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むよくの天使  作者: 猫宮めめ


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 意識が覚醒する。背中に感じる感触は柔らかく、自分はベッドの上に寝かされているのだろうと推測する。

 気を失ったのはいつぶりだろう。少なくとも数十年は気絶していないはずだ。そんなことを考えながら、ヴァニタスはついに目を開ける。


 血を零したような真っ赤な瞳。

 身体を起こし、彷徨うように周囲を見回したのちに、最悪の事態は避けられたようだと結論付ける。

 ここは眼鏡の男――ロバート・シュタインが所属する組織ディアブリーの拠点ではないようだ。それどことか、ツァイテ村を出てすらいないだろう。


「ヴァニー! やっと目を覚ましたのね」


 赤い瞳に涙を浮かべた少女が、喜びを溢れさせた表情でヴァニタスに抱きつく。


「死んじゃったかと思った」

「俺は死なない。お前が言ったことだろ?」


 透き通った白髪を撫で、浮かべられた涙を拭ってやる。

 ヴァニタスが死ぬ未来は来ない。そう断言したのは他でもないエルアなのだ。


「あの後、どうなった?」

「……私も覚えてないの。でも、私が追い出したんだって、ミゲルが言ってたわ」


 追い出した。

 何も知らなければ、こんなか弱い少女にできるはずがないと思うのだろう。

 知っているヴァニタスは、エルアが件の力を使ったのだと容易に想像できる。

 ヴァニタスが嫌悪していたその力が、ヴァニタスを救い、村を救った。皮肉なことに。


「ヴァニタスは、あの人たちのことを知ってるみたいだったけれど……」

「不死者ってことがばれてからずっと追いかけ回されている」


 彼らが所属するディアブリーは所謂、科学組織と呼ばれるものだ。

 その中でもロバート・シュタインが責任者を務める部署は特殊能力を持つ生物や未確認生命体などを捕らえ、その実態を研究することを目的としている。


 不死者であるヴァニタスも、特殊な力を持つエルアも、彼らにとっては良い研究対象だ。

 そう語るヴァニタスに大きな赤目が波打つ。


「じゃあ、あの人たちがこの村に来たのは私のせい?」


 自分のせいで、みんなが怪我を負った。

 己の命よりも、周囲の幸福を願う少女にとっては何よりも耐え難い事実だ。

 それを否定する言葉をヴァニタスは持っていない。代わりに息を吐いたヴァニタスは穏やかな表情でさらに語り出す。


「俺は昔、天使と呼ばれていた――」


 ◯◯◯

 小さな村に一人の男の子が生まれた。


 数年ぶりの子供ということで、村人たちは誰もが等しく彼のの誕生を心待ちにしていた。

 しかし、生まれた子供の容姿を見るや否や期待は失望に変わる。


 両親のどちらとも似ても似つかない白い髪と、血を零したような真っ赤な瞳。

 初め、妻の不義を疑った。が、村人の中に白髪赤目の者は一人もおらず、出入りを厳重に管理されたこの村では、外の人間とということも考えられない。


 悪魔の子だ、と誰かが言った。


 村に災厄が訪れる、と誰かが同調した。


 ならば殺してしまおう、と誰かが提案した。


 両親たちもその意見に同意した。こんな恐ろしい容姿を持った赤子を自分の子供だと認めたくないのだ。


「ええ、殺しましょう」

「今なら遅くない」

「待て」


 静止の声を上げたのは騒ぎを聞きつけた神父だ。

 村で最も力を持つ存在の言葉に、ざわめきが生まれる。


「この子は神の使いだ。殺せば災厄が訪れるぞ」


 神父の言うことは間違いなく正しいという思想が定着しているこの村で、神父の言葉を疑うものなんていない。それどころか、祀り上げるように、赤子を大切に大切に育て上げた。


 子供はミハエルと名付けれた。天使ミカエルから取られた名前であるが、彼をこの名で呼ぶ者は一人としてこの村にはいない。両親も含め、村人は誰もが、彼のことを「天使様」と呼んだのだ。

