後編
朝、気分とは裏腹に澄み切る空の明るさに僕は目を覚ました。
時刻は七時二十三分。あれから二時間くらいしか寝れていないじゃないか。
……まぁ仕方ないな。全部全部仕方ない。
僕はばふんばふんと反発する敷布団に手をついて、片方の手で目を擦りながら起き上がった。力加減を忘れて擦られた目はモノクロチェックの残像を映し出した。
いつもは布団なんて敷いたままだけど、なんとなく今日は畳むことにした。反発する布団は畳まれることを嫌って、なかなか苦労した。
差し込んでくる太陽の日を浴びない位置にある冷蔵庫からむぎ茶のペットボトルを取り出して、ぐびぐびと飲んだ。バイト先のスーパーでよく売れるから買ってみたのだけど、これが結構美味しかった。買うまではただのお茶だと思っていたが、試してみるものだ。何事もそうだろうけど。
僕はそのまま横にある日陰になったキッチンに移って調理を始めた。パリパリと焼ける卵を見ても、感動もしない歳になったことに気付く。この卵は油を引かなくては焦げ付くことも知っているし、ウインナーは切れ目を入れないと表面に亀裂が走って、見た目が悪くなることも知っている。
だけど、そうなる理論は知らないままだった。
昔からそうだった。知っているふりをして、結局何も知らないし、分からない。
換気扇を回すと窓の隙間から冬の寒気が舞い込んでくる。
また、この季節が訪れたのだ。
太陽を覗かせて、それでも冷たいこの季節のことが僕は好きだった。
テレビの天気予報を点けると、今日は一日中快晴だそうだ。
朝食を並べ終わると卓上カレンダーが目に入った。また、あの日がやってきた。
きっともう違う。だからだろうか、そう思うのは。
……さっさと食べて早めに出かけよう。
僕はスーツに着替えて少し早めに家を出ることにした。
六畳間を出ると広がる街並みは一年で変わることはなく、僕は肯定された気分になった。
手袋を失くしたままの僕はスーツのポケットに手を押し込んで、すごすごと歩き続けた。並木道を歩く僕は独りだったけれど、向かいの並木道を歩くカップルは当然に二人だった。三人でもなく、二人。独りでもなく二人なんだ。
並木の葉に残っていたいつしかの雪は太陽に溶かされて、時折ずり落ちてきたけれど、べちゃっと音を鳴らして地面にぶつかるばかりだった。去年あいつと歩いたときにした音はもうここにはない。
あれから、僕は地元国立大を受験して、あいつは県外の私立大を受けたのだと思う。僕もあいつもあのときは大学に受かることで精一杯だったはずだ。
そして、二人とも第一志望に受かった。あいつのことは直接聞いたわけではないけれど、あいつと仲の良かった女子から聞いたからたぶんそうだと思う。
だから、たぶん、雪の音は聴こえなくなったのだ。
ショッピングモールの前まで来ると、そこには変わらずエスカレータがあって、入口は少し高い位置にある。舗装は変わっていたけれど、構造は何一つ変わっていない。
僕はなんとなくエスカレータの下で待つことにした。
約束の場所はここだった。手をポケットから出して腕時計を確認する。時間まであと二十分もある。僕は寒いのを我慢して秒針と分針を見ることにした。あと千二百秒もあるのか、あぁ、どうしよう。
おろおろしながら、どうしても寒いときは手に息を吐き付けて我慢した。
考える暇を与えずに一秒は過ぎて行き、滑らかに針は移ろいで一分は過ぎて行く。
それは変わることを肯定するように、過去を亡きものにするかのようで。
約束の時間まで残り五分に差し掛かると、遠方からヒールの音がするのがわかった。溶けた雪がしみ込んだアスファルトは湿っぽい音を鳴らしていた。
僕はその瞬間どうしようもなく喉をカラカラにすることしかできなかった。
「久しぶりだね」
黒いスーツとコートに身を包む彼女は黒髪を高い位置で結んでいたし、ヒールで少し身長も高くなっていたけれど、紛れもなく彼女だった。
「そうだな」
僕と彼女は出身高校から呼び出されていた。僕らの高校はクリスマスのこの時期、前年度のクリスマス実行委員がクリスマス企画の一環として、大学生活についてのスピーチをするのが習わしになっている。
それで、高校に向かう前に差し入れを買っていこうという話になった。
おそらく、迎え入れてくれる実行委員も歓迎準備はしているだろうから、合理的とはあまり言えないけれど。
きっと彼らも僕のように何かを思いながら委員をしているのだろう。
「下で待っててくれたの? 入口の前で待ち合わせだったよね」
