第2話 出世している場合じゃない
タクシーが到着したのは、やはり、武田が勤務するアムンゼン製薬の本社ビルの前だった。
タクシーのドアが開き、その先を見ると、武田の奴がそのビルの前に立っていた。武田は、やはり、俺を見て驚きの声を上げた。
「なんや長谷川、なんでお前が益美ちゃんと一緒におるねん!」
俺は、驚いた武田を見て少し愉快になった。
「それは後で説明するよ。それよりも、武田、俺に嘘をついたな! ゴルフ、この人とまわっていたんじゃないかよ」
「なんや、ばれたんか。まっ、その辺のことは、後で話そうや。今は、ともかく、屋上に上がろうぜ」
3人はビルの裏口から入ったところにある従業員専用エレベーターで屋上に上がった。
日曜日なので、そのビルには人がほとんどいなかった。少し変わった屋上で、芝生が敷いてあり、立派なプレハブハウスが建っている。キャンプ用のプラスチック椅子が庭に10脚ほど置いてあり、大きなバーベキューコンロが3台もある。
もちろん、俺は、その屋上について武田に尋ねた。
「何やねん、この屋上? 変わっとるなあ。何に使うねん?」
「社内のイベントとか合宿研修とかに使うねん。俺な、このビルの守衛さんと親しいから、東京出張のときは、時々、ここのプレハブハウスに泊まって宿泊費を浮かせているねん」
武田という男は、なかなかの「しまり屋」だ。このような節約をして、浮いた分でしっかりと遊ぶというわけだ。
それはともかく、俺は、益美から聞いていた用件を持ち出した。
「武田はここから議事堂の前のデモを見ていたんやな。ということは、金曜日の夜からか?」
「なんや、もう聞いたんか、その通りや。ところがテレビとかでデモのことを全然やらへんやろ。ほんで、お前からの昨日の電話やろ、なんや気になってきてな」
「そうやろ、いろいろと奇妙やろ」
「うん。あっ、双眼鏡を持ってくるわ。ここ、議事堂からは、だいぶ、離れているからな」
武田はその屋上にポンと建てられた戸建ての民家ほどの大きさの平屋のプレハブハウスに入って行き、双眼鏡を3つ持ってきた。その内の2つはまだ箱に入っている。
俺は、双眼鏡などというその場に似つかわしくないものが3つもあることを意外に思い武田に聞いた。
「なんで、こんなもんが3つもあるねん?」
「実際には、もう2つあるで。今日、有楽町のデパートで2つ買ってきたんや。お前は知らんやろうけど、最近、俺な、野鳥を見るのにハマっていてな、そのうちに、双眼鏡にも凝るようになって、買い集めるようになったんや」
「意外やなあ。お前、そういう趣味から程遠い奴やったのに」
「そら、最近始めた趣味やからな、長谷川が知っているわけないわ、謂わば、そういうお年頃かな、まあええやん。ほな、早速、高みの見物と行こか。『ぬくいコーヒー』も持ってきたで、そこの自動販売機で買ってん、おごりやで」
「ぬくいコーヒー」というのは早い話がホットコーヒーのことだ。大阪には、喫茶店でホットコーヒーを注文するときに「ぬくいコーヒー」と言う人もいる。ちなみに、アイスコーヒーのことはレイコー(冷コー)と言うのだが、それは中年以上の男性に限った話だ。
俺たち三人は国会議事堂前のデモの観察を始めた。そして、1時間ほどして、日が暮れると、
「暗くなったけど、何とか見えるな、他のビルがいろいろと邪魔やけどな」
俺が誰に言うでもなくボソッと呟くと、益美がそれに反応した。
「ねえ、機動隊の人たち、なんかライフルみたいなものを持っていない?」
武田もそのことを気にして言った。
「うん、ほんまやね。けど、ライフルやなくて自動小銃かもな。いずれにせよ、あり得へんものを手にしていやがるな。まだ縦にして持っているけど、威嚇にしては、やり過ぎやな」
俺もそのことを気にしながら見ていたのだが、俺はすぐに異変を目にすることになった。
「おい、持ちかえて水平に構えたぞ、ヤバないか?」
益美も不安げに様子を見守っていた。
「何か揉めているみたいね」
すると、次の瞬間、益美が叫び声をあげた。
「やだっ!」
武田も驚きの声を上げたが、俺はあまりの出来事に沈黙してしまった。
「あかんやろ!」
「・・・・・・」
俺、益美、そして武田の3人は18階建てのビルの屋上から双眼鏡で国会議事堂の前のデモを見守っていたのだが、その出来事を目撃して、1分ほど、恐怖で口がきけない状態になった。
何が起きたのか?
