05 マンティコア
――キャアアアァーーッ!
森の静寂を甲高い悲鳴が引き裂く。
この感じだと、悲鳴の発生源はそんなに遠くはないようだ。
「ッ、な、なにごと!? 今のはもしかして、……人の悲鳴!?」
わたしは反射的に悲鳴が聞こえて来た方向に駆け出した。
けれどはたと思い出してうしろを振り返る。
「マリー! ベル! いまの人の悲鳴だよッ! 様子を見に行かなきゃ!」
わたしは今度こそ背中を振り返らずに、真っ直ぐに駆け出した。
わたしがその場に駆け付けたとき――
「…………う、……ぅあ」
そこはもう既に視界一面の『赤』で染まっていた。
大地を満たす血の赤――
木々の枝を飾る臓物、散乱する肉片の赤――
視界を覆い尽くさんばかりに燃え盛る炎の赤――
そこかしこから、苦痛に塗れた呻き声が聞こえる。
もはや助かる見込みのない深傷を負った戦士の、本意ない怨嗟の声。
愛する者を胸に抱きしめ、庇うように覆い被さって咽び泣く瀕死の男。
脳漿を撒き散らし、物言わぬ骸と化した女。
そこは宛ら地獄絵図であった。
「…………う、ぅっぷ……」
せり上がってくる吐き気を、なんとか堪える。
その地獄の真っ只中に、薄ら笑いを浮かべる奇妙な生き物がいた。
禿げ上がったヒトの頭に、獅子のたてがみと身体。
尻尾は目を凝らしてみれば、サソリの尾のように節くれ立っているのが分かる。
……なんだこの異様な生物は。
まるで西洋のファンタジーから飛び出してきたキメラのようじゃないか!
いやキメラでもこんな醜悪な風体をしてはいまい。
あんな風に、まるで下卑たヒトのようにいやらしく嗤うなんて!
こいつがこの地獄を作り出したのか――
わたしの本能が全力で警鐘を鳴らす。
はやく逃げろと。
脇目もふらずこの場から逃げ出せと。
「あ……に、にげなきゃ……」
声を漏らし、本能に従って逃げ出そうとしたそのとき――
「……う、うぁ」
幼い呻き声がわたしの耳朶を打った。
(い、いまの声は……)
わたしは声のした方向を振り返り、注意深く観察する。
(――いた!)
咽び泣く瀕死の男の胸に包み込まれ、覆い隠された子供がいる。
まだ怪物には気付かれていないようだ。
けれども気付かれたが最後、あの子供の命はないだろう。
(ど、どうしよう……どうすればッ!?)
子供の隠れている位置が悪い。
わたしからは離れているけれど怪物からはひとっ飛びの位置なのだ。
(お、おとり……わたしが、おと、囮にならなきゃ)
わたしは逡巡する自身の臆病さを胸に押し込め、キメラに向かって叫ぶ。
「そ、そこのキメラ! わたしが相手をしてあげるから、ここここっちに来なさい!」
キメラがわたしに振り向き、ひと時その薄ら笑いを消した。
「……ぢガウ……ま、マん゛ディゴア」
げ、喋りやがったわ、この化け物。
でもよし!
狙い通りだ。
わたしのほうに食いついた!
つぎは付かず離れずに逃げて、コイツをあの子供から引き離さないと。
「マ=マン゛ディゴアね! い、いいから早く掛かって、ききき来なさい!」
化け物を前にしてわたしの脚がガクガク震える。
そんな臆病なわたしに向かってマンティコアが吠える。
「ヂがう……マン゛でィゴア!」
「そ、そんなことはどうでもいいのよ! さ、さっさと掛かって来なさいよ、アンタ!」
挑発するわたしにマンティコアがいやらしい顔を向けた。
怪物がニタニタと嗤う。
(……ど、どうして、掛かってこないの?)
マンティコアは緩慢な動作であたりを見回し、ある一点でその視線を止めた。
「……ア゛れかぁ」
マンティコアが、その粘着質な嗤いを深くする。
なんてこと!
化け物が子供に気づいてしまった!
マンティコアと怯えた子供の視線が交錯する。
「グルゥグアアァーーッ!!」
マンティコアが歓喜の雄叫びを上げながら子供に飛び掛かった。
子供は恐怖に顔を引き攣らせ瞳孔を広く。
――ダメだ。
そんな真似は許さない。
わたしの目の前で子供を殺させたりしない。
絶対に、……絶対にあの子供を助けるんだッ!!
