初仕事は恋の味(前編)
先ほどから何分いや、何時間が経過しているだろう。季節外れのラベンダーの香る美術室で、じっと机の上に置いた二枚の青空を見つめながら、わたしはふとそんなことを思った。
軽音楽部や吹奏楽部のにぎやかだった演奏も終わり、静まり返った校舎。グラウンドからも野球部がボールを打つ独特の金属音も聞こえなくなってきた。どうやらもう下校時刻が近いらしいことがわかる。そろそろ職員室から放送が入るだろう。
それでもわたし、いやわたしたちはその絵から離れようとはしなかった。
体に疲労がたまっているのがわかる。もう何時間も座りっぱなしで筋肉が硬直し始めている。わたしの向かって右側から絵を眺めていた百合子が、ついに耐えかねたのか声を上げた。
「あーもうわかんない、と言うか疲れた! だいたい、神埼部長も何でこんな絵をかいたんだろ」
「確かにそうだね、いくら豪華商品のために描いたものだからって、『使い終わったらもういらないから捨てても破いても燃してもいい』なんて、なんだかこの絵がもったいない」
左側に座っていた琴羽もため息をつく。わたしも顔をあげ、一つ背伸びをした。わたしも今日はもう、お手上げ。
私たちは高校二年生。仲のいい三人組の美術部員だ。ちなみに、現在のところ部員は全部で六名。二年生は私たちだけである。一年以上も部活をやっているうちに必然的に仲がよくなったのだ。
「大体、あたしは作った作品は全部残しておきたい派から、先輩の考えなんてわからないっての、紅葉もそう思うよね」
百合子がだした愚痴に対してわたしは頷いた。
わたしと百合子とは小学校からの仲で、過去も現在も私の親友である。彼女は思ったたことは率直に言うざっくばらんな人柄で、それでいてやさしく頼りがいもある。綺麗にウェーブのかかった明るい茶髪。顔立ちはやや薄めだが、百六十五センチという女の子にしては高めの身長と、モデルのような細身の体を持っている。しかしそれで運動音痴というのだから笑ってしまう。いやしかし、そのギャップが彼女の魅力なのかもしれない。
「……まあ、言っちゃあ難だけど、この絵ってまるで小学生が描いたようなものなんだけどね」
その言葉には素直にうなずけなかった。わたしはあまり子供と接する機会があまりないのでわからなかったのだ。自分が幼いころに描いた物と比較すればわかるかもしれない。ただ、百合子が遠まわしに『この絵は下手くそだ』といっているのはわかる。わたしの目から見ても、お世辞にも高尚な絵と称する事はできなかった。
わたしも疑問があったので珍しく言葉をだす。
「神崎先輩、いつもならコンクールに出しても文句のない作品をデッサンするのに……」
「卒業前のお遊びってやつなのかな?やっぱり」
もう一人の親友、市原琴羽が不思議そうな顔でつぶやいた。琴羽との付き合いは高校に入学してからだ。
百合子とは対称的に身長が百五十もないほど小柄で、大きめの目に丸めの輪郭。見事な童顔の持ち主で、彼女のそのボブカットがさらに幼さを醸しだしている。しかしながら、低めのアルトボイスとその性格は大人びている。琴羽は頭脳明晰で成績優秀。何でも、将来は医学関係に進みたいらしい。進路の決まっていないわたしにとっては少し眩しい存在だ。
そんなことで、もう一度言うがわたしたちは仲良し三人組みである。
「まあ、十中八九その通りだろうね」
百合子のその言葉にわたしがまた頷いたとき、完全下校の放送が声を上げた。
わたしたちは何をしているのか、その答えは数時間前に遡る。まずは放課後が始まったところから話を始めよう。
モノラルのスピーカーから流れる鐘の音。それを待っていたように立ち上がる人々。早くもマフラーを巻いている女子や、鞄を抱え一目散にかけていく男子。そんな中わたしは、いつも通りスケッチブックを抱えて美術室への道へつく。今日の学校は、いつもより静かな感じがする。
十月ということもあり、そろそろ肌寒くなってきた二階の渡り廊下を歩きさらに下へ、北校舎の東側一階、美術室はそこにあった。
絵の具や木材独特のかび臭いにおいを感じながらわたしはスライド扉の前に立つ。
「お、一番乗りは無口少女、紅葉ちゃんか」
美術室に入るなり、教壇に立っていた神埼先輩がそう言った。わたしは軽く会釈を返す。
ふと、いつもと違う空気を感じた。この教室独特のにおいをかき消すように甘く強い香りが、部屋全体を満たしていた。わたしはその香りを出している紫色の物を部屋にも入らず見つめた。
なんで、こんな時期にこんなものが?
