17 ライノクレス
甲虫の魔物ライノクレスの驚異的な突撃。
わたしはその突撃を体当たりで迎撃しようと飛び出し、空高く跳ね飛ばされた。
「ぁ、……がぁ」
地に落ち、なんども身体をバウンドさせる。
ゴロゴロと無様に大地を転がり、ようやくわたしの身体は止まった。
「……ぁ、……っァ」
息ができない。
まるで全身の骨という骨をバラバラにされたかのようだ。
(立た……なきゃ……)
朦朧とした意識で立ち上がろうとする。
けれども腕も、脚も、手先足先に至るまでガタガタと震えて、立ち上がろうにも力がまったく入らない。
(立ち……上がる、んだッ)
震える腕で上体を支え、なんとか身体を起こす。
けれどもそれ以上の力をこめることができず、わたしは再び不格好に地に這いつくばった。
(立つ……立つん、だ)
なんども起き上がろうとしては倒れる。
はたから見れば、いまのわたしの姿はさぞかし滑稽に映ることだろう。
這いつくばるわたしの瞳に二匹の猫が映った。
森の奥からこんな不甲斐ないわたしをジッと見つめる蒼の瞳と朱の瞳。
白猫のマリーと黒猫のベルだ。
わたしの愛する二匹の猫たちは怒りを堪えるように牙を噛みしめ、甲虫の魔物を睨み付ける。
心配げな眼差しでわたしを見つめる。
その視線がわたしを奮い立たせた。
ここでわたしが倒れたら二匹の猫たちはどうなる?
大好きなククリはどうなる?
集落のみんなは?
わたしは、……わたしはなにがなんでも立ち上がって、甲虫の魔物と戦わないといけないんだッ!
護る……護るための戦いをッ!
震える脚に力を込めた。
悲鳴を上げる身体に鞭を打って立ち上がる。
けれどもわたしの骨格の全てが、筋肉の全ての部位が悲鳴を上げて、再びわたしは地に倒れ伏す。
(くそぉッ! 立てない……なんでッ! 立てないッ! なんでよぉッ)
尚も立ち上がろうとするわたしを大きな影が覆った。
「…………ぁ」
影のさすほうを見上げた。
見上げたその影が絞り出すような声をだす。
「……すまぬッ、ねこ様。儂のせいでッ!」
その影――猫族族長ライナロックがわたしに大きな背中を向けた。
「……あとの事は任されよ。ねこ様はそこで休んでいて下され」
ライナロックが甲虫の魔物と一対一で向き合う。
甲虫の魔物がふたたび前翅を震わせ始めた。
あの突撃の予兆だ。
ブウゥンと高速で翅が震え、ライノクレスの巨体が浮き上がる。
一拍ののち、爆発するがごとき急加速でライナロックへ襲いかかった。
「……侮るなよ、化け物風情が」
ライナロックは突撃の射線から身体を外して突撃を難なく避ける。
「その攻撃は、既に見せておろうがッ!」
ライナロックが両手に持った大剣を、頭上に大きく振りかぶりながら甲虫の魔物に飛び掛かった。
身の丈程に長く、太く分厚い大剣を全力で魔物に叩きつける。
――――ガキィィン……
斬撃を受け止めたとは思えないような、こもった音が鳴り響く。
「やはりッ、硬いのぅッ!」
ライナロックは言葉とは裏腹に軽妙な足捌きで魔物の死角へと潜り込み、剣を叩き込む。
上段からの兜割り、中段からの薙ぎ払い、下段から斜め上段への逆袈裟斬り――
全身の力で大剣を豪快に、縦横無尽に振り回し、甲虫の化け物を力の限り打ち据え続ける。
「キシィィッ!」
甲虫の魔物が軋むような声をあげた。
負けじと刃の前肢を振り上げ、頭角で、胸角でライナロックを貫き通そうとする。
けれどもその刃は、角は、ときには弾かれ、ときには逸らされ一向にライナロックの体まで届く様子はない。
――――ガキィン、ゴアァン、キイィン……
鐘を突いたような音がなんども木霊する。
「ぬぅッ! はぁッ! でぃやッ!」
ライナロックの一方的な攻撃が続く――――
一見するとその戦いはライナロックが優位に見えた。
(…………まずいのぅ)
