洗濯日和(1)
春眠暁を覚えず、なんて言うけれど、高校三年生の春はそういうわけにもいかない。受験勉強に大学調査、中間考査だってある。
暦は四月。この時期に一番大変なのは部活動の勧誘だ。
わたしの行き通う高校は全校生徒が部活動に入ることが厳守されている、そのために例年運動部などの大きくやっている部活動はなかなかに進入部員が集まってくる。
しかし、文化部はそうもいかない。特に部員数の少ない部活動は最悪だ。新入部員が入らなければ、その部活動自体が存続できなくなってしまう。今現在、美術部もそれに近い状況に陥っている。
わたし達は日々のんびりとやっているが、このときばかりは美術部の部員会議が行われた。
わたしを含めて五人の部員が美術部に集合している。わたしは慣れない教壇の上に立ち、美術室の中心に集まったみんなを見渡す。大きく一度深呼吸をすると、わたしは昨日考えていたことを話し出す。
「えっと、みんなも分かってると思うんだけど、今この美術部には五人しか部員がいません。ちなみに、部活動の存続は最低五人の部員が必要と校則になっています。そして、わたしと百合子、琴羽は三年生です」
わたしの言葉に琴羽が口を挿む。
「つまり私たちが卒業後、来年新入部員が入らないなんて事態が起きたら美術部はなくなってしまう。そういうことだろう?」
わたしの緊張を察して言ってくれたんだろう。心の中でお礼を言いながら、わたしは頭を縦に振る。
先輩として来期の美術部の事は守らなければならない。これはかなり由々しき事態だ。
部員の表情が硬い。その中、百合子の表情だけが楽観の色を見せていた。
「大丈夫じゃない? 三人ぐらい入るでしょ。新入生は二百人もいるのよ?」
百合子の言葉に有沢さんが反論した。窓から流れる風で、わたしより少し長い茶色みのかかったロングヘアーが小さく揺れる。
「それはどうでしょうか。去年は私と、その、九条君しか入部しませんでしたし、何かインパクトあるものでもやらないと入ってきてくれないかもしれません」
「それは、俺も同意見だな」
組んだ手足はそのままに、真っ直ぐに百合子を見ながら九条君が意見を出す。
「実際、俺と有沢は中学校でやっていたからこの部に入った。経験者しか入部していないんだ。この学校として、この状況はかなりまずいんじゃないのか?
俺、去年の部活紹介のあと入る部活をクラスメイトに聞かれたんだけど、美術部があることを聞いていない生徒なんてざらじゃないみたいだった」
一見して運動部のような体型の彼。美術部に入部すると聞いた彼のクラスメイトはおそらく驚いただろう。存在を知らなかった部活動名を挙げられて返されたのだから。
しかしそれはちょっと悲しい。わたし達だって去年の部活紹介に関わったのに、存在すら気がつかれていないなんて。
九条君の言葉に部員全員が唸る。百合子が口を開いた。
「じゃあ明日の部活動紹介のときに何かやる? 例えば、パフォーマンスとか」
「……パフォーマンスって言ってもどうやるんだい? 美術部は絵とか彫刻ばかりだから、その場ですぐに人の心を動かすようなものが出来るかな?」
百合子の意見も琴羽の意見ももっともだ。
例年、わたし達美術部は活動内容の簡単な説明と、この学校の数箇所にある、美術部の卒業生が毎年恒例で行う学校への寄贈作品のことの説明。そしてその作品の紹介だ。やっぱりこれは地味なのだろうか。
わたしのクラスメイトにその作品のことを、この前知っているか聞いてみたが、学校長の趣味で集めているものだと思われていた。なんとも悲しいことだ。
話し合いは難航するかと思いきや、百合子が打開する一言を放った。
「じゃあほら、大きな紙に絵の具をぶちまけるやつ。あんな風に書けばインパクトもあるし、どうかな」
「アクションペインティングか。いいんじゃないかそれ。確かにインパクトもあるし、印象付けられると思う」