 物心つく前からそうだったから、ミハエルはそれがおかしいことだとは思っていなかった。


 自分は天使であり、村人を守る役目を担っている。押し付けられた役目を全てのように信じていた。

 頬に刻印が刻まれたのも、この頃だ。神の使いである証なのだと神父は言っていた。


「天使様、おはようございます」

「今日も変わらず麗しい」


 いつものように村人たちと言葉を交わし、いつものように村の中に散策する。

 そんなミハエルの日課は、唐突に終焉を迎える。ミハエルが七歳になった肌寒い冬のことだ。

 その日、黒いローブを身に纏った怪しげな集団が村を訪れた。


「何者だ」

「そう警戒されずとも我々は魔女に会いに来ただけです」

「魔女? そんなもの、この村にはおらん」

「白を切るつもりですか。あまり手荒な真似はしたくないのですが」


 ローブを纏った者たちは村へ火を放っていく。火は次々に燃え広がり、村を赤く染め上げる。


「何を!」

「この村の者は全て魔女だ。一人残らず殺せ」


 リーダーと思わしきローブの人物の言葉により、殺戮が始まった。

 聞き慣れた声が悲鳴に変わる瞬間を聞きながら、村人に幸福をもらたす天使はただ立ち尽くす。炎をとは違う赤で染まる村に、恐怖心が沸き起こる。


「天使様、お逃げください」


 誰かの声が聞こえた。

 繰り広げられる殺戮を前にしても、村人たちは誰ひとりとしてミハエルを売ろうとはしなかった。

 ローブの者たちが言う魔女が明らかにミハエルを指していると知っていながらも、ただ必死にミハエルを逃そうと躍起になる。なんと愚かなことか。


 その時、ミハエルがどうしたかといえば――逃げた。

 天使として村を守る役目を放棄して赤く染まった村から必死に逃げた。

初めての村の外をただひたすらに走り、ついに力尽きたミハエルは全身の疲労に誘われるように意識を手放した。


 目を覚めたとき、ミハエルは見知らぬ部屋に寝かされていた。

 村の誰のものとも違う部屋の様相に警戒心を覗かせるミハエルに近づく影がある。

 年頃はミハエルと同じか、少し上くらいに見える。どこか軽薄そうな印象を抱かせる少年は、ミハエルが目覚めたことを確認すると、扉の向こう側に向かって声を上げる。


「親父、目が覚めたみたいだぜ」

 くぐもった返事を聞きながら、少年はミハエルの前に何かを差し出す。


「特製スープだ。腹減ってるだろ?」


 なるほど確かに、木製の器の中には薄黄色の液体が入っている。上がる湯気が馨しい香りを届け、ミハエルの腹が空腹を示すように鳴った。

 人好きのする笑顔を見せる少年に促されるまま、ミハエルは器と同じ木製のスプーンを受け取り、スープを口に入れる。


「おいしい」

「だろ?」


 次々にスープを口に運ぶミハエルを満足げに見つめる少年。


「俺はヨハン。ヨハン・フラメルだ。お前は?」

「むぐ、ミハエル」


 神の子として育てられたミハエルは自分の家名を知らない。両親の家名を名乗れば良い話なのだが、ミハエルを育てたのは神父であり、生みの親が誰なのか皆目見当がつかないのだ。

 白髪赤目のミハエルは村の誰とも似ても似つかぬ容姿であり、だからといって神父の家名を名乗るのも違う気がする。


「よろしくな、ミハエル」


 ヨハンと名乗った少年は、やはり満足そうな表情を見せている。

 そうこうしているうちに扉が開き、大柄な男性が姿を現した。大柄といっても、ミハエルの知る中での話であり、村の外ではこれが普通なのかもしれない。


「なんだ、もう仲良くなったのか」


 ミハエルとヨハンを見比べた男は開口一番にそう言った。

 嬉しげに肯定したヨハンは「俺の親父だ。熊みたいだろ」と耳打ちする。熊の見たことのないミハエルはただ曖昧に笑ってみせる。


 のちに聞いた話だが、このときのミハエルは曖昧にも笑えてなかったらしい。

 今も昔も変わらずミハエルもといヴァニタスは表情を作るのが苦手なのだ。


「何があったのか、聞いてもいいか」


 男――ヴァルディ・フラメルがミハエルを見つけとき、彼は血塗れの状態だった。

 ただならぬ気配を察したヴァルディはすぐさまミハエルを連れ帰り、手当てをした。一年の大半を森の中だけで過ごすヴァルディは本格的とはいえないものの、医術の知識があるのだ。