けれども時が経つにつれ、その優位が崩れ始める。
ライナロックに衰えが見え始めたのだ。
一方の甲虫はなんども斬りつけられその鋼の甲殻に傷を付けてはいるものの、分厚い殻に守られた身体のなかまではダメージが通っていない。
「くッ……このままでは埒がアカンの。消耗はするが致し方あるまい。狙うしかないのお」
大剣を振り回しながら独り言ちる。
「――土の精霊よ その力を槍と成し、敵を穿て――」
詠唱をする間もライナロックの剣は止まらない。
魔物との激しい攻防が続く。
「土槍ッ!」
ライナロックが土属性初級高位の魔法『土槍』を放った。
直後、ライノクレスの腹の下の大地が勢いよく隆起する。
盛り上がった大地は鋭利な長槍となって魔物の腹を貫かんと襲い掛かる。
「貫けぃッ!」
大地の槍がライノクレスの腹を突き刺した。
――――ゴオォォン……
聞き慣れてしまった重苦しい音が大森林に響き渡る。
けれども土槍は甲虫の腹を貫くことはなく、もろくも崩れ去った。
「ッ、腹の皮まで硬いじゃと!? 化け物めッ」
ライナロックが噛みしめた奥歯をギリリとならす。
魔法行使の一瞬の間隙をついて、魔物が大地を抉るように角を突き上げる。
「クゥッ!!」
襲い来る角を大剣の腹で辛くも受け止めたライナロックだが、突き上げの勢いを殺しきれずに大きく空中に吹き飛ばされた。
宙を舞うライナロックは集落の地上に設営されたテントに真っ逆さまに落下する。
「グハァッ――」
ライナロックがガシャンと派手な音を立ててテントに突っ込んだ。
テントがガラガラと崩れる。
このテントは猫族が普段から倉庫として使用しているものだ。
「おのれぇ、化け物風情めがッ」
ライナロックはすぐさま立ち上がった。
だがしかし、もう一度甲虫の魔物に立ち向かおうとしたライナロックは、驚愕に両の目を見開いた。
「……ぁ、……ぁぅ」
テントのなかには、逃げ遅れた幼いふたりの兄妹が隠れていたのだ。
「おッ、お主らッ!?」
甲虫の魔物が節足をせわしなく動かして近寄ってくる。
幼い兄は妹の身体をギュッと抱きしめ、全身で護りながら震えている。
妹は怪我をしているのかぐったりとして動かない。
ライナロックは思わず視線を甲虫から外して兄妹に声をかけた。
「ッ、逃げ遅れたのか? ここは危ないッ、早よう逃げい!」
背後から「キシィッ」とまるで歓喜するような軋み声が聞こえた。
ライナロックが振り返ったときには、既に化け物は鋭利な刃物のごとき前肢を、幼い兄弟に向けて振りかざしていた。
ライナロックが叫ぶ。
「おのれ化け物がッ! そうはいかんぞ! 集落の、――儂の宝をッお前なぞに奪われてたまるかぁッ!!」
凶刃が振り下ろされた。
ライナロックは大きな身体で抱え込むようにして幼子を護る。
――――グシャッ
化け物の刃がライナロックの身を背中から貫いた。
( …………あ )
無様に大地に倒れ伏したままのわたしは、その光景をただ見ていることしか出来ない。
ライナロックは唇からゴブリと赤い血を吐き出す。
地に膝をつき、その手から大剣を落とし、無防備に首を垂れる。
背後の化け物に、その首を差し出す。
まるで切腹をする侍が、介錯を申し入れるかのように――
甲虫の魔物がキシキシと歓喜の声を上げながら、ライナロックの背から前肢を引き抜いた。
返り血に赤く染まった刃を再び振り上げる。
(…………だめ)
わたしには分かってしまった。
この先の結末が。
もう一度あの刃が振り下ろされたとき、ライナロックは首を落とされ、その命を散らすのであろうことが。
(――――立て)
わたしは自分を奮い立たせる。
打ち震える想いに真っ赤な火を灯す。
わたしは自分を叱咤する。
なにが『護るための力が欲しい』だ。
こんな所で寝そべったままのわたしに、そんな大言を吐く資格があるのか。
(――――動けッ!)