わたしは満身の力を脚一点に集中させ、爆発するかのように大地を蹴り駆け出した。
いびつな歓喜に震えるマンティコアの爪が、怯える子供に迫る。
――――わたしは駆ける。
化け物の背はまだ遠く。
――――わたしは駆ける。
もうあの子供を助ける事しか考えられない。
(――ッ、このままじゃ、間に合わないッ!)
渾身の力を込めて地を駆ける。
(だめよだめよだめよ、だめッ!)
祈りながら必死で走る。
(お願いッ! 間に合って!!)
そのときわたしのなかで何かがはじけた。
胸がカッと熱くなり鼓動が早鐘を打つ。
この胸の熱さを、わたしは知っている――
これは哀しくもどこか懐かしい熱さだ。
胸が締めつけられる熱さだ。
途端に周囲の風景がコマ送りのようにゆっくりと流れ出した。
大気の粘度が高まる。
(……え?)
絡みつくように流れるその景色の中、動くものはわたしだけ。
マンティコアの素早い跳躍ですら、スローモーションに感じられる。
(い、いけるッ! これなら、間に合うッ!)
わたしは疾風のように駆け抜ける。
牙を剥き、いままさに幼き子供に襲い掛からんとする凶獣に、うしろから追い付き、追い抜く。
「ッ、てぃいやあああッ!!」
マンティコアの顔面を全力で殴りとばした。
「グギャッ!?」
化け物が声を上げてすっ飛んでいく。
わたしは派手に転倒しながらも体勢を立て直し、子供に告げる。
「だ、大丈夫よ! そこに隠れてなさい! こんな化け物ッ、お姉ちゃんがやっつけてやるんだから!」
「……あ、……あぅ」
子供が呻き声を漏らす。
(……とはいったものの、こんな化け物にわたしが勝てるわけがない)
どうにかして逃げる算段を考えないといけない。
わたしは必死に頭を働かせながら子供を背に庇う。
まだ死の恐怖から、解放されてはいないのだろう。
子供は震えながらも、僅かな希望に縋るようにわたしを見上げる。
そしてわたしは、その子供を間近に見て、目を見開いた。
「……え!? ちょ、ちょっと、それはッ!?」
わたしを見上げるその子供の頭部。
そこには怯えて伏せられてはいるものの、ヒョコヒョコッと可愛らしく動く猫の耳が生えていたのだ。
「え!? な、なに? ネコミミ!? ど、どういうこと!?」
わたしはいまがどんな状況かも忘れて、放心したように子供を見つめる。
その頭にヒョコッと生えた獣の耳をガン見する。
猫の耳だ。
……ねこの耳だ。
…………ねこのみみだ。
………………ネコノミミダ。
栗色の被毛、――もとい髪の毛からなんとも可愛いらしいお耳がヒョコッと生えている。
カタチの整ったとってもよい耳だ。
なんという愛らしさなんだろう。
猫ぐるいの本能がうずく。
「…………う、ぅあ……」
子供が怯える。
わたしは取り敢えずその呻き声をスルーして、頭部に生えた猫耳を撫で回すように見つめてから、名残惜しくも視線を耳から外す。
怯える子供の様子を窺う。
……少女だ。
耳だけではない。
その小振りなお尻からは、フサっと豊かな毛を生やした尻尾まで生えているでは無いか!
(これは――短毛種の猫ちゃんだわッ)
わたしの口から誰知らず涎が垂れる。
ツゥーッと垂れる。
少女がそんなわたしの口元を見上げた。
その僅かに希望を抱いた瞳が、再び絶望の色に染め上げられていく。
――――ハッ!?
何をしているんだ、わたしは。
「ちちち、違うよ! そんなんじゃ無いよ!?」
わたしは慌てて弁解する。
「わわ、わたしはあなたを、助けに来たんだよ!?」
少女はそんな弁明をまるで信用していない。
涙に濡れたその瞳をますます諦めの色に染める。
「グゥオオオオォォーーッ!!」
少女に怯えられワタワタするわたしに向かって、怪物の咆哮が叩き付けられた。
「――ッ!? 煩い化け物ね! いまいいとこなのよッ!!」
その雄叫びに弛んだ意識が引き戻される。
わたしは即座に雄叫びの発せられた側に向かい、身構えた。
(あ、そうだ! 鑑定!)
