二冊目のノート
一年の計は元旦にあり。という言葉があるが、わたしに今年の計画などを立てる考えなんて、少しも無かった。強いてあげるならば、今年も二人と仲良くいられるようにすごしていきたい。そう思うだけだ。
ざわめく人ごみの中から聞こえてくるカウントダウンの声。
百八個ある煩悩を打ち払うと言われている鐘の音の一突き目が鳴り響いた。
「あけまして、おめでとう!」
わたし、百合子、琴羽の三人が声をそろえる。どうか今年も、いい年になりますように。
小銭の乾いた音と、手のひらを強く合わせる音が次々に聞こえてくる。
わたし達が初詣に向かった神社はなかなかに大きなところで、人口密度もかなり高い。やはり人間の習性として、みんな小さな神社よりも大きなところを選ぶのだろうか。
一体この中にどれほど神様を信仰している人がいて、それ以外の人がいるのだろうか。例えば、あそこでお賽銭を投げているおばちゃんは本当に神様を信じているのだろうか。あっちで甘酒を片手に談笑している高校生らしき人たちはどうなのだろうか。……実際、神様を信じている人たちなんて、ほんの一握りなんだろうなあ。
そうだ、今度神様に人がすがりつくようなユニークな絵でも描いてみようか。それとも仏様が除夜の鐘を突いている絵でも描いてみようか。
「……みじ。ちょっと紅葉!ほら、行くよ」
「あ、うん」
百合子の声でわたしは現実に引き戻された。
「まったく、紅葉今また絵のことでも考えてたんでしょ」
図星だったので百合子から顔を逸らす。
「あーもう、やっぱりそうか」
「ふふふ、でもそんなところが紅葉ちゃんらしくて良いんじゃないかな」
「……琴羽。それちょっと恥ずかしい」
「あらあら照れちゃって。紅葉ちゃんは可愛いね」
笑いながら琴羽はわたしの後ろ肩をつかむ。なんだか大学生になってからというもの、琴羽の性格が少しだけサドよりになった気がする。
「それにしても人、多いわね。うーん、お参り済んだらどうしよっか」
「私はお腹がすいたな。久々に百合ちゃんの手料理が食べたい」
またにっこりと笑う琴羽。しかしその言葉も笑顔も百合子には効かないようだ。
「あら、嬉しいこと言ってくれるわね。それじゃあ終わったらスーパーにでもよって、紅葉の家でパーティーと行きますか」
私は賛成の意を記して頷く。ここからだと、わたしの家は十五分くらい歩いたところにある。三人のうち一番近くにあるのだ。
ふと、わたしは本堂近くにいる見覚えのある人影に気がついた。その二つの影を指差しながら確認する。
「ねえ、あれ……」
「あ、九条とありさじゃん。え、ウソ、あの二人って付き合ってるの?」
「そんな風に見えるね。あれは」
本堂近くにいたのは高校時代のわたし達の後輩。九条浩平君と有沢ありささん。ひとつ歳下の美術部員だった二人だ。仲良さげに手をつなぎ、その上長めのマフラーを二人で巻いている。うん、どこからどう見ても、あの二人はカップルさんだろう。
「はー、知らなかったわ。まさかあの九条がありさの事を好きだったなんて」
「え、気がついていなかったのかい。二人とも両想いだったじゃないか。ただ、二人とも意識しすぎて想いを伝えられてなかっただけだよ」
「……琴羽って何でそんなことにまで視野が広いの?」
百合子の言葉にわたしも同感だ。
正直、わたしはこういうことにかなり疎い。実を言うと初恋というものをした記憶が無い。もう二十一になるというのに、だ。変人だと言われれば甘んじて受け入れよう。
九条君と有沢さんは本堂のほうを向いていて、数メートル後ろにいるわたし達に気がつきそうにも無い。そんな二人を見つめ、いや睨んだまま百合子は言った。
「なんだかちょっとむかつくわね。あたしだって今は彼氏いないのに」
「百合ちゃんは少し高望みしすぎなんじゃあないのかな。年収二千万以上の人なんてなかなか見つからないよ」
それは確かに言えている。わたしも琴羽の言葉に肯定の意を見せる。
「いいじゃない。この歳になると結婚のことも考えちゃうの!」
それは、ちょっと早いんじゃないかな? と同い年のわたしは思います。
まあでも、百合子の結婚相手が見つかることを、わたしも仏様に祈ってみようじゃないか。
別に、わたしも仏教徒ってわけじゃあないけどね。
参拝の列は次第に流れ、わたし達の番が来た。九条君たち二人は、わたし達に気がつかずそのままどこかへ言ってしまったらしい。もうその姿は見えなかった。
お参りの仕方は『二拝二拍手一拝』と決まっているが、そのほかにも願い事をするときには、自分の住んでいる場所の住所も言わないといけない。なんて事を聞いたことがある。仏様が願いを叶えに行くときに迷わないように、との事のそうだ。なんとも胡散臭い。
それでもそれを信じているのか、お参りをするとき住所を言う人も少なくない。かくいう百合子もその一人だ。そんなにお相手探しに熱心なのか。
……まあ、胡散臭くても言ったところで損をすることはないから、わたしも小さく口に出してみた。
「さて、お参りも済んだことだし、紅葉ちゃんの家で百合ちゃんシェフの料理に舌鼓といこう」
「ちょっとまって。今からありさに電話かけるから」
それは、二人のデートを邪魔するということだろうか。
人を呪わば穴二つ。やめさせようと口を開きかけたがその心配はない。今の時間帯なら、回線が込み合って通話できないはずだ。
ところが、わたしの予想は外れることとなった。
「あ、やっほーありさ。あけましておめでとう」
その声は、いつになく楽しそうだ。
「ねえ、今神社にいるでしょ。え? だってさっき見かけたから。そう」
やはり、というべきか、百合子は二人に会うつもりらしい。
わたしと琴羽は顔を見合わせる。お互いに仕方ないとため息をついた。
「あ、ちょっと!」
百合子が突然大声を上げた。
舌打ちをしながら携帯を鞄にしまうと、呟いた。
「……切られた」
……当たり前だと思う。
とても芳しい匂いがわたしの部屋を包んでいる。チーズの焦げる匂い。芳醇な野菜。
わたしはその匂いの元を一巻きして口へと運ぶ。とたんに広がる小宇宙言ったらそれはもう!
