狂気/伝染
朝、起きたら、何かがおかしかった。
「今朝のおかずは、たまご焼きと目玉焼き、どっちがいい?」
普段は着ない、フリル付きの白いエプロンを身に着けて、妻が不気味なほど明るい笑顔でそう言った。
「ぼく、目玉焼きがいい!」
五歳になったばかりの息子が、元気良く答えた。
おかしい。
息子は、卵の黄身が嫌いだったはずだ。いつの間に、好みが変わったのだろう?
だが、そんな疑問など次の瞬間には消し飛んでしまった。
「はい、目玉焼きよ」
と言って、妻はにこやかにフライパンに被せていた蓋を持ち上げたのだが、そのフライパンの上にとんでもないものが載っていたのだ。
眼球焼き…とでも言えばいいのだろうか。明らかに卵ではない。まさか人間のものではないだろうが、ピンポン玉程度のサイズの眼球が、フライパンの上で焼かれていた。
そんなおぞましいモノを見せられて息子が上げたのは、恐怖や嫌悪の叫び声ではなく、
「わぁ! おいしそう!」
という歓喜の声だった。
……おいしそう?
何が?
どこが!?
「あなたはどっちがいい?」
相変わらずの笑顔で、妻はこちらを向いた。
「……い、いらない……」
震える声は妻まで届かなかったようだ。
「え? なぁに?」
あくまで朗らかに、妻は訊き返してくる。だが、この状況で何かを食べる気になど、なれるはずもなかった。
「腹は空いてないんだ。だから――」
「たまご焼きにしましょう」
「い、いや、だから……」
妻がこちらの声を聞く様子はなかった。眼球焼きを皿の上に転がすと、妻はすぐにキッチンへと戻っていった。
玉子焼き…か。少なくとも、眼球焼きよりはマシな料理だろう。そうであってくれ。
「はい。たまご焼きよ」
妻が笑顔で持ってきた皿に載っていたのは、期待に反して、カエルだった。カエルが腹を開かれ、その開かれた腹に香ばしく焼かれた卵が詰まっていたのだ。だが、カエル自体には火が加えられておらず、生臭い。
「う……」
何かが胃からこみ上げてきた。吐きそうだ。妻がなぜこうも平然と笑っていられるのか、理解できない。
卵焼き……。これは、元からこんな料理だっただろうか? いや、違ったはずだ。絶対に、こんな気持ちの悪いものではなかった。
……駄目だ。胃がムカムカする。こっちまでおかしくなりそうだ。
「お、お前はな、何を考えてるんだ!?」
恐怖のあまり声が裏返ってしまったが、今はそれを恥ずかしがっている余裕も無い。とにかく少しでもこの恐怖心を追い出したくて叫んだ。
すると妻は、
「ひどいわ。せっかくわたしが愛情を込めて作ったのに、食べてくれないの……?」
と言って、さめざめと泣き始めた。
おかしい。
昨日までの妻はそう、確かいつもぷりぷりと怒っているような女だったはずだ。こちらが一つ不平を言えば、それに対して十の文句を返してきた。
それが何故今更、こんな風に可愛らしく泣いて見せたりなどしているのだ?
「ママ泣かないで」
息子が立ち上がって妻の背をさすり始めた。そこだけ見れば感動的といえなくもない光景だが、白々しいと思ってしまうのは、そう思う私の方がおかしいのだろうか?
いや、断じてそんなことは無い。……その、はずだ。
……本当にそうか?
もしかしたら、私の背中を走るこの悪寒や恐怖感は、自分が狂っているという事実に気付きそうになっているがために生まれているのではないか?
狂っているのは妻や息子ではなく、私の方ではないのか!?
その証拠に、今日は妻も息子も、あんなに幸せそうに笑っていたじゃあないか。
「きっと、ホントはパパも目玉焼きが食べたかったんだよ。ね? そうだよね、パパ」
息子がそう言って妻を慰めると、妻は潤んだ目で上目遣いに私を見つめた。
「……そうなの?」
そう…なのか?
私は今、岐路に立っている。妻達と私とを隔てている見えない壁を越えるには、あの不気味な眼球焼きを食べなくてはならないと感じている。
「仕方ないから、ぼくのをあげるよ」
息子は眼球にずぶりとフォークを突き立て、椅子に乗って私の鼻先にそれを突きつけた。
追い詰められた私の額から、脂汗が滲み出る。
――ええい! 何を躊躇っているんだ私は!? 私がまともな人間になるためには、これを口にするしかないのだ!!
知恵を手に入れるためには、禁断の果実を食べなくてはならなかったように!
私は、なかなか動こうとしない下顎を無理矢理下げて口を開いた。息子がその中に、例の物体を突っ込む。
私は意志の力でそれを噛みしめた。
……なかなかナイスな味がした。