「ああ、このラベンダー?」
教卓上にあるその花をつつきながら先輩は言った。
「学校の近所の商店街で目に付いてさ、時期じゃないのに珍しいと思って買ってきたのよ。それと美術室に花があってもいいんじゃないかなと思ってね。ほら、デッサンの題材にもなるじゃない?」
なるほど、確かにそうかもしれない。
感心したように頷いたわたしに向かってにこりと笑う先輩。頭の後ろでまとめられた黒髪が、まるで馬のそれのように揺れる。可愛いと言うより美しいと言う表現が似合う先輩が笑うと、より一層綺麗に見えた。
「放課後に行くとね、わたし達と同い年くらいのかわいい店員さんと、ふさふさの三毛猫ちゃんがお店番してるのよ。今度、行ってみる事をオススメするわ」
へえ、それは一度行って会ってみたいな。
今度はわたしも口元をゆるめ頷いた。
戸口を閉め、室内に入る。窓際の特等席にカバンを置くと、その席に腰を落ち着ける。さて、今日は何を描こうかな。
私は水彩画を専攻しているけれど、最近はデッサンに凝っている。あえて色をいれずに描くのもまた楽しいものがあるのだ。昨日までは練習にと、ビンと小さなサラダボウルを描いていたのだけれど、それも終ってしまった。出来はなかなかに良かったと自負している。
ただ、天狗になるのはよくないし、まだまだわたしなんて鶏にたとえたらひよこ同然だ。もしかしたら生まれてもいないかもしれない。
そう考えていると教壇に立ったままの先輩が唐突に言葉を出した。
「あら、この足音は……、百合子かな」
耳を澄ますと確かに聞こえる。パタパタと廊下を走る音は不規則で、足がもつれているような感じさえある。
やがて、物を壊したような音とともに百合子が姿を現した。
「ちょっと紅葉! あんた今日一緒に買い物に行くって……、あ、か、神埼先輩こんにちは……」
「あら百合子、部活サボってどこか行くつもりだったの?」
神埼先輩がまた笑う。しかしその笑顔は先ほどとは違った、何か恐ろしいものがある。
一方、百合子は乱れた髪を整えながら苦笑いをしている。向かい合ってものの十秒ちょっと、もう百合子は白旗を挙げている。
「い、嫌だなあ先輩、そんなことする分けないじゃないですか。ははは」
「そう?ならいいんだけど。それより今日はちょっとあなたたちに話したいことがあるの」
話とは何のことだろう。そう思っていると百合子が言葉に出して聞いた。しかし先輩は「琴羽が来てからね」と答え、わたしたちはしばらく待つこととなった。
出入り口に立っていた百合子がわたしに近づいてきて耳元で囁く。その目は若干睨み気味で、正直ちょっと怖い。
「ねえ紅葉。今日は買い物行くってあたし言ったよね?」
わたしは首を縦に振る。別に忘れていたわけではない。
「……じゃあ、何でここにいるのよ」
「『美術部員は放課後美術室に来るようにって』放送が」
神埼先輩を指差しながらわたしは答えた。
昼休みに先輩が私用で放送を入れていた。正直、そんなことをしてもいいのだろうかとも思ったけれど、お咎めもなさそうだったし、多分平気だったのだろう。
百合子は気の抜けた声を出した。
「……そんなものあった?」
こくり、わたしはまた首を振った。それぐらい、聞いておこうよ。
うなだれた百合子を横目に、もう一度出入り口の方を見る。すると、今度は扉が静かにスライドした。
「よし、やっと全員そろったわね」
「こんにちは」
後ろ手に扉を閉めながら軽く会釈をする。入ってきたのはもちろん琴羽だった。
「なんだか今日の美術室は空気が違うね。いい匂いがする」
「あら、琴羽も気がついた? ラベンダー、いい香りでしょ」
「ええ、とても。でも、今日は何のために集まったんですか?」
琴羽が先輩に質問する。
どうやら二人は花に対する知識があまり無いようだ。ラベンダーがこの時期にあるのも気にしていない様子でいる。
先輩が答える前に百合子が一言入れた。
「それについて、今から話すんだって。それで琴羽を待ってたの」
「あら、そうなのかい。それは、待たせてしまってすまなかったね」
まあ、立ち話もなんだから、と先輩に促され、各々が部屋の中心にある長机の前に移動し、腰を下ろす。百合子を中心に左側にわたし、右側に琴羽、正面の椅子に神崎先輩が座った。先輩の右手には画用紙が丸めて握られている。一体それはなんだろう?
