近くにあった錆びた椅子に腰を掛ける。

「まあ、時間はある。座ってゆっくり話そうではないか。なに、尋問という訳では無いのだから、お前も少し肩の力を抜いたらどうだい?」

「ほざけ。ゆっくり話すような、楽しげな思い出など、俺たちの間に無いだろ。安心しろ、疑問には出来る限り答えてやる。今更、秘密にするようなことも無いしな」

「どうだかね」

 瀬崎は肩をすくめる。ハルは、二人が一体何を話しているのか、全然分からなかったが、なんとなく、聞いていなければいけない、そう思ったから、もうしばらくこの探偵ごっこを楽しむことにした。

 しかし、吉彰とかいう男が気がかりだった。ハルは、己の師の声と、その男の声が、異様に似ていることに気が付いていた。

「ああ、今更掘り返すのもおかしなことなのだけれど、君の父の妻、つまり君の母親と、先生の妻は、同一人物ということであっているかな?」

 ハルは、ますます分からなくなってしまった。「先生」? 瀬崎にも、師と呼べる者がいたのだな、と今更になって気づく。それに、男の名もまた謎である。「作野吉彰」……聞いた事のある名であった。

「ほう、そこまで知っているんだな。そうだ、母は俺の親父と離婚し、再婚相手が、お前の先生だったんだ。だからあの人とは、少なくとも、マコト、お前が知る前から関わりはあったんだ。別に隠していた訳では無いぞ。俺も、あの事件で初めて、お前とあの人の関係を知ったんだ。とても驚いたさ。でも、いや、だからこそ、あの人を亡きものにしようという親父の過激な行動が、どうしても許せなかった。だから、お前と話すより先に、あの人のもとへ急いだんだ。逃げるよう説得しに行った。当時、俺はあの人と、お前ほどの深い関係は無かったんだが、噂に聞いたんだ。俺が、本当は作野姓じゃなくて、あの人と同じ姓だ、とな。もちろん、デマだったさ。でも、姓なんて、最終的にはどうでも良くなっていた。俺は、あの人の人間性に、憧れ、尊敬していた。数回会っただけだったが、それだけで、あの人の人間性は、十分に伝わった。お前も分かるだろ? ……しかし、結局、説得はうまくいかなかった。俺が、悪いんだ」

 瀬崎にも、先生がどう返すか、想像がついた。あの先生の事だから、きっと自らの命をなげうってでも、私たち二人を助けるだろう。

「……ああ、良く分かる。でも、お前は悪くないだろう。あの時、私は混乱して、何もできなかった。そして、結局お前にも迷惑をかけていたみたいだしね。あの後、浜辺のアタッシュケースに資料を届けに来ただろう? 私に、真相を伝えるために。……すまないね、いろいろと気を遣わせていたようだ」

 話がハルにも分かるようになってきた頃、足元の小さなもの、恐らく無秩序に荒らされたごみの一つを、ハルは踏んでしまったのだ。その音に気が付いた二人は、椅子から立ち、目を丸くしてハルの方へと近づいてくる。

「君、もしやハル君かい? 一体いつからそこに……」

「なんだと、あの小僧か!」

 その二人の声は、今まで何度も聞いた、懐かしいものであった。謎の男は、やはりハルの師、「葛西」と自ら名乗っていた人物に違いなかった。

「そうだ、思い出した。吉彰、お前、何故ハル君に『葛西』と名乗ったんだい? 別に偽名を使う必要は無かったんじゃないのかい?」

「…………ん? 偽名?」

「ああ、そうだったな。まあ確かに、必要は無かったかもしれないが、念には念を入れよ、というだろう? あの頃はまだ、俺を探している残党もいて、見つかると面倒だと思ったんだ。お前の姓を借りたのは、ただの気まぐれだがな」