機動隊がデモに参加する一般市民に向けて自動小銃のような武器で発砲したのだった。
今、双眼鏡で見る先では数十人の市民が倒れている。息があるのか無いのか、ここからではわからない。
ここから現場までは直線で1キロほどの距離なので、双眼鏡を使えば、見えることは見えるのだが、細部までは分からない。
俺たち3人には戦慄が走っている。3人とも唇が微妙にワナワナと震えている。
3人の間の沈黙を最初に破ったのは武田だった。
「木下の仕業やな。あいつ、無茶しよる! でも、あいつなら、やりかねへんな」
俺も武田と同じことを思っていた。
「俺もそう思う。ネットのNGワードどころではなくなってきたな」
木下とは、もちろん、木下強という名前の内閣総理大臣のことだ。
彼の所属政党は独立党というのだが、その独立党は10年前に誕生した新党だ。木下総理はその政党の創立者であり、現在も党首を務めている。
木下総理は、公認会計士から経営コンサルタント会社の社長を経て10年前に衆議院議員になった人物だ。関西では情報番組のコメンテーターやバラエティー番組の出演者として非常に高い知名度を誇っていた人物だ。
彼の高い知名度は高い人気を伴ったもので、彼が初当選を果たした10年前の衆院議員選挙では自身だけでなく50人の新人議員を誕生させた。
その彼の党の党是は「新憲法を制定して真の独立を実現する」というものだ。
木下総理は、演説と討論が非常に巧みな人物だ。とにかく口がうまいのだ。
彼の発する言葉は常に短い。文字の数で言えばカナと漢字を合わせて20文字以内のセンテンスがほとんどだ。
発言が短いと言えば、小泉元総理のワン・フレーズ・ポリティクスというのがあったが、木下総理のそれはワン・ショートセンテンス・ポリティクスと言えるだろう。
小泉元総理の発言には中身が何もなかった。だが、それよりも長い木下総理の発言には、ある程度の意味が込められてしまう。つまり、彼の発言は洗脳じみた威力を発揮してしまうのだ。今の木下はカリスマじみた存在になっている。
かくして、彼の党、独立党は、その結党以来、躍進に躍進を重ね、保守系の小政党を飲み込みながら急成長し、この7月の衆参ダブル選挙により、衆院が480議席中の実に400議席、参院が242議席中の180議席を占めるに至ってしまった。
つまり、衆参両院で議席数の3分の2を優に上回り、思い立てば何でもできる一党独裁的な状態になってしまっている。
その間、かつての与党、自民党は衰退に衰退を重ねて、今では衆院が40議席、参院が22議席にとどまってしまっている。
武田が見た光景のまんまの不吉な観測を述べた。
「木下総理の奴、こうなったら、これから何でもしてくるな」
俺もまったく同感だった。
「やはり、あいつ、牙をむいたな。思ったよりも早かったな。危険とは思っとったけど」
すると、ふいに、武田が屋上に敷かれた芝生の上に腹ばいになった。
「ほれ、お前らも、こうせえ! こっちから見えるんやから、あっちからも見えるで」
これを聞いた益美は、武田に返事をしながら、早速その動作に入った。
「あっ、そうか。3人で双眼鏡持って立っていたら怪しまれてしまうわね」
だから、俺も腹ばいになって、その場に伏せ、また、双眼鏡を覗き込んだ。
既に俺と同じ姿勢でいる益美は別のことに気付いた。
「パトライトをつけて、サイレンを鳴らさずに走っている小さめのバスみたいな車が現場に駆けつけているわね。たくさん走って行くわよ、あれ、何だろう?」
俺の実家は大阪市の都島区にある大阪拘置所から近いので、俺にはそのマイクロバスの正体がすぐに分かった。
「あれは護送車やね。拘置所から刑務所に受刑者を送り込むときなんかに使っているやつやね。マイクロバスの車窓の外に金網が見えるやろ」
「ああ、なるほど、確かに金網が見えるわね」
共通の恐怖のせいで、興奮して、俺と益美の間の会話もすっかりと「タメ口」になってしまっている。
双眼鏡を覗き込みながら引き続き状況を見守っていた武田が口を開いた。
「デモに参加した市民たちが機動隊にすっかりと包囲されて中央にまとめられているな。これでは誰も逆らえないね」
もちろん、俺も益美も双眼鏡の先に見える旋律の現場から目が離せない。
俺は取り敢えず武田が言ったことに反応した。
