03 ヤマハミ
気がつくとそこは、森の中だった。
苔むした岩と、鬱蒼と生い茂る木々の合間から、僅かに光が差し込んでくる。
いったい何が起こったのか、さっぱり分からない。
さっきまでわたしは確かに、慣れ親しんだあの家でしょんぼりと膝を抱えていた筈なのだ。
それが何をどうしたら、いきなり森の中になる?
見ればわたしは紺のセーラー服姿。
先ほどまで着ていた高校の制服そのままの姿だ。
(お、落ち着くのよ、わたし!)
混乱しそうになる。
パニックを起こさないように強く意識をたもつ。
(冷静に、冷静に……深呼吸、深呼吸……)
意識的にゆっくり、ゆっくり呼吸をする。
スーハー、スーハーと深く息をするごとに、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
(えっと……)
こういうときは、直前の行動を思い出すといいんだっけ?
わたしはさっきまでうちで猫と話していた。
これは間違いない。
そうして目の前が暗くなったと思ったら、いきなり森の中にいた。
(……うん、さっぱり分かんない!)
――ハッ!?
猫……猫たちは!?
マリーとベルは!?
さっきまで、わたしと一緒にいた猫たちは!?
わたしは辺りを見回す。
するとそこには、のんびり座ってお腹の毛をグルーミングしているマリーと、寝そべりながら暢気にあくびをしているベルの姿があった。
「……はあぁ、……マリィィ、……ベルゥ……」
二匹の猫たちはちっとも慌てたところがない。
そんなゆったりとした様子にわたしも何だか気が抜ける。
みれば学校指定のわたしの靴が、猫たちのすぐ側にポトリと落ちていた。
「ふー、よかったぁ。マリー、ベルこっちにおいでー」
呼び掛けるも、マリーもベルも応てくれない。
ガン無視だ。
仕方がないのでわたしの方から二匹に近づく。
「……けどこれ、いったい全体どうなってるんだろう」
首を捻っても状況はなんにも変わってくれない。
「……んー、夢かなあ? でも夢にしたら、どうもリアル過ぎるよね」
うむむ、状況がさっぱりだ。
これからなにをどうすればいいのか、なーんにも思い付かない。
「ねぇ、マリー、ベル。……どうしたらいいと思う」
返事はない。
またスルーされた。
わかっていたことだけど、やっぱり猫に聞いても仕方ない。
「んっと、こういうときは――」
素人考えかも知れない。
でもこういうときは少しその場で待機して、アタマを落ち着けるべきだと思う。
わたしは猫たちを胸に抱えると、岩陰に身を隠した。
――数時間が経過した。
夢なら覚めて欲しい。
けど覚めないんだから、これは夢じゃないんだろう。
それに現実逃避をするのは、身の安全を確保してからでも遅くない。
この数時間で、陽は空の天辺まで昇った。
だとすると恐らくもうなん時間かすれば、辺りは宵闇に包まれ始める。
それまでにもっとしっかりと、身を隠せる場所を探さなきゃ。
そう考えて、わたしは立ち上がる。
「マリー、ベル、どこか安全な場所を探そう。わたしについて来て」
足下の二匹に声をかける。
「ニャッ」
「ウニャ」
わたしは周囲を警戒しながら、二匹をつれて歩き始めた。
森を歩きながら、わたしは辺りを見回す。
「……安全な場所っていってもなぁ」
そもそもわたしには、どういう場所が安全なのかわからない。
所詮わたしは猫ぐるいのただの女子高生。
野外キャンプの経験だってほとんどない。
「しっかしここは、凄い森だねぇ。何というか雄大だよね」
気を紛らわせるように呟いて、辺りを見回す。
「んー、もしかすると屋久島とか、そういう感じのとこ? というか……日本、だよね?」
生い茂る木々の様子から当たりをつける。
そうでもしていないと、気分が落ち着かないのだ。
「……でもホント、なんでこんなトコにいるんだろ?」
首を捻りながらしばらく森を歩いていると、どこからかちょろちょろと水のせせらぐ音が聞こえてきた。
「川……かな?」
そうだ。
安全な場所の確保も大切だけど、水場の確保だって重要なのだ。
「とにかく川に向かおう。いくよ、マリー、ベル」
「――な、なにあれッ!? う、うぁ……」
川にたどり着いたわたしは、そこで信じられないものを目にした。
川の向こう側で、どう考えても異様な生物が悠然と水を飲んでいたのだ。
対岸のその生き物は一見すると、鹿に見えなくもない。
ただし縮尺が絶対的におかしい。
あれは体高二メートル近くあるんじゃないの!?