 元の色が分からないほど血と煤で汚れた服に焦りを滲ませたが、大きな傷はなく、ほとんどがかすり傷であった。だからこそ、疑問が湧く。

 あの血は一体、誰のものなのか。


「ぁ、おれ……」


 問いかけにより、忘れていた記憶が掘り起こされる。


 炎の赤。血の赤。黒い人間たち。

 肌を突き刺す寒さ。肌を撫でる熱気。

 見知った人間たちの死体が道中に重なり合い、ミハエルは無理矢理に目を逸らしながら駆けた。逃げたのだ。


 守るべきものに守られ、役目を果たさずに逃げ出した自分。

 目を背けたくなる現実を自覚し、ミハエルは身体を震わせる。


「俺……守らなきゃいけなかったのに。役目、なのに」

「くだらねぇ」


 吐き捨てられた言葉に、反射的に振り向いたミハエルの瞳には怒りが宿っている。

 自分は神の使いなのだ。天使として村人を守ることこそがミハエルの生きる価値。

 それをくだらないなどと。


「俺は神の使いとして……」

「神の使い? 馬鹿じゃねぇの。ミハエルは人間だろ」


 村の誰もが呼ばなかったミハエルの名前を呼び、真っ直ぐな言葉を投げかけるヨハンに言葉を詰まらせる。

 少し前までは良い奴だと思っていたが、とんだ思い違いだったようだ。こいつは、このヨハンという少年は最悪の人間だ。


 それからミハエルはフラメル一家のもとで暮らすことになったわけだが、ヨハンとはほとんど口をきかないまま日々が過ぎていった。

 ヴァルディの仕事は木こりだ。森の中で、ほぼ自給自足の生活を行っている。


 ミハエルは彼の仕事を手伝いながら、いろんなことを教えてもらった。

 獣の狩り方。魚の捕り方。薬草や山草の見分け方。野菜の育て方。その全てが森の生態系を壊さないことに重きを置いている。

 自然の力を借りる代わりに、自然を守るために最善を尽くす。木こりの仕事はミハエルの性に合っている。


 対してヨハンは、木こりの仕事には全く興味がないようで、毎日奥の部屋に籠っている。

 初めてあったときのこともあり、顔を合わせないでいいのは正直ありがたい。


「ん、おかえり。親父は?」


 運の悪いことに、珍しく奥から出てきたヨハンと鉢合わせてしまった。

思いっきり目を逸らしてから、「まだ作業している」と小さく答える。

 失礼極まりないミハエルの態度に気を悪くした素振りもなく、ヨハンは「へぇ」と素っ気なく返す。そして、にっと口角を上げた。


「二人きりなんて初めて会ったときぶりじゃね?」

「……そうだな」


 何も返さないのも失礼だと思い、視線を俯けながら言葉を返す。思いきり目を逸らしたことを考えると、今更な話ではあるが。


「ミハエル、ちょっと来いよ」


 指し示されるのは、ヨハンがいつも籠っている奥の部屋だ。

 ヨハンと二人というのは遠慮したいところだが、奥の部屋には興味がある。逡巡するミハエルは急かされ、結局、部屋の中に足を踏み入れる。


 ヨハンが蝋燭に火を灯し、小さな光源によって部屋が照らされていく。しかし、窓のないせいか、薄暗い印象は消えない。

 不気味な部屋だ。村の外のことを全くといって知らないミハエルには分からないことだが、乱雑のようで整頓されて置いてある器具は、研究者などが実験に使うものだ。


「これが親父の裏の仕事だ」

「裏の……」

「錬金術って知ってるか?」


 怪訝そうな顔を見せるミハエルにヨハンはにっと笑う。初めて会ったときから変わらない人好きのする笑顔だ。


「錬金術ってのは科学的に金を生成することだ。ま、他にも人造人間とか、不老不死の研究とか、いろいろあるけどな」


 そこからヨハンは、自分の研究成果を嬉々として語り出す。

 専門的な言葉もあり、ミハエルには半分も理解できなかった。それでも楽しげに語るヨハンの話を聞くのは悪くないと思った。


「なあ、ミハエル。お前は木こりの仕事、好きか?」


 急な問いかけに驚きつつも、首肯する。

 自然と共に暮らす。それが前面に出た木こりの仕事はミハエルに性に合っている。それは先程も思ったことだ。


「俺もな、こうして研究してるのが好きなんだ」


 だから、とヨハンは続ける。


「お前は木こりとして、俺は錬金術師として頑張ろうぜ」


 その口ぶりに悲しげなものが含まれている気がして、ミハエルは首を傾げる。無言の問いかけに気付いているのか、いないのか、ヨハンはただ笑顔を向ける。心が乖離したような笑顔だ。


