頭の痛い婚約者
思い返せば、余裕のない告白だった。
半ば成り行きで、彼女に想いを告げてから数ヶ月。今や婚約者という立場を手に入れた私だったが、以前とは違う悩みの種が出来ていた。
「アレク! 散歩に行こう!!」
まどろみかけた夜半、頭の上から聞こえてきたそんな声で目が覚めた。
「……飛那姫?」
夢かと疑いながら眠い目を開けたら、ベッドの脇にインターセプターを胸に抱え、楽しそうに笑う彼女が立っていた。王族とは思えないいつもの軽装で。
バルコニーへ続く窓が開いている。インターセプターが開けたのに違いないだろうが、それ以前にあそこから訪ねてきたということだ。
つい10日ほど前に東で言うところの結納式を終え、その足でこちらにも挨拶をとやって来た飛那姫は、プロントウィーグル滞在3日目になる。
6日目には帰国する予定だが、どうやら取り繕っておとなしくしていることで、大分元気が有り余ってきたらしい。
「今日はさ、満月で明るいんだよ。雲もないし、散歩日和だ」
「散歩……飛那姫、今が何時だか分かって言っているのか?」
無邪気に告げられた言葉に、上半身を起こしながら平静を装って聞き返す。
「だって、この時間なら誰に気兼ねすることもないじゃんか。二人と一匹でどっか散歩行こう、散歩。何なら異形狩りでもいいから」
冗談や戯れから出たセリフでないということは、嫌と言うほど分かった。正時に短針が近付いた柱時計を見上げて、私は頭を抱えたくなる。
こんな時間にここへ来ると言うことが、どういうことかは全く理解していないらしい。
「……散歩、か……」
それはそれで楽しそうだと思えたが……いかんせん、この状況は手放しでは喜べない。彼女はよもや、私の性別を忘れているのではあるまいか。
だがとっておきのいたずらを思いついたような、得意そうな笑顔を見ると、何かを説明する気も失せた。
そう、この無邪気な笑みは曲者なのだ。
何となく、飛那姫は男女間の親しい交際について知識も免疫もなさそうだとは思っていた。しかしここまで思考が子供だとは、正直予想していなかった。
この際、お付きの侍女でも誰でもいいから、異性との正しい付き合い方について彼女にちゃんとした教育を施してやって欲しいと、切に願う。
「……3分待ってくれ。着替えるよ」
「着替えなんか何でもいいから早く。時間がもったいない」
突然叩き起こされたと思ったら、真夜中の散歩に駆り出されるのだ。3分くらい待ってくれてもバチは当たらないと思うのだが。
そう言うと、彼女は口を尖らせてバルコニーへ出て行った。
外は確かに雲一つ無く、月の明るい綺麗な夜だった。
インターセプターの背に乗って「異形の出そうなところがいい」という、ムードもなにも度外視したデートコースを選択すると、彼女は城の外へ向かうよう言った。
そもそもこれはデートではなく、散歩だったか。いや、帯剣している以上、散歩以上に狩りがメインなのか……?
ふと、以前に彼女が記憶を無くした際に、こうしてインターセプターの背に二人で乗ったことを思い出した。あの時の余裕のなさを振り返り、一人苦笑する。
まだ自分の気持ちがはっきりと分からず、狼狽するばかりだった己を思うと滑稽だった。
目の前にある、艶のある薄茶の髪から甘い香りが漂ってくる。ハーネスを握る私の前に座り込んでいる飛那姫は、インターセプターの首の毛を一束掴んでいるだけで、見事なバランス感覚を保っていた。
あの時のようにこちらに身を預ける必要など、確かにないのだろうが……何となく、口惜しい。
しばらく星空の中を飛んで、滝を見つけたところで飛那姫が「降りよう」と言い出した。
大国からほど近い、山の麓近くにある大きな滝だ。時期的に水量も多いことから、近付くと轟々と大きな水音を立てて流れていた。
「ひゃー、気持ちいー!」
水しぶきの散る滝壺の側に陣取って、飛那姫はうれしそうに両手を伸ばした。