さてと、と前置きを入れてから先輩が口を開く。
「まず、今日は何の日でしょう?」
「は?」
……いったい何の話だ? そう思いつつも、わたしは考えた。今日は十月の二十九日。ハロウィンにはまだ少し早い。とすると、誰かの誕生日だろうか。私の記憶では少なくともこの四人の誕生日には一致しなかった。
先ほど声を漏らした百合子は、すでに戦闘放棄状態。これは答えが出ないのではないかと思った矢先のこと、
「今日から、一年生が林間学校の開始日です」
「そのとおり。さすが琴羽、話が早いわ」
琴羽の答えに先輩が口元を緩める。そうか、道理で今日の学校はいつもよりも静かなはずだ。
「そうなの、一年生がいないことが大事なのよ」
「で、結局のところ話ってなんなんですか?」
もったいぶっているように話す先輩に苛立ちを感じ始めたのか、それともただ早く終わらせてショッピングに行きたいのか、百合子の口調からそんなことが感じ取れる。確か今日は、服を買いに行きたかったんだよな。ふとそんなことを思い出した。
「あら、ごめんね、お買い物に行きたかったのよね。それじゃあここからが本題ね。
今日あなたたち三人を呼んだのはね、この絵を見てほしかった……。というより、あなたたちとゲームをしたかったのよ」
「ゲーム?」
先輩の口からこんなことが飛び出すとは思いもよらなかった。
「そう、ゲーム」
手に持っていた画用紙を卓上に広げる。同じ青空を描いた二枚の水彩画。
「この絵にはとある仕掛けがしてあります。それを見破ってください。見破った人にはなんと、豪華商品をプレゼントしちゃいます!」
「豪華商品!」
その言葉に釣られたのは百合子だ。彼女は、豪華という言葉のほかにもブランド・高級品など、なんとも若者らしい言葉から、無料・割引といった言葉も大好きらしい。
「どう、やってみる?」
「やりますとも!」
「お、言い返事。琴羽と紅葉はどうする。やらない?」
先ほどの不機嫌の色はどこへやら、きらきらと光る目をした百合子を横目にわたしは卓上の青空を眺めていた。神崎先輩が凝らした仕掛けに興味がある。わたしはこくりと首を振った。ぱっと見た感じじゃあ、わからなそうだ。
「紅葉ちゃんがやるなら私も」と琴羽も参加することになった。
「よし、決まりね。それじゃあ期限は一年生が林間学校から帰ってくるまで、だから……明後日までね。それまでに謎を解いてね。あ、謎が解けたらその絵は捨ててもらってかまわないわよ。持って帰ってもいいし、燃やしても好きなようにしていいから」
「あの、なんで一年生が帰ってくるまでに答えなくちゃいけないんですか?」
「……だって、豪華商品を取り合う相手は少ないほうがいいでしょ?」
先輩はもう一度美しい笑みを見せた。
そして、答えのでないまま下校時刻となったのだった。