九条君の賛成の声を筆頭に、有沢さんと琴羽も頷く。視線がわたしに集まった。あとは部長の賛成のみって事だろうか。
わたしも頷いた。
「うん、わたしもいいアイデアだと思う」
一度みんなの笑顔を見回してから、一つ深呼吸した。
「それじゃあ、今年の部活動紹介はアクションペインティングをやるということで決定します!」
「駄目だ」
部活内で決まったことを顧問の藤林先生に話したところ、開口一番に出た言葉がこれだった。
駄目だといわれて「はいそうですか」と、いう訳にもいかない。わたしは今一人で先生の所に来ているのだから。このまま帰っては部長としての威厳も何もない。
「なぜですか。わたし達はわたし達なりに考えてこの案を出したんです。部活動紹介のことはみんなに任せると藤林先生は言ったじゃないですか」
わたしの言葉に顔をしかめる。多分、苦虫をかんだような顔ってこんな顔だろう。
「確かにそうなんだけどなあ、でもそれは厳しいんだ。……去年書道部が派手なパフォーマンスやったのを憶えてるか?」
少し虚空を見る。去年、確か書道部は曲にあわせて歌詞を書いた書を出したはずだ。あれは面白かった。曲は確か当時流行っていたアーティストのものだ。流れる筆に踊る身体。書道って、こんなことも出来るのかと感心したのを憶えている。
わたしが頷くよりも早く、先生は続きを話しだした。
「実はな、あれがあのあと少し問題になったんだ。生徒側からは体育館が汚れるだの、生徒指導部の先生からは別のことでさらに何か言われるだの、書道部の連中も大変だったらしいぞ?」
先生はその細い眉を下げて腕を組んだ。男性の割に細い体つきをしている先生は、なんだかどんな格好をしてもさまになっている。
いや、今はそんなことを思っている場合じゃない。
「……そこを、なんとかできませんか?」
「難しいな、俺も生徒指導部に取り合ってみるけれど、あんまり期待しないでくれ。すまんな」
苦笑いして軽く頭を下げられた。
この二年間見てきて思ったが、藤林先生は生徒のことを大事にしてくれるいい先生だ。先輩方の進路のことにも真剣に考えてくれたし、こまめに美術室に来ては的確な助言もくれたりなどなど。おそらく、今回のことも本当に取り合ってくれるだろう。
わたしは一礼してその場をあとにする。
美術室に戻ると、みんなちょうど今やっている作業を終らして片付けに入っているところだった。私が思っていたよりも時間が経っていたらしい。
わたしが入ってきたことに気がつくと、みんなが視線をわたしに集める。
百合子がわたしに問いを投げかけた。
「……どうだった?」
わたしは困ったように首をかしげてから、先ほどの話の結果をみんなに伝えた。
あれから数日が過ぎた。まだ桜は散りきらず、校門から続く坂道にはまだ綺麗に咲き続いている。それはなんとも嬉しいことだけど内心はそんな余裕がなかった。
わたしは未だ煮え切らない想いが心を渦巻いたまま、教室の窓から校門を眺めていた。そろそろ本鈴が鳴りはじめる時刻だからか、ここから見える生徒の数はかなり多い。あの中に新入生は何人いて、何人美術部に入部してくれるだろうか。そればかりが頭を離れない。
携帯をポケットから取り出すと受信箱を開いた。昨日の百合子からのメールにわたしは答えられなかった。
『今日の事は気にする事は無い! パフォーマンスできなかったのは残念だったけれど、きっと新入部員は入ってくるって!』
携帯を閉じながら大きくため息をついた。もう一度窓の外へ視線を戻す。
「……部長って上手くいかないなあ」
呟いた言葉は流れる空気によってかき消されていく。こんな風に簡単に消えていく言葉なのに、心の中からは重たい感じがなくならない。
昨日の部活動紹介は結果的には悪くはなかった。しかしアクションペインティングが出来なかったのも事実で、例年と比べて何一つとして変わったこともなく終ってしまったのだ。
