07 紅之蘭 著 天ノ川 『ハンニバル戦争・カンナエ会戦3』
【あらすじ】
紀元前三世紀半ば、第一次ポエニ戦争で共和制ローマに敗れたカルタゴは地中海の覇権を失った。スペインすなわちイベリア半島の植民地化政策により、潤沢な資金を得たカルタゴに、若き英雄ハンニバルが現れ、紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。ハンニバルは、ローマ側がまったく予期していなかった、海路からではなく陸路を縦断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。ローマのスキピオ一門との激闘もここに始まる。
カンナエ会戦前哨戦の最中のローマ軍野営地である。
戦いが始まる前の野営地には吟遊詩人も混じっていた。とくにその名を四海に轟かせ英雄豪傑ということもない一兵卒なのでセネカとでもしておこう。三十かそこらの痩せた口髭の男だ。この男、戦場でも竪琴を背負って戦う変わり者だった。すでに始まっている小競り合いの合間、焚火を前にして、神話の弾き語りをしたものだ。
いわく。
ギリシャ神話に登場する最高神ゼウスは正妻を実姉ヘラとした。ゼウスは美少女の噂をきくと片端から襲い掛かって孕ませてゆく変態だった。ゼウスはダナエの家系が好きで、ダナエの寝屋に夜這いしてペルセウスを産ませた。このペルセウスは怪物メドウサの首級をあげ英雄王になる。この王の孫娘アルクメネ姫を襲って英雄ヘラクレスを産ませた。ゼウスはヘラクレスが赤子のときに引き取ったのはいいものの正妻ヘラは愛人の子に乳をやるのを嫌がった。そこでゼウスは異母兄にあたるヘルメスに寝ているヘラの乳を吸わせるように命じた。飢えていたヘラクレスは乳を思い切り吸った。それがあまりに痛かったのでヘラは跳び起き赤子を床に叩きすけてしまうが天界の女王たるヘラの乳を吸ったことによって不死の身体を手に入れたので五体は無事だった。そのとき残りの乳が噴射して天に注がれたのが「ミルキー・ウェイ」となるわけだ。
セネカが奏でる神曲は、武勲と悲劇、恋愛と猥談が混じり、将兵たちをときに奮い立たせときに笑わせときそしてまた泣かせた。
めらめらと燃え上がる薪の山。
焚火を囲む輪のなかには、一日交替で総司令官を司るパウルスとワロ、前年の執政官セルヴィリアスといった将軍たち、そして高級将校に相当する元老院議員八十名までもが祖国存亡の危機に直面してカンナエの地にかけつけていた。貴族たる元老院議員は幼少期より馬術をたしなんでいるため騎士を率いるためパウルスかワロかどちからの騎士隊に属していた。本来は戦場になぞでてこない中高年者ばかりだ。
門閥貴族出の若き執政官ワロは、そんななかで談笑している若い騎士が気になって仕方なかった。
ワロは青年の横にいるもう一人の執政官ヴァロスに供の騎士の名をきいた。
「ヴァロス殿、その青年は?」
「コルネリウス執政官の子息・スキピオ君だ。――ガリアの地でハンニバルの斥候隊と接触して以降、二度、奴らと戦っている。ある意味、ローマのどの将軍たちよりもハンニバルを知っているといっていい」
「スキピオ君、執政官として僕も若輩者だが君も若いな。いくつだ?」
「十九歳になります」
「そうか、十九か。まあよろしく頼むよ」
数日の小競り合いのなかでローマ軍は圧倒的兵力を背景に常時優勢だった。ある戦闘では味方二百弱の損害で一千を超える敵兵の首級をあげたのだ。
でっぷりとした前執政官セルヴィリアスは角杯の酒を乾していった。
ワロ執政官のいうように、ハンニバルは本国から補給を一度も受けたためしがない。兵数もわれらの半分で憔悴しきった感がある。確かに勝負どきかもしれぬ。ワロが、「人生の大先輩たるスルヴィリアス殿にいわれると恐縮する。これからもよろしくご指導頂きたい。」などと愛想笑いして壺の酒を注いだ。
その様をみて、ヴァロスがスキピオ青年の腕をつかんで、焚火から少し離れたところにでた。
「スキピオ君はどう思う?」
「ハンニバルに敗けたときは毎度こんな感じでした」
ヴァロスは腕組みして天空のミルキー・ウェイを仰いだ。
「そうか罠か。ハンニバルという男はわれわれが及びもつかぬほどに恐ろしい男なのだな」
「はい」
ヴァロスはもう一度沈黙してから青年の肩に手をやった。
「スキピオ君。ハンニバルと手合せするのはこれで三度目になるのだな。わが軍は敗けるかもしれぬがしかし四度目の勝利を得るための敗北だ。そのときは君がローマの全軍を率いて奴の前に立ち塞がるんだ。――ゆえに君だけは生きてローマに帰らせる」
そういってから背中を叩き、また皆のいる焚火のそばに連れだって戻った。
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その日・
後背を北のアドリア海とするローマ軍九万弱、号して十万の布陣。――中央軍前衛に弓矢や投槍を主体とした軽歩兵、後衛に主力をなす重装歩兵。左右両翼には騎兵を配置した。つまるところは横列隊形である。――中央軍指揮官は前執政官セルヴィリウス、左翼が執政官ヴァロス、右翼が執政官ワロ。そして当直の総指揮官は若いほうのワロが執った。
後背を南の低い丘陵としたカルタゴ軍五万もローマとほぼ同じ陣形をとっていた。中央軍前衛をガリア歩兵、後衛をカルタゴ重装歩兵、左翼をスペイン・ガリア騎兵、右翼をヌミディア騎兵としていた。
両軍はアドリア海に注がれるオファント川東岸に陣取った形になった
アレキサダー大王の愛馬にちなんだ戦象・ブケパロスの輿籠で采棒をもったカルタゴの若き隻眼の将帥ハンニバルはこのときになって、「見切った」とばかりに白い歯をみせた。
――女神の乳を飲むのはわれら、オファント川の泥水を飲むのはおまえたちだ!
(つづく)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。
7月期会員寄稿作品の更新はここまで。ご高覧くださいました読者の皆様に心から御礼申し上げます。次回8月号作品でお会いいたしましょう。ではまた。