「そりゃあ、そうやろ。自動小銃みたいなので撃たれたのやからな」
すると、益美が「タメ口」でも聞きなれた方言を発した。
「あの人ら、もう、なんにもできへんな」
「えっ、大阪弁!?」
益美の大阪弁を聞いた俺と武田は、思わず二人同時に同じことを言ってしまった。
そして、武田が当然のことを益美に聞いた。
「ママって、大阪の人やったんか?」
「そうや、今も実家があるねん」
「俺、そんなん、初めて聞いたで」
「そうやったんや、武田さんには言ったことなかったかな?」
「なかったよ」
俺も益美の大阪弁に関心を持った。
「大阪のどこ?」
「大阪市内の千林」
「あはは、ベタ~っと、大阪やな」
「ほっとけ!」
「ダイエーの1号店が誕生した街やな」
「それ、あんまり、嬉しいことないわ。高島屋の1号店とかやったら嬉しいけどな」
少し寛いだ話をし出した俺たち三人だったが、武田が緊張した声で言った。
「おい、逮捕が始まったぞ」
もちろん、俺もそのことに気付いている。
「さっきの護送車に続々と乗せられているな」
益美も同じ光景を見て心配げだ。
「えらい数の人が逮捕されていくわね」
それから、30分ほどが経った。
俺たちは状況の推移を見守っていたのだが、益美があることを指摘した。
「なんや、おかしいな。若そうな男の人ばかりが逮捕されているよね」
俺もそのことには気付いている。
「ほんまやな、若い男ばかりが逮捕されているな。けど、もうそろそろ、それも終わりそうやで」
それから、更に10分ほどが過ぎた。
俺たち三人は目撃したことの感想を述べ合った。
「結局、女子供と中高年のオッサンは残されたな」
「逮捕されなかった人たちは無罪放免みたいやね、帰り始めたわね」
「でも、変やね、撃たれて倒れた人らは、ほったらかしやで!」
「救急車が1台も向かわへんね」
「ということは、消防署もグルやな。そらそうやな、治療するつもりやったら最初から撃たへんもんな」
「何人かが倒れた人を介抱していたけど、その人らも、あきらめて帰らはるわ」
「あの人ら死んだのかな?」
「わからへん。けど、あれでは、息があっても死んでまうわ」
「ウチらで何とかしてあげられへんのかなあ?」
「無理やで。政府と警察と消防署がグルやねんから。間違いなく何にもできへん。見殺しにするしかあらへんやろ」
「残念やけど、武田の言うとおりやな。それにしても酷いな」
「女子供や中高年のオッサンとは言え、なんで解放したんやろ? あの人ら、直接の目撃者やろ、放っておいたら口封じが出来へんやん」
「あれは、わざとや、恐怖体験を語らせるためや。『政府は怖いぞ!』という一種の脅しやな」
「ところで、益美ママは、横浜でオタクの秀才たちと集まると言っていたよな?」
「うん、次の日曜日に横浜でね」
「俺も参加させてもらうわ、ええな?」
「武田さんなら、もちろんOKよ! いろんな人がいた方が力になるし、武田さんは信用できるからね」
武田は目の当たりにしたような「ややこしいこと」に首を突っ込むと言い出したわけだが、それは俺にとって意外そのものだった。だから、俺は、武田の思惑が気になって聞いた。
「意外やな、武田は、製薬会社のプロパーの営業を手堅くして、取締役になって、それから定年ではなく勇退をすると言っていたやろ?」
「意外やないやろ! 事態が明らかに変化したんや。俺ら、国民は、今、政府に攻撃されたんやで。反撃して勝たんと、俺らも近い将来にやられてしまうやろ。俺の2人の息子も守ってやれへんがな。出世している場合やない!」
「そやな、お前の言う通りや。見直したわ。お前も集会に来てええぞ」
益美は、水商売を生業とするわりには、正義感と市民感覚がやけに強い女性のようだ。
「ほんなら、話は決まりやね。でも、こうも状況が切迫していると、次の日曜日なんて、なんか暢気なことを言うてるみたいやね。」
武田にとって出世が一番の関心事だと思っていたのだが、俺はそんな武田の意外な社会性を見たのだった。
そのような意外性を見せた武田は誰に向かってかは知らないが檄を飛ばすのだった。
「いや、次の日曜日でええ。相手は政府や、ほやから、とことん強い。俺らに何ができるか、わからんけど、ゆったり、どっしりと構えんと、やられてしまうで!」
そして、その日曜日、すなわち、2018年の12月16日を迎えた。
=続く=