震える身体に、はち切れんばかりに力を込める。
いま立たなくてどうするんだ!?
立ち上がれ、わたし!!
全身の至る箇所で骨が砕けている。
筋肉も断裂して力をこめると引きつった痛みが走る。
……けどそれがどうした?
なにがなんでもわたしは立ち上がる。
立ち上がって、目に映るすべてを護りきるッ!!
(――――ぁ)
そのとき、わたしの胸を熱い何かが満たし始めた。
(――――熱い)
胸の奥から溢れ出す熱い塊がわたしの全身を隈なく満たす。
立ち上がれ、と。
立ち上がり、いま正に奪われんとする尊き生命を護るのだと、わたしを強く叱責する。
その熱がわたしの胸を、熱く激しく焦がす!
黒の瞳が黄金色に染め上げられていく。
黄金に染まった瞳を、猫の瞳孔が縦に引き裂く。
両の手足が倍ほどにも膨れ上がり、その尖端にすべてを穿つ鉤爪が生まれくる。
わたしの身体を聖なる白銀の力が満たして行く!
固有名:ねこ
種族名:猫神
レベル:52
体力:161/1492 魔力:99/105
物攻:1246 物防:826 魔攻:56 魔防:373
敏捷:921 技術:219
スキル:鉤爪Lv7 殴打Lv5 体当たりLv3
固有スキル:鑑定 魔力視 加速
EXスキル:覚醒Lv1
わたしは先程までの震えが嘘だったかのように跳ね起きた。
声も出さずに、刃の前肢を振り上げて構える化け物に向けて真っ直ぐ飛び出す。
ライナロックはわたしから魔物を遠ざけるようにして戦っていた。
ゆえに魔物までの距離は遠い。
常ならばもう既に間に合わない距離だ。
けれども間に合わせる。
わたしには分かる。
その為の力が、尊き命を護るための力が、わたしには備わっているのだ!
化け物がライナロックに刃を振り下ろし始めた。
(――――加速せよ……)
一直線に駆ける。
凶刃がライナロックの首を目掛けて振り下ろされて行く。
(――――加速せよ)
眼前で風景が吹き飛ぶようなスピードで流れ出す。
(――――加速せよ! 加速せよ! 加速せよッ!!)
化け物の刃が止まった。
……いや、僅かに動いている。
まるでコマ送りみたいだ。
すべての時が停滞したかのような世界。
静寂のその世界を、わたしだけが飛ぶ鳥のようなスピードで駆け抜ける。
化け物に向かって脇目も振らず、一直線に!
――――ドガァァァンッ!!
