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悪魔のような日から、どれくらいの月日が流れたことだろう。少なくとも一年や二年なんて年数ではないことは確かだ。
あの頃と比べて、世界は驚くほどの進化を遂げていた。
インターネットはもう当たり前の存在となり、今ではバーチャルリアリティーと呼ばれるものが姿を現し始めていた。一般に普及するのも、遠い未来ではないだろう。
悪魔により不老不死となった男はといえば、変わりきった世界の中でもそれなりに暮らしていた。
彼はあれから何百年もの間、世界中を旅してきた。所持金は微々たるものだったが、食事や住居に気を遣わなくていいので、さほど困ったことはない。
不死という特性に助けられた今までを思うと、正直複雑だ。
考え事をしていると車が止まった。ふと窓越しに外を見れば、深い森が視界に入る。
「悪いな。乗せられるのはここまでだ」
「十分だ。感謝する」
懐から取り出した鉱石をいくつか運転手に渡す。
金銭は土地を選ぶので、礼をするときには可能な限り鉱石を渡すようにしているのだ。
「何度も言うが、止めた方がいいぜ。あの森の中に入って生きて帰った奴は――」
「問題ない」
有無を言わせぬ口調で言い放ち、車を降りる。
運転手はまだ何か言いたげだったが、ため息を吐くとそのまま車を走らせていった。
それを見届け、男は森の方へ歩みを進めた。
一部の人間から人狼の森と呼ばれるここから生きて帰った人間はいない。噂によれば、人狼に食べられたのだという。
男の目的地はこの森の先にある。
ツァイテ村。時の止まった村とも呼ばれ、村の外との関係を断絶した村である。
外の人間である人物が受け入れられるとは思えないが、彼の目的はその村にあるのだから仕方がない。
悪魔によって不本意ながらにも不老不死にされた彼には、悪魔によってある能力が与えられた。
自分の寿命を他者に分け与える力。
寿命を他者に与え続ければ、いつか死ぬことができるかもしれない。そんな浅はかな考えのもと、男は寿命を分け与える旅を続けてきた。何百年もの長い年月をかけて。
未だ、望みは叶えられない。
自称気味に笑み、手入れのされていない森の中をただ進む。
荒れ果てた森に思うところがないわけではないが、今の彼にとってはどうでもいいことだ。
不死者となったと同時に彼は、人間だった頃の全てを捨てた。もちろん名前も。
とはいえ、名無しは不便なので今は空虚と名乗っている。
「ここか」
どれくらい歩いたか分からない頃、ようやく村の入り口に辿り着いた。看板はかなり年季が入っており、薄っすらとツァイテ村と書かれているのが見て取れる。
髪と顔が完全に隠れるようにフードを被り直し、村の中へ足を踏み入れた。
門番すら立っていない門を抜ければ、懐かしい光景が広がっていた。
閉鎖された村というくらいだから、入る前に何かしらのセキュリティが働いていると思っていたのだが、とんだ拍子抜けだ。
これで閉鎖空間を作り出せているのは、ひとえに人狼の森のお陰だ。実際は、ただの森に過ぎないが。
活気があるともないとも言えない村の風景はどこか故郷に似ている。何百年も前の村と同じ姿は哀れなものだ。
「しかし、想像とは随分と違うな」
行き交う村人たちはヴァニタスに目もくれず、日々の暮らしに勤しんでいる。
余所者に対して、もう少し嫌悪や侮蔑の視線があると思っていたのだが、せいぜい遠巻きな視線を感じるくらいだ。
どちらにせよ、居心地のよいものではなく、早く目的を果たそうと視線を巡らせる。
そこへ。
「旅人さん?」
声をかけられた。
長い白髪を背中に流した可憐な少女。大きく丸々とした赤目は真っ直ぐにヴァニタスを見つめている。
胸元で揺れる十字架を見る限り教会の子供なのだろう。
「ああ」
自分と同じ色彩を持つ瞳の純真さに耐えかねて視線を逸らす。
「嬉しいわ。この村にはあまり人が来ないから」
「そうだろうな」
あの、人狼の森を抜けてまでこの村に来ようと思う人間は稀有だろう。
少女はただただ純粋に、久しぶりに来た外の人間に興味があるようで、好意的なまでに好意的だ。
「この村には何をしに?」