 それから間もなくして、ヴァルディ・フラメルは永遠の眠りについた。ミハエルが十三のときである。

 後から知ったことだが、ミハエルを引き取る少し前から彼は重い病気にかかっていたらしい。本人の意思により、医者にかかることもなく今まで通りの生活を送っていたのだという。


 二人だけで行うささやかな葬儀の間、ヨハンもミハエルも微塵も涙を流すことはなかった。ただ目の前の死を受け止めた。

 人はいつか死ぬ。当たり前のような事実を寂しく感じた。


「悪い、間に合わなかった」


 そんなヨハンの小さな呟きがやけに耳に残っている。


 葬儀が終わった後、二人はすぐに今後について話をする。

 ヴァルディ亡き今、これからは二人だけで暮らしていくことになる。以前ならば、苦行のように思っていただろうが、今のミハエルはヨハンと二人きりも悪くないと思い始めている。


 結局、今までの暮らしと何ら変わりなく、ミハエルは木こりとして、ヨハンは錬金術師として、日々に精を出した。変わったことといえば、ヴァルディがいないことと、ヨハンが今まで以上に研究にのめり込み外出が増えたことくらいだ。

 何の研究をしているのか、一度聞いたことがある。ヨハンは「後で話す」と曖昧に笑い、それ以上聞くことはなかった。さほど興味があったわけではない。


 ヴァルディの死から十年ほど経った頃だろうか。いつものように森の様子を見に行っていたミハエルが帰宅すると、家には二人の人間が談笑していた。

 そのうちの一人、ヨハンは「おかえり」と座るように促す。前にもこんなことがあったなと考えながら、ちょうどヨハンの前の席に座る。


「こいつはドルイド。俺の錬金術仲間だ。で、こっちはさっき話した兄弟兼親友だ」


 兄弟であることも、親友であることも、認めた覚えはないが、悪い気はしないので黙っておく。

 ドルイドと呼ばれた男は見たところミハエルよりも若い。まだ少年といっても差し支えない年齢のように見える。


「よろしく」

「ああ、よろしく」


 互いに素っ気なく言葉を交わす。

 間にヨハンが入らなければ、まともな会話もできないことだろう。

 そんな心配は杞憂でこれから長い付き合いになっていくわけだが、一度として二人きりになることになることはなかった。


 ともかく、錬金術を学ぶ者同士の会話を手持ち無沙汰に聞くミハエル。

 やはり話の内容はちんぷんかんぷんだ。それでも聞いているだけで充分に楽しい。

 好きなことに対して熱心に語る者の姿を見るのが好きなのだと気付いたのは、かなり後になるからだ。何かに夢中になることがなかったから、憧れていたのかもしれない。


「儀式の準備は整った。後は……」

「分かってる。話は通しておくさ」


 儀式? なんのことだろう。


 首を傾げるミハエルの赤目を、ドルイドの茶目がとらえる。何かを見定めるような輝きを持つ瞳に、知らず身を固くする。


「悪くない」

「だろ?」


 自分のことのように喜ぶヨハンの「ドルイドが言うなら、他の奴らも大丈夫だろ」という言葉で、更に首を傾げる。

 一体何の話をしているのだろう。二人の様子を見る限り、ミハエルにも関係があるようだが。


 ドルイドが帰った後、すぐにその疑問は解決した。


「俺らはさ、不老不死について研究してんだ」


 不老不死。文字通り、老いず死なず。


 ミハエルはいつからか覚えてない頃から漠然と死にたいと思い続けてきた。その思いが強くなったのは、あの村を出てから。

 ともあれ、そんなミハエルからしてみたら不老不死など最悪以外のなにものでもない。


「死なねぇ、老いねぇつーのは全人類の望みだ。もちろん、俺もお前も」

「俺は不老不死なんて望んでない」


 ミハエルが自分の死を求めていることをヨハンだってよく知っているはずだ。


 だのに。


「いいや、お前だって不老不死を望んでる」


 当然のことのように断言するヨハンの姿に、初めて会ったときのような反感を覚えた。


「うさぎってさ、寂しいと死んじまうんだってな」


 唐突な話題転換にミハエルの怒りが吹き飛ぶ。

 自分で振っておきながら、これ以上話を膨らませる気がないらしいヨハンはすぐさま話を切り替える。


「今、人手不足でさ、お前に協力してほしいんだ」


 どうやら、これが本題のようだ。


「俺には錬金術の知識がない」

「ただの雑用だから大丈夫だって。暇なときだけでいいから、な?」


 逡巡する。


 特に断る理由もないし、少しだけ錬金術というものにも興味がある。なので、了承することにした。

 問題があるとすれば、全員偽名を名乗っているからと、バニーと名付けられたことくらいだ。そのくせ、ヨハン自身は偽名を名乗っていないのだ。

 ヨハンのこういった理不尽さは今までも何度も経験してきたので、今更思うところはないが。


 ただやはり、バニーという呼び名はどうにかしてほしい。




「バニー! ただいま」


 やけに機嫌がいいヨハンを半眼で迎える。

 偽名といいながら、この男は家でも時折ミハエルをバニーと呼ぶのだ。

 バニーと呼ばれるたびに、いつぞやのヨハンの言葉を思い出して、もやもやする。まるで、自分が寂しがり屋だと言われている気がして。


「やっと、ここまで来たな」


 上機嫌なのは、念入りに準備した例の儀式が明日に控えているから。

 儀式。詳しいことは知らないが、ヨハンが言うには悪魔を呼び出すための儀式らしい。


 神だの、悪魔だの、信じたいタイプのヨハンがそんなことを言い出した時は正気を疑ったが、どうやら一般的な悪魔とは少し違うらしい。どう違うのかまでは、ミハエルの知るところではない。