 ハル呆気にとられてものも言えなかった。師の名が偽名だったのはもちろん、それが瀬崎の本名だったのもまたハルを驚かせた。

 そんなハルを、瀬崎、改め葛西マコトが小突いた。

「言いたいこと、あるんだろう?」

 はっと我に返った。何はともあれ、師と再会できたのだ。今までため込んでいた気持ちを伝える、絶好の機会、もう二度とないかもしれぬ機会が訪れたのだ。

「葛西、いや、作野だったか。俺は、ずっとあんたに会いたかった。今こうして生きているのは、全部あんたのおかげだ。本当に、感謝している。……今までどこにいたか、なんて聞かないが、本当に、会えて良かった。それだけで、十分だ」

 微笑んでハルを見返す吉彰は、本当の父親のように、柔らかい表情であった。ハルには父親の記憶など無いのだが、家族とは、きっと、こんな感じなのだろうと思った。この上なく温かいものが、ハルを包んだ。


 しかし時というのは、楽しく、手離しがたい時ほど早く流れ、悲しく、忘れ去りたい時ほど遅く流れるものなのだ。

 ハルは、数年のうちに、自身に起こった変化など、今までたまっていた話を、本当に楽しそうに吉彰に報告する。その光景は、まるで、本物の親子のようだったという。


     *


 「じゃあ、また。今度は、お茶でもしながら、ゆっくり話せるといいな」

 そう言って、ハルは家路についた。マコトの家からは少し離れているが、幸いハル自身の家とはそう離れていなかった。辺りは、街灯の、淡い青色が、点々と光り輝いていた。

「あんなハル君、私は見たことが無いよ。お前を師として敬うなんて、やっぱり変わり者だね」

「ああ、全くだ。それに俺は、そんなたいそうな事をあいつにしてやったことは無いぞ。ただ生かし、そして、無責任だとは思うが、一人この世界に放り投げたんだ。恨まれる義理はあるが、慕われる義理なんて無いぞ。……でも、本当に、会えて良かった。心残りだったんだ。あいつを一人にしたこと」

 吉彰は、そう言って、少し、遠くを見つめて笑った。

 マコトはまた固い表情に戻って、吉彰に尋ねる。

「ハル君を助けたのは、懺悔のつもりかい? あの子の親を奪っておきながら、今度は助けるなんて、君らしくないじゃないか」

「……マコト、俺は、後悔なんてできる人間性は、あいにく持ち合わせてねえよ。ただ、言っただろ? 俺は、奪った命の為、生きる。人の為に生きる、と。あいつの両親が来るのは想定外だったのさ。あれは俺じゃあなくて、親父のとこの残党が仕掛けた事だ。恐らく、お前と俺をぶつけて、同時に葬ろうとしたんじゃないか? 俺はもう、あの頃から、組織を離れる準備をしていたし、当然、お前とぶつかるのだけは、避けたい事態だった。そうは言っても、到底あの頃のお前は、信じないだろ? だから、利用しようと思ったんだ。あいつの両親か、お前か、どちらかに殺される覚悟はできていた」

 突然、吉彰の表情は凍り付いた。何かを憎むような、羨望するような、そんな感情が見て取れた。

「あの女と話した時、初めて知った。あの女は、あの人の娘だったそうじゃないか。色々と聞かせてもらった。あの人が、何故殺されたのか、その真相を知った。ひどい話だ。……それなのに、実の娘ともあろう者が、『運が悪かった』と、そのたった一言で済ませた。怒ったというより、驚いたんだ。まあ、その結果が、あれだ」

 ハルの背中を、遠くて小さくなった背中を見つめながら続ける。

「今更何をしても、許されるなんて思ってないさ。ただ、少しでも、あの人の為に何かをしたかった。あの人に向ける顔なんてもう無いが、これ以上悲しませないようにはできるんじゃないか、と思った。そんな単純な、言ってみれば気まぐれな感情が、ハルを助ける結果となっただけだ」