「……寄ってみただけだ」
村の外を知る人間であれば、すぐに嘘だと分かる返しだが、少女は「そうなの」と大きな瞳を和らげてみせた。
ああ、彼女はこの村しか知らないのだな。
少しだけ昔の自分と重なった。
「この村のこと、気に入ってくれたら嬉しいわ」
何も知らない少女の笑顔の中に、ヴァニタスは暗い影を見た。
その影はこの村に来た目的の正体とも言える。
「お前はもうすぐ死ぬ」
寿命を分け与える旅を続けているうちに、ヴァニタスは寿命間近な人間を見分けられるようになっていた。
見えるのだ。他の人間とは違う、黒い影を纏っているのが。
「知っているわ」
少女は穏やかにそう言った。笑顔とともに。
「お前は……」
予想外の反応にヴァニタスは驚きを隠せないでいる。
今まで見てきた者たちは大抵、相手にしないか、感情を露わにするかのどちらかだった。例外ももちろんあるが、ここまで穏やかな表情は初めてだ。
「死を恐れていないのか」
「恐れる必要がどこにあるの?」
本気で分からないようで、大きな瞳は不思議そうに瞬いている。
「生に未練はないのか」
「あるわ」
これも当然のことのように言葉を返す少女。
何が本当なのか分からず、訝しげな視線を寄越すヴァニタスに向けて、彼女は言葉を続ける。
「世界はとーっても広くて、とーっても美しい。でも、私はこの村しか知らないわ」
死ぬ前に、もっと広い世界を見たい。
そう言って笑う少女は、その夢は絶対に叶うことがないことを知っていた。
自分の寿命はまもなく尽きる。自分はツァイテ村から一生出ることはできない。
この小さな世界の中で一生を終える。とても残念なことだけれど、それも悪くない。
「私はこの村のことが大好きなの。だから、この村で一生を終えることができるなら、それで幸せなのよ」
幸せの形はいくつもある。それが少女の持論だ。
夢が叶わなくとも、幸福の中で己の生を終えられるのならば、それ以上は望むまい。
ひたすらに純粋で純真な少女の姿は、どうしようもなく悲劇的だ。だからこそ、ヴァニタスは口を開く。
「ならば、俺の寿命をお前にやる」
村から出ることが叶わなくとも、寿命が延びればそれだけでできることも増える。
「そんなことしたら貴方が死んでしまうわ」
「俺は不老不死だ。死ぬことはない」
ヴァニタスの顔に浮かんだ悲哀。それを見逃さなかった少女もまた、悲しげに目元を和らげる。
「貴方は……優しいのね」
こちらを見つめる、自分と同じ色彩の瞳に気恥ずかしさを覚え、逃れるように視線を地面へ移す。
「俺は、優しくなんてない」
俺は望みを叶えたいだけだ。
音にされない言葉に気付いているのか、いないのか、少女は笑みを消そうとしない。
何故、得体の知れない男にここまで無防備でいられるのか。
ただ鈍感な馬鹿だとは思えない少女の態度に、そんな疑問が思い浮かぶ。けれど、声には出さない。そこまで踏み込む気は微塵もない。
と、新たな闖入者の気配を察し、僅かに少女から離れる。
闖入者である男は慌てた様子で少女に駆け寄る。一瞥をくれる目は険しく、ヴァニタスへの果てしない嫌悪が滲み出ていた。
「天使様! その男から離れてください」
なるほどな。
この男が、いや彼の服装を見る限り教会がこの村の時間を止めているわけか。
故郷の村と重なる部分を新たに見つけ、複雑な感情が胸中に湧く。
そして、それ以上に。
「彼は悪い人じゃないわ」
「そういう問題ではないのです。余所者とともにいれば、天使様が穢れてしまう」
天使様。
その呼称を当然のように使い、当然のように受け入れる。そんな歪とも言える姿に不快感が込み上げる。
少女とこれ以上会話を続けるのは無理だと結論付け、立ち去ろうとしたところに声をかけられる。
振り向きざまに、不快そうな視線と目が合った。構わず、声をかけた人物の方を見る。
「私はエルア。また会いましょう、旅人さん」
向けられるのは、邪気など知らない無垢な笑顔。
自分も名乗るべきか逡巡するものの、男が許してはくれなそうなので二人はこのまま別れた。
近いうちにまた話をする機会があればいいが。
早く目的を果たしてこの村から出ていきたい。そんな思いがヴァニタスの中にはあった。
――天使様!