まるで象だ!
その生き物はアタマに大層立派な角を生やしている。
ヘラジカの角を、もっともーっと大きくした感じだ。
どう考えてもあんな巨大鹿は、日本にはいない。
「し、信じらんない……」
いったい、どうなっているんだ?
とにかくわたしは慌てて身を隠した。
マリーとベルを小脇に抱え込む。
「ッ、お願い! あいつが立ち去るまで、静かにしてて!」
二匹はわたしの怯えた顔を見上げて小さく「ニャッ」と鳴いた。
どれくらいそうしていただろう。
時間にすると数分だろうか。
けれども体感としては、それに数倍するほどに感じられる時が流れ、巨大な鹿が立ち去る仕草をみせた。
どうやらわたしたちがここに隠れていることは、気付かれなかったみたいだ。
わたしはほっと息を吐いて胸を撫で下ろす。
と、そのとき――
「シャアアァァーーーーッ!!」
巨大鹿に何者かが襲いかかった。
「――うぇッ!? な、なにごとッ!?」
わたしは思わず立ち上がる。
鹿を襲ったその何かを凝視する。
…………蛇だ。
黒くて山のように大きな蛇が、巨大鹿に襲いかかっている。
唖然とするわたしを尻目に、なんとか難を逃れた鹿が森のなかに逃げ込んだ。
巨大鹿が一目散にその姿を消す。
鹿が逃げ去ったあとそこに残ったのは、鹿を襲った蛇……立ち上がって蛇を凝視するわたし。
蛇がわたしを見つめ返す。
ほんの束の間、わたしと蛇は視線を交わらせ――
わたしは脱兎の如く、その場から逃げ出した。
いままさに、わたしたちは絶体絶命だった。
わたしの腰周りより何倍も太い胴回りの巨大な蛇。
そんな化け蛇と対峙し、いまにも捕食されようとしている。
しかもこの蛇は、わたしよりも先にわたしの愛する猫たちを捕食しようというのだ。
「キシャアアァァァーーーーッ!!」
蛇がマリーとベルに襲いかかる。
――それだけはさせないッ!!
わたしは決死の覚悟で大蛇へと駆け寄る。
「うわああああッ! このヘビ野郎ーーッ!!」
わたしはわけのわからない言葉を喚き散らしながら、大蛇に飛び掛かった。
無茶苦茶に腕を振り回す。
もちろん敵うなんてこれっぽっちも思わない。
でもせめて……せめて、わたしが食べられている間にマリーとベルだけは逃げおおせますように!
蛇は、わたしの攻撃を躱そうともしなかった。
当たり前だ。
どう考えてもこんな非力な獲物の攻撃を躱す必要なんてない。
蛇からすれば、相手が逃げずに近づいてくるのなら、落ち着いてガブリと飲み込んで、はいお終いなのだから。
「このぉーーッ!!」
だけど、そうはならなかった。
わたしが乱暴に振り回した腕は見事に大蛇の頭を捉え――
ドカンッ!!
という大きな音を轟かせて、大蛇を大きく吹き飛ばしたのだ。
「…………うぁ?」
いったい何が起きた?
いまの大きな音はいったい何だ?
わたしに殴られた蛇が「ギジャァアッ!!」と悲鳴を上げて吹き飛んでいく。
戸惑いながら視線を猫に向けると、音に驚いた二匹はピョンと垂直に飛び跳ねていた。
猫たちが「なんだ、なんだ!?」という顔でわたしを見る。
「い、いや、そんな顔されても……」
わたしにも何が起きたのかさっぱりだ。
とにかくどうしてかは分からないけど、思い切り叩いたら大蛇が吹き飛んだのだ。
「ッそ、そうだ! いまのうちに逃げないとッ!」
わたしはもう一度マリーとベルを抱えて逃げようとする。
けれども二匹は大きな音にパニックを起こして、なかなか捕まらない。
はやくしないと蛇が戻ってきてしまう!