「まぁうん。気にしないでくれ」
入口の前で待つにはエスカレータに乗る必要がある。それは、少し、嫌だった。
「変わらないね」
「本当に変わらないよな、僕は」
「うん。中途半端な長さの髪も、俯く癖も、正装を着崩すところも立ち姿さえも」
「そうかも」
僕は本当に変わらない。
彼女と普通に会話をしている。
あれほど、戒めたのに。
「私はちょっと変わったでしょ?」
「わからない」
嘘だ。メイクをするようになっているし、それとは関係なく目元が少し大人びていた。去年は制服姿すら子供っぽかったのに、スーツが似合う女性へと変わっていた。
一年でこんなに変わるものだろうか。それとも僕が変わっていないだけなのか。
「酷いなぁ。……いつも意地悪だったよね」
「小学校のときのこと言ってるの?」
「それもだし、去年の今頃のこともそうじゃない」
やはり、僕は去年から一つも変わっていない。
あれほど戒めたのに、今日のことだって何か勘違いを起こして、彼女に待ち合わせのメールを送った。
何も学んでいない子供だ。
「なんで待ち合わせの場所、あそこにしたんだ」
僕がショッピングモールの前を指すと、彼女はうーんと唸った。
待ち合わせをしようと言ったのは僕だったけれど、場所を指定したのは彼女だった。
「……わかりやすいからかな」
エスカレータの手すりの上で人差し指と中指を歩かせる彼女を見ると、「目立つ位置」という意味合いでそう言ったのではないくらい直ぐにわかった。
だけど、対して僕は言葉を上手く紡ぐことができない。
「あのさ――」
「ダメだよ、いろいろ一杯達を無かったことにしたら」
僕は率直に全部謝ろうとした。正しくは「ごめん」と発音しようとしただけだけど。それを彼女に見抜かれたのかもしれない。
僕が黙っていると、彼女が言葉を続けた。
「私さ、謝らなくちゃ」
「え?」
「小学校のときさ、本当は消しゴム見つかってたんだ」
「でもさっき」
「うん。だからごめん。あとさ、『つまらない』なんて言ってごめんね」
……そうなのだ。きっと彼女もまた変わっていないのだ。
どこまでも天邪鬼で、どこまでも気遣い屋で、どこまでも優しくて、どこまでもバカなんだ。
彼女はエスカレータの手すりを歩く自身の指を眺めていて、その表情は僕には見えなかったけれど、嘘を吐いているのだけはわかった。
一番の嘘つきは僕だったから。
「嘘なんて吐かなくていいよ」
「嘘じゃないんだけどなぁ~」
「だって、僕はお前に傷つけられてないから。だから嘘じゃない。お前を傷つけたのは僕だから。嘘ってそういうものだから」
「……君はやっぱり変わらないね」
そう言って、彼女はどこか楽しそうにも、どこか悲しそうにもとれる表情を見せた。
「だから、謝るのは僕のほうだ」
「そう」
恥ずかしさで死んでしまいたかったけれど、僕は彼女の言葉を必死に待った。
彼女はその一言を言うまでにかなりの時間を要していたようだ。
「だから――」
「あぁ、そっか」
彼女は僕の言葉を再び遮った。空を見てそう言ったのだ。
僕が釣られて見上げると、白く淡く仄かな結晶が一つ、また一つと降り注いできた。
僕のかじかんだ手に舞い落ちたそれは冷たかったけれど、僕を拒むことはなかった。
今日は快晴なんて嘘っぱちじゃないか。
僕は嘘が嫌いなのに。彼女にあんな顔をさせるから。
それでも、嘘ばかりの世界でお互いを認め合って許し合えることができるなら。
僕と彼女は僕達に戻れるのだろうか。
「ごめん」
僕は空に向かって呟いた。立ち上る白い息はどこかへと消えていく。
「またそれ?」
彼女は空を見上げたまま笑った。その笑顔だけは消えなかった。
「いや、同じじゃないよ」
勝手かもしれないけれどこれでいいのだと思う。
謝れなかった昔とは違うのだから。
「だよね。ジーハンも値上げしちゃったしね」
「それは関係あるのか?」
「別に関係なくたっていいじゃん」
彼女はそう言って、エスカレータに乗り出した。僕は慌てて彼女を追いかけた。
僕と彼女の間にはやはり間隔が空いているけれど。
彼女が僕の方を振り返ることはなかったけれど。
それでも、今はこれでいいのだ。
エスカレータを降りた彼女は浅く積もった砂糖の海をしゃくしゃく鳴らせて走っていく。
ね、今はこれで良かったのだと思いたい。
まだまだ、雪は積もっていくだろう。
それでも、踏み出せない深さになることはないのだ。
そう考えてから、僕はエスカレータをそっと降りた。
そして、足元に広がる雪をしゃくしゃくと鳴らした。