ふと懐かしい光景が脳裏を過ぎった。
不死者としての数百年よりも、人間としての十数年よりも、天使と呼ばれた二桁にも満たない時間が一番刻まれているのは何とも不思議な話だ。
もう何百年も思い出すことのなかった記憶から目を背けるように、ヴァニタスは無理矢理に思考を中断させる。
今は宿を探さなければ。
排他的なこの村に宿があるか分からないが、今夜分の寝床だけでも確保しなければならない。
村を一通り歩いたところで――小さな村なため、それほど時間はかからない――やはり宿がないのかと息を吐く。教会の方針に逆らって、余所者を泊めるような人間がいるとも考えられないし、この村に滞在する間は野宿をするしかないようだ。
泊ることにこだわりはないので、それはそれで問題ない。
適当に野宿できそうな場所に目星をつけつつ、ヴァニタスは今後について思考を巡らせる。
一先ず、エルアと名乗った少女ともう一度話をしたいところだ。教会の人間がそれを許してくれるとは到底思えないが、どうにか会うことはできないだろうか。
頭を抱えるヴァニタスの考えを裏切るように二人はすぐに再会を果たすことになる。
翌日。ヴァニタスは一先ず、村の中を散策することにした。
あの少女が教会の傍に建てられた孤児院で暮らしていることは、彼女が身につけていた十字架から察することができる。が、昨日のことを考えれば、教会に行っても追い返されるだけだ。
とはいえ、他にすることがあるわけでもないので、暇つぶしがてらに市に足を運んでみた。
小さな村の中にこんなに人がいたのか、と素直に感心しつつ、人混みの中をあてもなく進んでいく。人混みといっても、都会と比べればどうということはない。
閉鎖されている村とは思えない活気を他人事のように眺めるヴァニタスのすぐ傍を一人の少年が駆け抜ける。
友達に置いていかれたらしい少年を危なっかしいと見ていれば、案の定何かに躓いた。顔から地面に突っ込んだ少年はすぐに起き上がりながらも、両目から滂沱と涙を零していた。
忙しなく動く人々は泣きじゃくる少年に気付くことなく通り過ぎていく。
迷うように視線を彷徨わせ、少年へ駆け寄ろうとした足が中途半端に止まる。
自分に何ができる。
余所者で、こんな外見の自分が声をかけたところで彼を怖がらせるだけだ。
踵を返し、立ち去ろうとしたところに少女の姿が映った。
光の当たり具合で水色にも見える白髪が舞うさまにつられ、足を止める。
「大丈夫?」
何の躊躇いもなく、泣きじゃくる少年に駆け寄る少女。
「痛いの痛いの飛んでいけー」
そんなおまじないと唱えながら、少女は擦り傷をこさえた顔や膝を優しく撫でる。
すると、みるみるうちに傷が塞がっていき、数秒も経たないうちに全てが治ってしまった。
「これでもう痛くないわ」
「うん。天使様、ありがとう」
「どういたしまして。次からは気をつけるのよ」
そうして少年の別れた少女ことエルアは身を隠すように人通りの少ない方へ歩いていく。
違和感を覚えたヴァニタスは少女を追って人混みから遠ざかる。
焦るように歩みを進める少女が路地裏へ姿を消したところで、ようやく彼女に追いついた。
「っ……はあ、はあ」
胸元の辺りを押さえ、苦しげに浅い呼吸を繰り返すエルア。襲い掛かる苦しみに耐えることに必死で、ヴァニタスの存在には気付いていないようだ。
彼女に纏わりつく影が心なしか濃くなったような気がする。
ヴァニタスはこの影が濃くなった瞬間を目にした。ほんの数分程前に。
まだ十数年しか生きていない少女が死期を間近にしている理由をヴァニタスはその時初めて理解した。
ともかく、苦しむ少女を放っておくことはできず、そっと近づく。そして、少女の肩に触れた。
瞬間、少女に纏わりついていた影が色を薄める。同時に苦悶に歪んでいた少女の表情が弛緩する。
「旅人、さん?」
そこでようやくヴァニタスの存在に気付いたらしいエルアは大きな目を更に大きく見開く。
「変なところ見られちゃったね」
「……あの力は、お前の寿命を削る」
少年の傷を治した力。
神の御業ともいうべき力を振るった瞬間、影は濃さを増した。
「知っているわ」
その穏やか表情は、奇しくも死を告げたときと重なる。
「ならば、何故……」
「困っている人がいたら助けるのは当然だわ。私は天使だもの」
天使。
その単語を聞くたびに、ヴァニタスの心の中で何かが騒めく。