「ようやく俺たちの望みを叶えることができるな」


 肩を叩くヨハンの顔は少しばかり赤らんでいる。

「酔ってるのか」と聞けば、「酔ってない」と答える。完全な酔っ払いだ。


「俺は不老不死なんて」

「いーぃや、お前は望んでるね。俺には分かる」


 やはり断言するヨハンは口元を緩ませながら、ミハエルへ顔を近づける。


「お前がさ、死にたいって思うのは独りが嫌だからだろ?」

「そんな、ことは」

「否定しても無駄だぜ。だてに何年も一緒に暮らしてねぇよ。お前自身が気付かないことだって俺には分かんだよ」


 酔っ払いの戯言。そう切り捨てるのは簡単だ。


 しかし。


 できないでいるのは、図星だったから。今まで目を逸らしてきた事実を、あのエメラルドの瞳はいとも容易く見抜いてみせた。

 敵わない。敵わない。

 初めて会ったあの日からずっと、あの真を見抜くエメラルドが大嫌いだった。


「不老不死になって、俺はお前よりも長生きするんだ。ずっと、ずぅーっとな」


 笑う。


 赤らんだ顔が、大嫌いなエメラルドの瞳が弛緩する。

 世界の幸福を詰め込んだようなその表情に胸がつまり、何故だか泣きたくなった。


「なぁ、ミハエル。俺は絶対にお前を独りにはしねぇよ」


 心臓を鷲掴みされたような衝撃が走った。


「だから、もう――」


 男一人分の体重が肩にかかる。

 間もなくして聞こえてきた寝息に息を吐く。儀式の準備で疲れているのだろうと、自分よりも僅かに低い男の身体を抱えて寝室に運んでやる。


「馬鹿だよ、お前」


 ミハエルのためだけに、自分が置いていかれる側を選ぶなんて。

 ヨハンが心から不老不死に憧れていたのは知っている。でもそれは、ミハエルやヴァルディあっての話であることも。


 確かにヨハンにはドルイドたち、錬金術仲間がいる。彼らを真に大切にしていることも知っている。

 けれど、完全に心を許しているわけではないこともしっている。


「お前は独りになってもいいのか」


 起きているときに聞けば、ヨハンはきっと「俺には錬金術仲間がいるから」と答えるだろう。問いかけの意味することを理解していたとしても。


「ヨハン……俺は」


 お前と一緒なら、不老不死になってもいいと思うよ。


 決して音にされない声で呟いた。




 そうして訪れる儀式当日。薄暗い部屋には、怪しげな者たちが床に描かれた魔法陣を囲むように並んでいる。

 微かに走る緊張感を肌で味わいながら、何とも現実感を抱けないミハエルもその中に混じる。


 微かに聞こえる声は悪魔召喚のための呪文であり、サバトのようだと心中で呟く。声にすれば、ヨハンに否定されるのは明白なので心中で呟くにとどめたのだ。


「そろそろお出ましだ」


 隣に立つヨハンがこっそち耳打ちする。

 同時に空気が一変する。何とも形容しがたい空気が肌を撫で、鳥肌が立つのを感じる。

 呪文が佳境にいたった頃、ついにそれは姿を現した。


 実体を持たない黒い靄。


 それだけでも圧倒的な存在感を見せるそれは周囲の人間を値踏みするように、靄を揺らす。


〈我に何用だ〉


 胸の辺りにどすんと響き渡るような重低音。


「我々に不老不死になる術を教えていただきたい」


〈ほう〉


 代表者としてヨハンが答えれば、靄は黙りこくる。

 下手に言葉を重ねるのはよくないと判断したのか、ヨハンは静かに動向を見守る。

 圧倒的な緊張感に胸を締め付けられながら、ミハエルは離れた位置でそれを見守る。


 不意に目が合った。

 心臓が大きく跳ね、生唾を飲み込む。