 ハルが見えなくなってしばらく経った頃、二人は、暗い街を、ただ黙って、同じ方向へと歩いていた。ハルが行った方向とは反対の、町のはずれへ。

 ついた先は、立入禁止という紙や、テープの貼られた、草木の生い茂っている廃墟であった。

「もうすぐ、ここも取り壊されるらしいな」

「……ああ、そうだね。遅いくらいさ」

 二人はこの場所を、一体どう呼べばいいのか、分からなかった。懐かしい、思い出深い場所、或いは、かの忌まわしき場所、そのどれもが、合っているようで、どこか違っていた。そもそも呼び名など、もう必要ないのだ。

 二人は堂々と、正面からその廃墟へ入る。過去の出来事の数々が、鮮明に思い出された。

「ここか、お前の住んでいた場所は」

 吉彰は、他より少しだけ、物が整理された部屋を見て言った。

「住んでいた、なんて、言えないさ。寝床くらいが丁度いい」

 あの頃は、本当に、寝るだけの場所だったのだ。夜も、たまに活動していて、帰らない時もあるほどだった。

 それでも、思い出されるものはあった。

「君には、やはり感謝するべきなのかもしれないね。あの時の事を思い出すと、君に助けてもらったことがたくさん浮かぶのだよ。思い出とは、言い難いのだけれどね」

「そんなたいそうな事をした覚えはねえよ。知ってるか? 過去ってのは、自分の都合のいいように美化されるものなんだ。人間なんて、みんなただのぼんくらさ。お前も、もちろんそのうちの一人だ」

 からかうように言う吉彰の表情は、暗くて良く見えなかった。


 屋上は、ドアの鍵も開いていて、難なく入ることができた。月が無く、晴れていたおかげで、いつもは気にも留めない六等星も、神秘的に輝いている。

「満月だったら、こんな光景、到底見られないのだろうね」

 マコトは空を仰いでそう呟く。生きてきたうちに、こんなに静かに空を見ることなど、最初で最後だろうと思い、目に焼き付けるように、じっと見ていた。

「そうだろうな。月が無いと、こんなにも周りに星があることに、改めて気づかされる。月が見えても見えなくても、空が美しいことに、何ら変わりは無いんだ」

 月と己を照らし合わせるかのように、悲しげに言う吉彰は、マコトに笑顔を向けていた。その笑顔に、マコトは胸が痛くなった。もう、見られないと思っていたその笑顔は、見れば見るほど、マコトに牙を立てるようだった。あの頃のように、笑い返すことは、できなかった。

 マコトの気持ちを知ってか知らずか、吉彰は続ける。

「あの後、俺はお前を放って、組織の再編成を止めるために尽力していた。それが、こっちの勢力が大きくなりすぎて、いつの間にか、親父と同じような道を、歩いていたんだ。気づいたときにはもう、なすすべなく、この手を血に汚していた。そんな時、あの人の事を思い出したんだ。結果的には、親父の後を俺が継いだ、ということになって、今までの親父の悪行を綴った資料を拝見できたのさ。その中に、お前に渡した資料もあった」

 屋上の塀が破られているところから、吉彰は外へ出る。そして、淵に座った。マコトはその隣で、四階分の高さを眺めた。

「お前が、あの人の死の真相を追っているのは知っていた。気まぐれで、少し情報をやろうと思ったのさ。だが、直接会うという訳にはいかなかった。知っての通り、親父の残党もまだ完全には消し去っていなかったから、自由に人に会うことができなかったんだ。だから、いつかお前があの場所にたどり着けると信じて、俺はあそこに埋めようとした。だが、お前が案外すぐそこにたどり着いたものだから、遭遇してしまったってところだな。俺も他にやることがあったし、あそこでお前と長話という訳にもいかなかったんだ」