「滝の側って涼しくて本当に気持ちいい。何でなんだろうな?」
「確かに、酸素が多く感じられる気がして気持ちが良いな」
「あっ、あれ魚じゃないか? 魚いるぞ」
「魚?」
「ほら、あそこあそこ。絶対魚影だってあれ」
飛那姫の指さす浅瀬には、確かに大きい魚の影が見えた。
透き通っていて、美しい水だ。
「……泳ぎたいなー」
浅瀬の方に駆けて行くなり、ぽつりと呟いた言葉に、ぎょっとした。
「いや、さすがにそれはやめた方が」
「アレク泳げる?」
「まぁ、一応は……」
「こういう水見ると、泳ぎたくなるだろ?」
「……いや」
そうだな、と言うわけにもいかず、私は渋面を作った。
突飛な言動に今更驚く気はない。予想外な彼女の行動は好ましくも思える。
だが、泳ぐ支度など何もない今、薄手のシャツにショートパンツのその格好で水に飛び込むなど本気でやめて欲しい。異形狩りだけで十分だ。
「さすがにこんな時間に泳ぐことはすすめられない。風邪を引くからやめてくれ」
「そうか? 別に平気なんだけど……」
あきらめきれないのか、不満げに彼女は呟いた。
その時、ガサガサッと、後ろの茂みから何かが飛び出してくる気配がした。
「あっ、獲物発見」
低級異形の、ラフビッツだった。素早い動きで、赤く光る小さな目が私達の周りを取り囲み始める。7、8……10体はいるか。
地面を蹴って一斉に襲いかかってきたラフビッツに、抜剣したのは同時。
闇夜に弧を描いた二つの刃に触れると、ネズミによく似た異形は灰色の煙になって消えていった。
難を逃れた残りの数匹は、それを見て一目散に森の中へと逃げ返っていく。
「物足りない……もっと強い敵が出てくればいいのに……」
カシャン、と軽い音を立てて剣を鞘にしまうと、飛那姫はさも不満そうに森の奥を見た。私もラフビッツの逃げていった先を目で追う。
確かに彼女にとっては物足りない敵だろうが……手応えを、というのならもう竜でも連れてくるしかないんじゃないだろうか。
そんな風に考えたところで、突然背後から大きな水音が聞こえてきた。
新たな敵か? 私は身構えて振り返った。
だが、そうではなかった。視線の先では飛那姫が1人、浅瀬に尻もちをついていた。思わず遠い目になって「嘘だろう……」と呟かずにはいられない。
「飛那姫、大丈夫か? 一体何をしてるんだ……?」
「ははは、ここ穴になってるのに暗くて気付かなかった。足はまって落ちた」
気にせず笑っている彼女に手を差し出すと、そこに乗せられた手を掴んで水の中から引っ張り上げる。
派手に水をかぶったらしい彼女の体から、ぽたぽたと水がしたたり落ちた。
「げげ……泳いでもいないのに、損した気分だ。もう飛び込んでいい?」
「本気でやめてくれ」
眉間を抑えてそれだけ言うと、私は自分が着ていた薄いベストを脱いだ。視線をそらし気味に、肩からかけてやる。
「別に寒くないよ?」
「そういう問題じゃない」
結局泳いだも同然になってしまった。色々心臓に悪いし、もうこれを口実に早々に帰った方が良い。そう判断し、私は即座に提案した。
「飛那姫、帰ろう。そのままでは風邪を引く」
「えー?! 大丈夫だよ! 夏場なんだし、こんなのなんともないって!」
「ダメだ。そんなにここに来たいのなら、また昼間に来ればいい」
「そうしたら、もれなく侍女も侍従も護衛もついてくるじゃんか!」
「仕方ないだろう、着替えが必要なら、侍女がいないと困るじゃないか。それに、ただ泳ぎたいのなら城のプールもあるのだから……」
「だって! せっかく……アレクと、二人だけで出てこれたのに……」
後半がどんどん小さくなって滝の音にかき消されたが、抗議の内容は確かに聞こえた。
思えば、この最近は一緒には過ごしていたものの、二人きりの時間がほとんどなかったように思える。
もしかして、この散歩は……ストレス発散のためじゃなくて、私と出かけたかっただけなのか?