麻薬のような言葉だ。気がつけば、誰かのために、村人のために存在していることに疑問を持たなくなる。
彼らの幸福のためならば、自分を犠牲にしても構わない。哀れで愚かな優しさを植え付けられる。
「私の名前は最初の天使を意味しているんですって」
エルは神を表しているという話は、ヴァニタスも耳にしたことがある。そして、アは即ちA。アルファベットで最初にくる文字だ。
なるほど確かに、エルアという名前は最初の天使というわけだ。残酷なことに。
「お前は天使という役目を押し付けられているに過ぎない。ただ利用されているだけだ」
「私はそれでもいいと思うわ」
彼女は何故、これほどまでに晴れやかな笑顔を浮かべていられるのだろう。
「ねぇ、旅人さん。私はね、世界には笑っていてほしいと思うのよ。この小さな世界を笑顔にするためなら、私の命くらい喜んで差し出すわ」
愚かなまでに純粋で、哀れなほどに純潔で――。
「お前はただの人間だ!」
こんなにも熱くなっている理由が自分でも分からない。
世界全てを内包するような笑顔を、人のために笑う彼女を見ていると胸の中に形容しがたい感情が渦巻くのだ。
これでも感情の制御は得意な方であったが、彼女を前にすると自制が利かなくなる。
少女は何も言わない。ただヴァニタスの感情を揺さぶる笑顔を浮かべて、こちらを見つめている。
「……お前に提案がある」
人のために笑う少女の哀れな生き様を利用してやろう。
「お前が力を使う度、寿命を与えよう」
目深に被ったフードで隠された顔に笑みを浮かべる。歪で、自虐的な笑みだ。
「それが俺の笑う方法だ」
「やっぱり……貴方は優しい人ね」
少女は何か勘違いしているようだ。
ヴァニタスは優しくなんてない。ただ己の目的のために少女を利用しているに過ぎない。
けれど、少女の言葉を否定する気も起らない。
「そういえばまだ貴方の名前を聞いていなかったわね。旅人さん、私は貴方の名前を教えて?」
「……ヴァニタスだ」
「……ヴァニタス。素敵な名前ね」
と、新たに闖入者が現れた。聞こえた鳴き声につられるように視線を下に向ければ、黒猫が鎮座している。
二人を見上げる蒼の瞳は、不思議な輝きを持っている。
「アビス、貴方も来たのね」
どうやら知り合いのようで、少女は浮世離れした雰囲気を持つ黒猫を抱きかかえる。
黒猫が一鳴きすれば、「そう」と少女は静かに頷く。
「ごめんなさい。神父様が私を探しているみたい」
どこか慌てたふうに黒猫を地面におろした少女は「また会いましょう」と言葉を残し、路地裏を去っていく。
残されたのは黒猫とヴァニタスの一匹と一人。
「お前、何者だ」
猫に話しかける。危ない人だと思われても仕方ない行動だが、ヴァニタスの直感はこの黒猫がただの猫ではないと告げていた。
対する黒猫は「にゃあ」と鳴き声を上げる。あくまで猫でいるつもりのようだ。
「ただの猫ではないんだろう?」
「にゃあ?」
諦める気のないヴァニタスは静かに猫を見つめる。やがて観念したというように、黒猫はその瞳を瞬かせる。
「俺はアビス。エルアの友人だ、なんて答えを求めてはいないんだろーね」
小さくため息を吐く姿は人間のようだ。
「そーだね。観測者といったところかな」
アビスと名乗った黒猫は塀に飛び乗ることで、ヴァニタスと同じ視線に立つ。
「そー警戒しなくても、君にもエルアにも危害を加えるつもりはないし、そんな力も持ち合わせていない」
今のアビスにできることは恐ろしく少ない。
そもそも、この世界にこうして干渉しているのも特異点を傍で眺めるためだ。二つの特異点が混じり合った先にあるもの、アビスの知識を越えた先にあるものをただ見たいだけ。
この村で過ごしているうちに新たな目的も生まれたが、ここでは関係のない話だ。
「しかし、驚いたな。まさか俺の正体に気付くとは」
「たまたまだ」
不死者となって以来、人外――一般社会でオカルトに属するような存在に冠して敏感になっていた。おそらく、自分も似たような存在だからだろう。
「お前が何もするつもりがないのなら、俺からも何もしない」
「助かるよ」
お互い、不必要に関わらないと決め、二人は別れた。正確に言えば、ヴァニタスはその場を立ち去り、アビスはそこに留まった。
この物語の結末を知る蒼い瞳は去りゆくヴァニタスの背中を見つめていた。