「お願い! じっとして!」
もたもたしているうちに大蛇が戻って来てしまった。
蛇はアタマを低く下げて「シャー!」と威嚇音を発する。
わたしは猫たちに向けて叫ぶ。
「こっ、この蛇の相手はわたしがするから、マリーとベルは逃げて!」
わたしは猫たちの反応もみず、再び大蛇に向かって駆け出した。
こんな状況だ。
わたしがもう少しだけでも時間を稼げば、きっと猫たちは逃げてくれるだろう。
わたしはもう一度蛇に向かって固めた拳を振り回す。
けれどもわたしの振り回した拳は、今度は蛇にあたることはなかった。
蛇は地面を這うように、わたしのそばを周回し始める。
わたしが近付こうとすると、スッと離れて距離を置く。
きっとさっきのわたしの攻撃を警戒しているのだ。
わたしと蛇はそんな攻防を幾度か繰り返した。
――息が切れる。
集中力が保たない。
「ッ、はぁッ、はぁッ……」
わたしが肩で息をし始めた頃合いを見計らって、蛇がその巨体を素早くわたしに巻きつけてきた。
「くぅッ、うあぁッ!!」
蛇がわたしをギリギリと締め上げる。
万力のようなもの凄い力がわたしの全身を、骨を、軋ませる。
(こ、このままだと、絞め殺されちゃう!)
わたしは蛇に抵抗しながら、両腕に思い切り力を込めた。
するとミシミシと音を立てながら、わたしの腕が巻き付いた蛇の体を押し退けていく。
「シュアァッ!?」
「ッ!?」
蛇から戸惑った様子が伝わってくる。
でもわたしだって困惑している。
いったいなんなんだ、この胸の奥から湧いてくる力は!?
「ぐぬぅ、……ぐぬぬぬぬッ……」
ミシミシと音を立て腕が開いていく。
巨大な蛇の拘束をわたしは渾身の力で振りほどいた。
「こ、このぉッ!!」
わたしはそのまま腕を引き抜き、蛇の身体を何度も叩く。
何度も、何度も、強く、精一杯の力で叩く。
けれどもまるで筋肉の塊のような蛇の身体は、殊のほか打撃に強くわたしの攻撃は致命傷には至らない。
「このッ、このッ、このッ、このぉーーッ!!」
叫びながら力の限り蛇を叩く。
けれども蛇は倒れない。
わたしはもう疲労困憊で、蛇を叩く腕が上がらなくなってしまった。
対する蛇にはまだ余裕の態度が垣間見える。
動きの鈍くなったわたしに、蛇の大きな口が近づいてくる。
(あぁ、がんばって抵抗してみたけど、やっぱりどうにもならなかったかぁ……)
最後にわたしは残る力を振り絞って蛇を殴りつけた。
けれどもその攻撃も蛇を倒すには至らない。
そうして結局、抵抗虚しく、わたしはアタマから蛇に食らいつかれた。
(……マリーとベルは、ちゃんと逃げられたかなぁ)
蛇に飲み込まれ始めたわたしの視界は、ゆっくりと閉ざされていく。
薄れゆく視界のなか、二匹の猫が無事に逃げおおせたか、それだけを心配する。
けれどもそのとき――
「キシャァーーッ!!」
蛇から恐ろしい悲鳴が上がった。
(――なッ、なに!?)
わたしは何者かに脚を強く引かれ、蛇の口から引っ張り出される。
「――ッ、ぷはっ! な、何がどうなったの!?」
引き上げられたわたしは、混乱しながらも辺りを見渡す。
するとそこには――
わたしを引っ張りあげた、見上げるほどに大きく荘厳な黒い獣と――
いままさに、蛇をその鋭い爪で引き裂き、打ち負かさんとする、白く美しい獣の姿があった――