「なるほどね。私は少し誤解していたみたいだ。あの時、私はお前の言う通り、あの事件を調べていた。でも、同時にお前の事も追っていたんだ。私は、お前が言った夢を決して忘れなかった。だから、お前が、お前の父と同じような道をたどるのを、黙って見ていられなかったのだよ。お前は私を避けているようにも見えたからね。全ては、私と、先生の為だったなんて知らずに疑ってしまったのは、本当に申し訳なく思っているよ」

「誰がいつお前の為だなんて言った? あの人の為だと言っているだろ」

 そう言いつつ、吉彰は純粋な笑顔をマコトに向ける。今度は、マコトも笑い返すことができた。空では、先刻よりいっそう、星々が明るく輝いていた。

「だが、マコト、俺にはまだやる事が残っているんだ。お前と話すのも、会うのも、これで終いだ。もうすぐ、この物語は、最終章を迎える。だからここの幕引きは、俺に飾らせてくれねえか? 最終章突入にふさわしい終わり方を、俺は知ってる」

 マコトは吉彰が何をしようとしているのか、大方想像はついていた。止めることは不可能。自分に吉彰を止める、そう説得する権利も、資格さえも無いと、思った。

「……最終章は、ハッピーエンドかい、それとも、バッドエンドかい? 私は前者しか認めないよ」

 微笑んでそう返すが、語尾に覇気が無かった。弱々しい声が、空気に消える。

 二人の間を、沈黙が支配した。空を仰ぎ、星の数を数える。六等星も、よく見ると、一つ一つ色があることに気づいた。

 先に沈黙を破ったのは吉彰だ。

「そいつは、読者次第だろうさ。エンドロールが決められた物語なんて、面白くないだろ。自分で想像が広がるから、物語ってのは楽しいんだ」

「随分と投げやりじゃないか。私は、たとえエンドロールが決まっていても、物語というのは、面白いものだと思うよ。そこにたどりつくまで、数多の選択があるだろう。もしこの選択肢でなく、こっちを選んでいたら、どんな違った物語になるのか、或いはさして変わらないのか、そこを想像するのが楽しいのだよ。出来上がっているからこそ、未完成なのさ」

 吉彰は、静かに笑った。そして、決意を固めたように、真剣な顔でマコトに言う。

「マコト、お前はまだ、エンドロールが決まってない。だから、これから自分でその物語を完成させなきゃいけねえ。お前は、きっと大丈夫さ。ハルだっているし、俺も、いる。あいつを、頼むぞ」

 マコトは、目頭が熱くなり始めたが、必死にこらえ、吉彰に言う。

「お前は、後悔は無いのか。やり直そうと、思うことは無いのか。私は、あまりに多すぎて、時々忘れてしまいたくなる。それでも、噛みしめて、向き合わないといけない……」

「先刻も言ったが、俺は、後悔なんてできるほど、良い人間性は持ってねえ。お前はそれができるんだ。それなら、後悔して、生き抜いて、その間に、それ以上の思い出ってやつを作ればいい。そうすりゃ、少しは理想のエンドロールになるんじゃないのか」

 マコトは、その言葉でようやく、決心がついた。最後まで吉彰に助けられてばかりで、照れくさいものもあった。それでも、面と向かって、伝えなければならないことがある。

「ありがとう、相棒」

 吉彰は、本当に、澄んだ表情で微笑んだ。

「ああ、お互い様だろう。……月は、見えなくても、しっかりそこにあるんだ、それを忘れるなよ」


 マコトは、吉彰と来た道を、一人静かに戻っていった。振り返ることなく、前を見て歩いて行った。街灯も消え、あるのは星の光だけ。夜道を歩くには少々頼りなくて、おもむろに空を見上げる。そこにあるはずの月を見つめて、笑顔を返す。


(完)


 初めての作品で、拙い文章でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございます。

 これからも、今作のように〈人間〉に焦点を当てた作品を書いていこうと思っております。見かけた際には「あ、新作できたんだ」くらいに、気に留めていただけると幸いです。

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