 靄のどこに目があるのかと聞かれれば、分からないとしか答えようがない。しかし、確かに目が合ったのだ。


〈分かった〉


 各々安堵の表情を見せる中、ミハエルだけが嫌な予感を感じずにはいられなかった。

 背筋に氷塊が滑り落ちたよなあの感覚。震えが止まらない。


「バニー? どうし――」


 異変に気付いたヨハンが声を上げた瞬間、真っ赤な飛沫が上がった。


 崩れ落ちるヨハンの身体。

 思わず足を引けば、ぴちゃんと水音が鳴り、赤い液体が靴を汚す。

 噎せ返るような血の匂いが閉鎖された空間に蔓延し、吐き気を覚える。いや、この吐き気は血の匂いだけが理由ではない。


 屍山血河とまではいかないが、周囲には十数人の死体が転がっている。生きているのはミハエルただ一人。

 地獄のような現実を否定したくて、ミハエルは近くの死体に触れる。

 元の面影を残さないほど血だらけの肉塊となったそれは、ミハエルの親友にして唯一の――。


「ヨハン……おい、ヨハン! 言っただろ、お前は俺より」


 俺より長生きするって。


 俺を独りにしないって。


 それが今は血だらけの肉塊となって横たわっている。

 何の冗談だ。


〈望み通り、お前を不老不死にしてやった〉


 冷酷無慈悲な声が投げかけられ、絶望を通り越して怒りが湧いてくる。


 望み? 何を言っているのだ、こいつは。

 不老不死になることをミハエルが望んでいるとでも思っているのか。


「……何故」


 殺意を含んだ怒りを靄へ向ける。


「何故、こいつらを殺した」


〈理を犯すには、それ相応の代償が必要になる〉


 彼らはその代償になっただけだ。

 至極当然のことのようにほざく靄への怒りはおさまらない。

 真に不老不死を望んでいた者たちを殺し、不老不死を拒む自分だけを生かした。その所業、簡単に許せるものではない。


「何故だ!」


 悲痛を込めて叫ぶ。


「何故、俺が……」


 血塗れの肉塊に命が宿っていないことは火を見るより明らかだった。

 もう帰ってこない命を思い、ミハエルはただ叫ぶ。


「俺はただ死にたいだけだ。こんなこと、望んでなんかいない」


 涙を堪えるような声がたった二人だけの空間に響き渡る。

 不老不死を望んだ者たちは、ヨハンも含め全員が命を落とした。残ったのは死を求めたミハエルだけ。

 なんと皮肉なことだろうか。


「答えろ! 何故、俺を選んだ」


 この問いの答えは数百年後も結局分からないままだ。


〈運命を呪うのならば、貴様に力を与えよう〉


 慈悲か、気紛れか、そんなことはミハエルにはどうでもいいことだった。

 望むことはただ一つ。


「そんなもの必要ない。今すぐ俺を殺してくれ」


 あの死体のように。ドルイドのように。ヨハンのように。

 自分もあの死体の山の一部となりたい。

 それがミハエルのたった一つの願いであった。


〈使いようによってはお前も死ぬことができるだろう〉


 これ以上の慈悲を与えてくれる気はないようで、ミハエルはこの言葉に縋るしかなかった。


 与えられたのは、他人に寿命を分け与える力。


 人に寿命を与え続ければ、いつか死ぬことができる。

 そんな浅はかな考えのもと、ミハエルことヴァニタスは数百年のときを生き続けてきた。


 〇〇〇


「死ねるかもしれないというのが嘘だっていうことはすぐに分かった」


 すぐにといっても気付くまでに十数年の時間を要した。数百年もの時間を生きているヴァニタスから十分に短い時間だ。

