前編
身体が火照ってくる。長風呂で温められた身体の熱は敷布団と掛布団に挟まれて逃げ場がないらしい。
少し前まではペラペラになった布団で寝ていたが、そんな生き方に嫌気が差して、今は無駄に高額な布団で寝起きしている。毎晩、横になると中のスプリングが反発して、寝づらいというのが本音だ。
「半端に良い布団なんて買うんじゃなかったな」
漏らした言葉は六畳一間にすっと消えた。僕がどれだけの言葉を尽くしても、この空間で響くことはない。水に溶ける砂糖みたいだ。
『つまらない』
あいつが僕にそう告げたのは去年のクリスマスのことだ。砂糖のように降りしきる雪の中で、僕を見つめるあいつは誰よりも熱を持っていた。
あの日、ショッピングモールのエスカレータに僕が乗ったとき、あいつは急に足を止めてエスカレータには乗らなかった。どうしたんだ、なんて僕が尋ねると、ただ一言そう言ったんだ。
僕達は受験を控えた高校三年生で。
僕達はクリスマス実行委員として買い出しに行くことになっていた。……うん。たぶん、そうだったと思う。受験目前なのに委員を押し付けられてむしゃくしゃしていたから、よく覚えている。本当は忘れてしまいたいのに。
「恋人でもないのに、クリスマスに一緒に買い物なんて変だ」
僕はあいつに、というよりは地面に向かって言った。あいつは僕を見ることなく、一面に広がる砂糖の海を足でしゃくしゃく鳴らせることに夢中だった。僕の鳴らす足音はざくざくとしていた。
「そうかな? ふふ、でもそうかもね。勘違いされたらどうしよう?」
あいつは片足で砂糖の海をぴょんぴょん跳ねて、僕のそれに近い音を鳴らした。
あいつの問いになんて答えたのかは正直覚えてない。僕のことだから、「嫌だよ」なんて短絡的なことを言ったのだと思う。
「そうだね」
ただ、あいつがそう返したのは覚えている。それは、どこか楽しそうだったから。それはどこか寂しそうだったから。あいつがそんな表情を僕に見せたことは小学校のとき以来だった。
些細なことだった。小学生の時分の記憶など殆ど忘れてしまったけれど、あのときのことは皮肉にも覚えている。
僕があいつの消しゴムを悪戯に隠したのが発端だった。あいつの驚く顔が見たかっただけなのに、隠したはずの場所に消しゴムは無かった。
『おばあちゃんにもらったやつなのに……』
あいつのその言葉に僕は冷や汗を沢山流した。あいつは田舎から引っ越してきて、今は両親と三人で暮らしているから。
クラスのみんなに頼み込んでみんなで探した。けれど、消しゴムは見つからなくて、僕は「ごめん」って言った。謝れていたかはわからない。
そうしたら、あいつはどこか楽しそうに、どこか寂しそうな表情を僕に見せた。
そして、去年のクリスマス、またその顔をした。
数歩離れて歩く僕達は周りからは恋人なんかには見えなかったはずなのに。
クリスマス実行委員なんてものに選出されたが為に、こんな恥ずかしいことをしなくてはならない。そんなことしか頭に無かった僕は買い出しリストと睨めっこをするのみであいつに話しかけることはなかった。周りを歩く制服姿のカップルを見て、自分達もそう映っているかもしれないという状況が心の狭い僕には辱めのように感じていた。
だから、「ねぇねぇ」なんてあいつが言っても、突き放すように「ん、忙しい」としか言わなかった。
ドーナツの形をしたショッピングモールをぐるぐる回るうちにあいつの声は小さくなっていった。今思えば、後ろを歩くあいつとの距離が少しずつ空いていたのかもしれない。
リストの商品を籠に入れ終えてレジに並ぶと、あいつが僕に追いついた。僕達は籠を挟んで左右に立っていた。
レジで店員さんが僕の持っていた買い出しリストとあいつが別に買う気でいたジュースを一緒に精算するか訊いてきたとき、僕が言う前にあいつが「別でお願いします」と言った。
レジの店員さんの気怠そうな対応は鮮明に覚えている。僕も同感だったから。
別でいいのなら、どうして僕の後ろに並ばないのだろう、って思った。
ああ、僕は。
レジを済ませると、あいつはまた僕の斜め後ろを歩いた。
「来年からジーハンの中身も値上げするんだって。知ってた?」
ショッピングモールの中にある自販機を通り過ぎたとき、あいつは言った。
「……それが?」
「外にあるさ、蜘蛛の巣が張ったジーハンもさ、このジーハンも中身もさ、結局は一緒なんだよね」
「……だから? 当たり前だろ」
「うん、だよね」
何かを隠すように笑うあいつの顔。短く揃えた髪は前の日よりも整っていたと思う。でも、あのときの僕には短いはずのあいつの髪はあいつの目元を隠しきっているように見えた。……だけなのかもしれない。
ただ機械的に帰るために、僕はなんでもないような振る舞いを装ってショッピングモールの中を再び歩き始めた。
僕達がショッピングモールを出ると、猛烈な寒さに立ち止まってしまった。ショッピングモールの出入り口は少し高くなっていて、歩道に出るにはエスカレータに乗る必要があった。眼下には否が応にも有象無象が見えた。
マフラーを恋人巻きするカップルや、あえて手袋を外して真っ赤な手を恋人繋ぎするカップルばかりだった。
手袋を紛失していた僕の手はかじかんで、紫になっていた。
レジ袋が指に食い込む痛みを言い訳に、僕は。
「つーか、なんで僕がクリスマス実行委員なんてやらなきゃいけないんだよ」
あいつの顔が見えないことを言い訳に、僕は。
目の前にあるエスカレータはぐるぐるぐるぐると機械的に回っていて。
それは、火照る身体を持て余す現在の僕とそっくりだ。寝ようとしては寝れなくて、思い出さなくていいことを思い出しては、そんな価値のないことを繰り返している。
たぶん、あの日あの時、あいつを待たずにエスカレータの環に乗り出してしまった僕はきっと既に手遅れで。
だって、立ち止まったあいつとの間にどんどん間隔が生まれていたのは事実だから。
僕が今でも覚えているのは、あいつが「つまらない」と言ったことだけだ。
僕の心が今でも覚えているのは、僕はまだエスカレータから降りることはできていないということだけだ。
本当は忘れてしまいたいのに。
本当は、わかっていたのに。