わたしの隣で琴羽も感嘆の声を漏らした。
「うーん、おいしい! やっぱり百合ちゃんの料理は文句の付け所がないね。調理師免許、取っちゃえばいいのに」
「褒めてもらって嬉しい限りだけど、それはパス。別にあたし料理人になるつもりなんてないし」
二人の会話を聞きながら、わたしは焼かれて小さくなったトマトを突き刺す。同時に絶品のパスタも絡めて口に再度運ぶ。これはもう、おいしくて止まらない。
調理を横で見てて思ったのだけど、ガーリックオイルで炒めたベーコンとトマト、それと粉チーズ。塩胡椒で味を調えただけのパスタがこんなにもおいしいなんて、不思議で堪らない。どこかにわたしの見落とした隠し味でもあるのだろうか、などと思ってしまう。
あまりのおいしさに、トマトの最後の小さなひとかけらまで綺麗に食べきってしまった。
「ご馳走さま、百合子」
「はい、お粗末さまでした」
同じく完食した琴羽も、言葉を出す。
「……そういえば紅葉ちゃん」
相手はわたしだった。
呼ばれたので、わたしは食器を片付けに立ったキッチンから琴羽のことを見る。琴羽は一度辺りを見回してからわたしを見てこういった。
「……昨日この部屋、片付けたんだよね?」
片付けましたとも。百合子と一緒にね。
ただ、その大掃除がとある事情で中断してしまったことは否めない。部屋は未だ少し汚いままだ。
そのことを話そうとしたところ、百合子に話を持ってかれた。
「そうなのよ。片付けたには片付けたんだけどね、ちょっと面白いものを見つけちゃって」
首をかしげる琴羽に、百合子はスケッチブックを取り出し見せた。何かがはさんであるのか、心なしか分厚い。というか、それわたしのなんだけど。
「じゃーん、百合子の高校時代のスケッチブック! それと、これが面白いもの」
そう言ってスケッチブックの中にはさまれていたものを出す。青い大学ノートだ。それは、わたしの思い出のかけら。
「ねえ、初日の出まではまだ時間もあるし、みんなでこれ読まない?」
いい考えだと思う。わたしは頷いた。……でもそれを言い出すべきは、本当はわたしのはずだと思う。
琴羽は百合子から渡されたスケッチブックに目を通している。そして一つのページのところで手が止まった。
「いい絵だね、これ。みんな楽しそうだ」
「あら、ホント。よく描けてる」
わたしもスケッチブックを覗き込む。そこにあったのは人物画。
わたしを除いた美術部四人が、皆楽しそうに活動している。絵の真ん中下が少し空いているのは、描いているわたしを表現したからだ。おそらくその節は、説明しなくても二人には分かっているのだろう。
絵を見ていると少しずつ、思い出が蘇る。
「……この絵はね、あの事件の後に描いたの」
「あの事件?」
二人が声をそろえてわたしに問う。
「ほら、三年春の部員募集の後だよ。事件があったでしょ?」
「ああ、確かにあったね。確かあれって新聞部が話の発端だった」
「ストップ琴羽!」
話していた琴羽を百合子が手で制した。琴羽の丸い猫のような目が瞬く。
「紅葉、そんな絵があるって事は、このノートにも書いてあるのよね?」
わたしは大げさに頷いた。もちろん事細かに書いてある……はず。何しろ、書いたのが何年か前で、内容までは明確には覚えていないのだ。ただ、書いてあるのは間違いない。
「ふーん、何か書いてあるみたいだね。二人が大掃除すっぽかしたものとやらを、私も見てみたいな」
わたし達は百合子のそばに集まる。
百合子がノートに手を掛けた。