ライノクレスが吹き飛んだ。
物凄い衝突音をならして甲虫の化け物が素っ飛んでいく。
ライナロックが項垂れるように膝をつき、俯かせていた首を起こす。
「……ぁ、ねこ様…………猫神、様?」
わたしはライナロックの瞳を見据え、力強く頷いた。
「……ぁ、ぁぁ」
ライナロックの表情が柔らぐ。
安堵の声を漏らしてライナロックは意識を失った。
地に倒れ伏す前にその身体を支える。
わたしはライナロックと怯える幼い兄妹を抱えて、二匹の猫の元へとしなやかに跳躍した。
「……ベル。族長さんたちをお願いできる?」
「ゴニャ」
ベルは小さく鳴いてライナロックの傷口を舐め始めた。
ベルの癒しの力だ。
「ニャッ」
マリーが鳴いた。
この者らは任せておけと言わんばかりに、幼い兄妹を、傷付いたライナロックをその背に庇う。
「すぐに済むわ……お願いね、マリー」
二匹にあとを任せて甲虫の魔物ライノクレスに向き直る。
魔物は獲物を奪われた所為か、はたまたわたしに吹き飛ばされた所為か「キシィッ、キィッ!」と怒りの声を上げている。
「……ふッ」
短く息を吐いてライノクレスに飛びかかった。
ライノクレスが自慢の甲殻で迎え撃つ。
わたしは自慢のその鋼の頭殻を目掛けて、大きく膨れ上がった巨槌のような拳を、振り落とすように激しくぶち当てた。
――――グシャッ!
いままでとは全く異なる、異質な打撃音が森に響いた。
これまでなんど叩いても全く届かなかったわたしの拳が、たったの一撃で、甲虫の鋼の甲殻を陥没せしめたのだ。
「ふッ! はッ!」
攻撃の手を休めずに、繰り返し繰り返し甲虫に拳を振るい続ける。
巨大な拳が分厚い甲殻を打ち鳴らすたびに、甲虫はその頭殻を、胸殻を陥没させられ割られるのだ。
「ギイィッ、ギギュイィッ!!」
ライノクレスはこれ以上は堪らぬとばかりに、頭角と胸角でわたしの身体を挟み込んだ。
わたしを持ち上げ、投げとばそうというのだ。
「ッ、ふんッ!」
けれども逆にわたしは甲虫の頭角を乱暴に叩き折ってやる。
残った一本の胸角を掴んで力任せに魔物の重厚な巨体を放り投げた。
甲虫の魔物は軋むような悲鳴を上げて飛んで行く。
わたしはそれを追うことはしない。
「キィィ……キィィィッ……!」
投げ飛ばされ地面に激突した甲虫は、怒りも露わに立ち上がる。
ブウウンと音を鳴らしながら前翅をバタつかせ、わたしへの突撃を試みようとしている。
わたしを打ち負かしたあの突撃だ。
甲虫の翅が目に見えないほどの速さで震え出す。
翅のかき鳴らす音がキイインと甲高いものに変わっていく。
わたしは甲虫を真っ向から見据えた。
短く告げる。
「……いいわよ。来なさい」
勝負だ。
わたしはここで甲虫の突撃を迎え撃つ。
その迎撃方法は――
体当たりだ。
甲虫の羽ばたきが最高潮に達した。
巨体が重力のくびきから解放されたかのようにフワリと浮き上がる。
対するわたしは大地に手をつき、クラウチングスタートさながらの構えでその突撃を待ち受ける。
――――ゴウッ!
風が鳴った。
ライノクレスが爆発的な速度でわたしに向かって突撃を開始したのだ。
甲虫も全身全霊をかけた突撃なのだろう。
迫り来るその突撃速度はこれまでの比ではない。
「……覚悟、しなさい」
全身に満ちた力を大地に向けて解き放った。
身体を低くした姿勢のまま、地を這う弾丸のように飛び出す。
――――ドガアアアァァァァンッッ!!!!
刹那ののち。
甲虫の巨体とわたしの身体がぶつかり合った。
大地を震わせるほどの物凄い破壊音が大森林に広く広く鳴り響く。
激しい土煙がもうもうと立ちこめ、視界を覆い尽くす。
まるで大地震さながらの地響きが大地を揺らした。
大地の揺れがゆっくりと収まっていく。
森が静寂を取り戻し、視界一面を遮っていた土煙が薄れ、晴れていく。
空から鮮やかな陽が差し込んだ。
雲の切れ間から晴れやかな太陽が覗く。
見渡す限りの青い空。
その空の下に映った景色は――
片手を天に高く突きだしたわたしと、鋼の甲殻を完膚なきまでに粉々に砕かれ絶命した化け物の姿であった。