思いついたわたしは目の前の化け物を見つめながら念じる。
(……鑑定、鑑定、鑑定)
種族名:人面獅子
レベル:34
体力:444/493 魔力:688/780
物攻:327 物防:311 魔攻:600 魔防:316
敏捷:406 技術:355
スキル:鉤爪Lv3 噛みつきLv1 回避Lv2
固有スキル:魔力爆発
途端にアタマに流れ込む情報……これがこの化け物のステータスか。
(たしかわたしのステータスは……)
――念じる。
固有名:ねこ
種族名:猫神
レベル:23
体力:799/828 魔力:92/92
物攻:482 物防:404 魔攻:18 魔防:96
敏捷:468 技術:32
スキル:なし
固有スキル:鑑定 魔力視 加速
――やれる。
やってやれないことはない。
このステータスがどんなものかはまだ理解しきれてない。
でも数字のうえではきっと戦えないことはないレベルだ。
「……ゴロ、ズ」
マンティコアはその歪な獅子の四肢をひろげ、頭を低くする。
今にも飛び掛かってきそうな姿勢でわたしを強く睨め付ける。
(ッ、くるかッ!?)
…………数拍の時が過ぎる。
刹那というには長すぎる時間だ。
マンティコアはしかし、わたしに飛び掛かってはこなかった。
(なぜ飛び掛かってこないの?)
わたしが不審に思ったその瞬間、わたしは目の前の大気が揺らぐのを感じた。
(――ッ!? ヤバイ、ヤバイ、ヤバイッ!!)
本能に突き動かされるように猫耳の少女を掻き抱きその場を飛び退く。
直後、わたしの元いたその場所が大爆発をひき起こした。
ドガアアンと鼓膜を痺れさせるような破砕音が轟き、大地が震える。
「な、なによ、今の爆発はッ!? アンタがやったのッ!?」
マンティコアが残念そうに顔を歪める。
「グルゥウー……ゴろズ」
やはりどう考えても今の爆発はこの化け物が引き起こしたものだろう。
ステータス情報にあった『魔力爆発』というやつだろうか。
いったい何がどうなってるのかさっぱりわからない。
こんなのはまるで、まるで魔法じゃないか!
わたしは抱き抱えた少女を降ろした。
その焦燥しきった顔に問いかける。
「……走れる?」
少女は応えない。
わたしは辛抱強く、猫耳の少女に語りかける。
「いい? いまからわたしは、あの化け物に突撃するわ。あなたはその隙に逃げるのよ。死にたくないなら走りなさい!」
強く言い聞かせる。
するとその猫耳の少女は微かな戸惑いを見せながらも確かに頷いてみせた。
わたしも少女に頷き返す。
「いくわよッ!」
わたしは化け物に向かって飛び出した。
その背後で猫耳の少女が森のなかに向かって駆けだしていく。
走りながらわたしは思う。
さっきの爆発はヤバイ。
この世界に来てから幾つか分かった事がある。
わたしに関することも、多少なり分かってきている。
多分この世界では、わたしは強いんだと思う。
なにが強いって、単純に力が強い。
それに身体もとんでもなく頑丈だ。
ひと月前のあの蛇との戦いのことだけじゃない。
あのあとも普通だったら死んでしまうような目に、実はもう何度も遭っている。
崖から転げ落ちたり、巨鳥に攫われて空から落とされたり……
もしわたしがただの女子高校生のままだったなら、もうとっくに死んでしまっているに違いない。
けれどそんな酷い目に遭いながらも、結局最後にはわたしは何事もなくピンピンとしていた。
これは明らかにおかしい。
けれど事実だ。
この世界に渡ってきたわたしは、よくわからないけどとにかく強いのだ。
そんなわからない事だらけのわたしでもわかる事がある。
さっきのあれ。
あの爆発はヤバイ。
あれを食らったら如何な頑丈なわたしとてただではすまない……背筋がヒヤっとした。
でも、――それでもわたしは、この醜悪な化け物と戦わなければならない。
あと少しだけ――
せめてわたしの背後を駆けていくあの少女が、この怪物から逃げ果せるまでは――
「う、うああああああッ!!」
わたしは裂帛の気合いをもって、震える声で叫びながら化け物に飛び掛かった。