そんな考えにたどり着いてしまったら、じわりとうれしくなった。
「飛那姫……」
その先を続ける前に、彼女は「へくしゅっ」とひとつクシャミをした。
思わず、伸ばしかけていた手を引っ込める。
夏の今時期でも日の光もないこの時間は涼しい。濡れた体のままでは本当に風邪をひいてしまいそうだった。
(やはり早々に帰った方が良さそうだ)
私は有無を言わさず、座り込んだインターセプターの背中に飛那姫を押し上げた。
「大丈夫だって言ってるのに……アレクの過保護馬鹿!」
インターセプターが立ち上がったことで、頭上から悪態をつかれる形になったが、気になどしていられない。私自身も彼女の後ろに飛び乗ると、ハーネスを手に取った。
「インターセプター、帰るぞ。急ぎ目で頼む」
頷いたインターセプターが地面を蹴って、勢いよく上空に出たところで、飛那姫がぶるっと身震いするのが分かった。
言わないことはない。夏とは言え、夜風に当たれば濡れた体は寒いに決まっている。
「ほら、やはり寒いのだろう?」
「風が吹かなければ寒くない!」
「飛んで帰るのだから、無風という訳にはいかないだろう……」
悔しそうに振り返った飛那姫だったが、何かに思い当たったような表情の後、「よいしょ」と言って横向きに座り直した。
こてん、と少し濡れた頭が私の肩に当たってくる。両側から背中に腕が回されて、ぎゅっとしがみつかれた。
「へへっ、あったかい」
うれしそうに笑う顔を見て、思わず無言になってしまう。
これは多分、彼女が家族や友人に対してするのと同様の態度と思って間違いないだろう。剣を握っている姿からは想像のつかない、警戒心をどこかに置き忘れてきてしまったような姿を見て思う。
信頼されていると思えば、これを違う意図で抱きしめ返すには罪悪感があった。
彼女にとって、どこまでが婚約者同士のスキンシップとして許されるのか、判断がつかないところも悩みのタネだ。
私はひとまず平常心を保ちつつ、ハーネスを握る手にだけ集中することにした。鼓動を速める柔らかな感触は、見ないふりでやり過ごすことにする。
「アレク」
「何だい?」
「泳がないでもいいからさ、明日の夜、また二人でこんな風に出かけないか?」
「お誘いは光栄なんだが……」
そもそも、この真夜中のお忍び自体に何も疚しいことがなかったとしても、人に知られれば外聞が悪いのは彼女の方だ。それをどう伝えたら良いものか迷って、私はそこで言葉を切った。
そんな私を見て断られると思ったのか、彼女は表情を曇らせた。
「真夜中の散歩、そんなに迷惑だったか……?」
見上げてくる傷ついた目に、めまいを覚えた。
何故この状況でそんな方向に考えがいくのか……そもそも、私が説明する内容ではない気がする。そう思いながらも、重たい口を開いた。
「そうじゃない。君は二人きりというこの状況を、もう少しだけでも、よく考えた方がいいと言っているんだ」
「はい?」
「君は、私と家族や友人のように過ごしたいのかもしれないが……私の方はそれだけでもないし、周りもそうは見ないから、言動には配慮して欲しいんだ」
「……言ってる意味が分からないんだけど」
……分からないのか。
遠回しに伝えた言葉で、そういうものかと解釈して欲しい……そう望むこと自体が無駄なのか?
誰か彼女にも分かるように説明してやってくれと思うも、この場には私と飛那姫の2人しかいない。その事実に、覚悟を決めねばいけない気分になる。
「はっきり言わねば分からないと、そういうことでいいか?」
「ちゃんと言ってくれないと、分からないのは当たり前だろ?」
そうか、分かった。
私は自分の中に残っていた迷いを、ため息とともに外に押し出した。手に握っていたハーネスを離し、剣士とは思えない色白の華奢な肩に手を回す。
反対の手で頬から長い髪を避けたら、小さく肩が揺れた。
「私はこうして君に触れたいと思っているのに、二人きりの機会をそんなに与えてしまって本当に良いのか? と言っているんだが」
「……えっ?」
何故そこで目を丸くする……
本気で理解していない表情に一瞬躊躇したが、指先をあごに添えて上向かせた。
抵抗がないことを確かめてから、そっと唇を重ねる。
「……」
顔が離れた後、相当にうろたえた薄茶の瞳が見上げてきた。
「もう少し、警戒心が必要なのじゃないか?」
そう告げたところで、ようやく事態が飲み込めたらしい。
白い頬がみるみる薄紅色に染まって、目が潤んでくるのが分かった。
小動物を威嚇している気分になって、いたたまれなくなる。
先ほどはニコニコしながら人にしがみついていたと言うのに、私が引き寄せた体は完全に固まってしまっていた。
泳いだような目で視線をそらすと、飛那姫は言った。
「や、や、やっぱり、昼間に出てこよう……」
「……理解してくれたようで何よりだよ」
下を向いてしまった彼女からはっきりとした拒絶が伝わってこなかったのには、ひとまず安堵していいと思えた。
守らねばならない対象を、傷つけるようなことがあってはならない。
そう気遣う私の心中など、飛那姫には欠片も理解されないだろうが。
今はそれでもいいと、あきらめにも似た気持ちで思った。
少しの気まずさと、うれしさと、色んな感情が入り交じった中、私達は眼前に近付いてきた城へと降りて行った。
雲一つ無い空に明るい月と満天の星が輝く、美しい夜だった。
『没落の王女』番外編。結納式その後のお話でした。
内容は恋愛ものですが、本編に合わせてハイファンタジージャンルを選択しています。
主人公カップルの仲睦まじいところを書きたかったはずなのに、主人公が残念過ぎて気付けばアレクが最初から最後まで頭を抱えているだけの話に……おかしい、こんなはずじゃ。
本編とややカラ―が異なった回になりましたが、賛否両論はそっと胸に納めておいてください。