 気付くまでの間、寿命を与えてきた人間の数は百を超える。与えた寿命の年数はその倍は下らない。

 こうして生きている時点で、ヴァニタスは千年以上の寿命を人に与えてきた。


 それでも死ぬことはできない。

 当然だ。なぜなら、ヴァニタスの不老不死なのだから。

 いくら人に寿命を分け与えようが、不死という特性までは変えられない。


「それでも俺はこの力に縋るしかなかった」


 だからこそ、気付いた後も寿命を分け与える旅を続けてきた。

 死ねるかもしれない。そんな本当かどうかも分からない悪魔の言葉をひたすらに信じ続けたのだ。


「……ヴァニー」


 その呼び方は奇しくも、ヨハンが名付けた偽名と同じ響を持っている。


 バニー。


 初めて聞いたとき、自分をからかっているのだと思っていた。けれど違う。

 孤独は嫌だ。独りになどなりたくない。

 この死にたいという願望がどこから来ているのか、指摘されて初めて気付いた。


 うさぎが寂しいと死ぬというのならば、ヴァニタスはうさぎになりたかった。そうすれば、独りで数百年もの時間を過ごすことはなかったのに。


「人はいつか死ぬ。そんな当たり前の事実が、俺には耐えられない」


 苦痛を堪えるようなヴァニタスの表情に、エルアはかけるべき言葉を必死に探す。

 ヴァニタスの笑顔が見たい。その一心で。


「エルア、お前だっていつか死ぬんだろう?」

「っ」


 俺を置いて。

 そんな言葉が付け加えられている気がして、エルアは思わず息を呑む。

 死は誰にも訪れるもので、寿命を削って人を助ける自分には身近なもので、当たり前に受け入れていた。

 己の死すら経験の一つで、寂しいと思いこそすれ、恐れることなんで絶対に有り得ないと。


 だのに。


 死ぬことよりも、村に破壊の限りを尽くしたあの男よりも、目の前の彼を置いて先立つことを恐ろしいと思った。

 独りは嫌だと叫ぶ彼の心の声がエルアを揺さぶり、死の恐怖を増幅させる。


「私は」


 言いかけてやめる。

 近い未来、彼を置いていく自分に言える言葉などありはしない。


 自分では彼を笑顔にはできない。

 気付いてしまった事実が悲しくて、苦しくて、唇を噛みしめるように口を固く閉じる。


「エルアには俺の傍にいてほしい。ずっと一緒に生きてほしい」


 向けられるのは不器用な笑顔。

 エルアがずっと見たいと思っていたヴァニタスの表情。


「それが俺の笑う方法だ」


 肯定できたなら、どんなに素晴らしいだろう。


「無理だわ」


 声が震える。目頭が熱くなる。


「だって、私はもうすぐ死ぬのよ」

「なら、俺の寿命を分けてやる」

「寿命を分けてもらったって私はまた」


 自分の命を削っても、人を助ける。周囲の人を笑顔に変えたいと願うエルアの性は、ヴァニタスも痛いほど知っていた。

 それを否定すれば、ヴァニタスが心惹かれた彼女ではなくなってしまう。


「それでも構わない。また寿命を分ければいいだけの話だ」

「そしたら、貴方の寿命が尽きてしまうわ」

「そんな日は一生来ない」


「天使のお墨付きだ」と堂々と宣言する。


「私は――」


 同じ色彩を持つ瞳が波打ち、小さな雫が零れる瞬間を目にする。

 彼女の涙を拭おうと手を伸ばした時、エルアの身体が傾いた。

 血相を変えて、エルアを受け止めたヴァニタスは必死に彼女の名を呼び続ける。


 死ぬな。死なないでくれ。

 俺を独りにしないでくれ。


「エルア、死ぬな」

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