もちろん、藤林先生も頑張ってくれなかったわけじゃない。許可を取るために色々と取り合ってくれたのだけれど、ことごとく『不可』を言い渡されてしまったのだ。
『不可』という結果は前日には出ていた。それにもかかわらず他に案が思いつかなかった自分が情けない。
教室も大分賑わってきた。チャイムもそろそろ鳴り始めるのだろう。
そういえば今日は全校集会だったかな。移動の準備をしなくちゃ。出来れば今日は無駄に長い校長先生のお話は無しにして欲しい。
貴重品の確認をして学校指定のブレザーを着込み、わたしは教室を出る。ちょうど百合子が教室に入ってきた。百合子とは、今年の春から同じクラスだ。
「あ、おはよ紅葉。ちょっと待って。今すぐあたしも準備するから」
四月といってももう暑い。百合子もブレザーを着ないで登校している。ベージュ色のカーディガンの上から、鞄に引っ掛けていたブレザーに袖を通す。ただ、わたしとは違ってボタンは開けたままだ。
スカートも短めでいかにも今時の女子高生って感じがする。いやまあ、わたしもそうなんだけど。
「おまたせ、ってそうだ紅葉。下駄箱のところの絵がなくなってたんだけど知ってる?」
「絵って寄贈作品のこと? 下駄箱には最初に描き残した人の作品があるはずだよね」
わたしは記憶を模索する。確か、桜を描いた油絵だったはずだ。綺麗な桜の花びらはピンク色ではなく、ホワイトを中心とした多彩な色彩で描かれていて、初めて目にしたときは心を奪われた。一度でいいから、この人と同じ視点で世界を見てみたい、そう思ったほどだ。
「そうそれ、さっき見たらあれがなくなってたのよ。手入れとか何かかとも思ったんだけど、今までそんなこと一度もなかったじゃない? もしかしたら他の絵もなくなってるかもしれないし、あとで見て回ろうよ」
なくなっているなんてわたしが登校したときは気がつかなかった。気が落ち込んでいたからだろうか。
百合子の言葉にわたしは頷く。それでもし、すべての絵がなくなっていたとしたら、教員の誰かが手入れにでも出したのか藤林先生にでも訊いてみればいい。
集会は意外にもあっけなく終った。どうやら校長先生は急遽出張に行かなければならなくなったそうで、その分長い話はなくなった。
空いた時間は繰り下げずに休み時間ということになったので、わたしと百合子としては好都合だ。
琴羽も呼んで、この間にわたし達は校内を探索することにした。
一枚一枚、記憶している場所を探していく。はじめはやっぱり昇降口の桜の絵を見に行ったが、百合子の言うとおり、確かに桜の絵はなくなっていた。
一枚、また一枚と場所を回っていると、琴羽が呟くように言った。
「それにしてもなくなってるなんて驚きだね。それもあの絵だけだよ」
「まだ決まったわけじゃないわよ。あと二箇所残っている」
わたしもそう思ったがそれは望み薄だろう。さっきまで回ったところはすべて絵が残ったままだった。全十三枚中、今のところなくなったのは桜の絵だけだ。
次の場所に行こうかというところで、結局タイムリミット。一時間目の予鈴が鳴り始めた。
仕方なしに、わたし達はもう一度昼休みに集まることにして、琴羽と教室前で別れた。
わたし達のクラスまでの少しの廊下。その途中で百合子が呟く。
「それにしても変よね。どうして無くなったのかしら?」
さあ、それはわたしにも分からないよ。
教室に入る直前、後から人の駆けていく足音が響いた。振り向くと一人の男子生徒が紙を配りながら走っている。
「号外、ごうがーい!」
駆けてきた男子生徒はわたし達の前に立ち止まると紙を渡し、またどこかに走り去っていく。もう授業が始まるというのにいいのだろうか。
「ちょっと、何よこれ!」
突然、百合子が大声を上げた。見ると先ほど渡された紙を見ていて、その手が少しばかり震えている。
わたしは手に渡された紙に目を落とす。
そこに書かれた見出しを見てわたしは息を呑んだ。
盗まれた絵画、教師陣も絵の行方知らず!
……嘘でしょう?