01 奄美剣星 著 新米 『新米さん』
曲がりくねった渓谷の断崖をどうにか抉ってこしらえた犬走り。そこをボンネット・バスがゆく。絶壁までせりだした、急峻な尾根に自生した山林は、ちょっとだけ色づき、水面に映って、秋も半ばを過ぎたことを示していた。 私の郷里では二毛作をやっていて、春は麦をつくり、夏から稲を育てる。寄宿学校に通っていた私は、農繁期になると数日学校を休んで実家に戻り、稲刈りを手伝ったものだった。
都会にある母校・寄宿学校では、私の郷里に根付いた古い信仰を学友たちにすると、迷信だといって一笑に付されたものだった。そういうものか。学校に馴染んできた私もだんだんそのように考えるようになっていた。しかし果たしてそうかと疑問に感じたのは、学校図書室の書架にあった、ニーチェの本をみつけ手にとったときのことだった。開くと、いきなり、「神は死んだ」という一節が目に飛び込んできた。書いた人はなんて傲慢なのだろうと思ったのだが、繰り返して読んでみるとそうでもないようだ。
――近代化によって、信仰心というものがなくなったため、逆に、人間が野蛮になったといわんとしているらしい。
終点である山里にむかうボンネット・バスに乗っていたのは、私・塩路麻亜胡。赤いリボンで長い髪を結っていた。寒くなってきたので、ブラウスとスカートの上から、コートを羽織っていた。
バス内部は、縦中央に通路を挟んで、左側が一人掛け椅子、右側が二人掛けの椅子が並んでいた。全部でそう三十脚ばかりあったろうか。私は最前列の左側椅子に腰かけていた。バスに乗っていたのは、行商人。私のように都会から帰ってきた、沿道の村々の人々たちだ。
通路を挟んだ右横には、五、六歳くらいの男の子がいた。くりくりした大きな目の可愛い子。二人掛けの椅子に腰かけていて、男の横には、なぜだか、豹のようにブチがついた灰色猫がちょこんと腰かけていた。
窓ごしに景色をみていた男の子は、通路側にいた灰色猫と話をしていた。男の子が横に話していたのではない。灰色猫が少年に話しをしていたのだ。――ほかの客たちは、その光景をごく自然に受けとめていた。違和感をもったのは私だけだった。
その灰色猫が私に話しかけてきた。
「お嬢さん、鬼に魅入られているようだね」
「鬼に?」
灰色猫は確かに言葉をかけてきた。私の頭がグルグル回ってきた。
「〝狐の窓〟をつくって、一番後の席をのぞいてみろ」
「――狐の窓?」
灰色猫がそれのつくりかたを教えてくれた。右手と左手との甲掌があべこべになるようにして指を組む。それぞれの手の手薬指と小指の間に、もう一方の人差指を差しこむ。すると組んだ両手の人差し指と中指との間に、綾菱形の隙間ができる。〝狐の窓〟とはそれを指す。――異界の者たちを視る〝視鬼の術〟である。
〝狐の窓〟から後ろをのぞく。確かに、ひしゃげた顔をした禿げ頭の半裸の男がいた。肌は土色で小柄。裸足だ。虎の皮のパンツをはいていた。頭には牛の角が生えていて、手にはザクロを持っていた。
〝狐の窓〟を通してみると、最後部席に鬼がいるのが判るのだが、通さずにみると、誰もいない。――不思議。あれを鬼といわずしてなんといおう。
「祓うかい?」灰色猫がきいた。
たぶんそのときの私は目を白黒していたと思う。絶句してから、「祓える?」ときいた。
「もちろんだとも」
一見、へんてつもない若い雄猫。ぶっきらぼうな口調だが、それが妙に頼もしく感じた。
私は灰色猫がいる二人掛けの席に移ってもいいかときくと、「ああ、いいよ」という返事があった。そして灰色猫を抱っこしてもいいかときくと、「抱っこは苦手なんだ」と断られた。――この猫さんはとてもプライドが高い。しかし横にいた可愛い少年を抱っこすることは許可された。その子は、私に抱っこされると耳まで真っ赤になった。
終点一つ手前の停留所で停車していたボンネット・バスが発車した。後部座席にいた鬼がこっちにやってきた。そして、私にザクロを手渡そうとした。
「食え」鬼がいった。
「お嬢さん、無視しろ。〝黄泉の食物〟だ。口にしたら最後、あっちの住人になる」
私は、灰色猫のいうように、無視した。
鬼は哀しげな顔をして双眼から涙をこぼした。ほっそりとした身体つきで、ふんわりした白いセーターを羽織った、ジーンズパンツの綺麗な、若い男の人になった。
私はそれでついついザクロの実を受け取ってしまった。実が割れて、粒が中から顔をのぞかせていた。私は一粒手にとった。
灰色猫は、再び、「食うな」といった。
しかし口にしたいという衝動は抑えがたいものがあった。魅入られるというのはこういうことをさすのだろうか、私は実をついに一粒口に放り込んでしまった。
すると。
横っ腹に急激な圧がかかった。バスが、ガード・レールを突き破って、真っ逆さまに、谷底へ転落した。崖に生えた紅葉がみえた。水面に叩きつけられるまで、何秒かかるのだろう。おそらくは一秒とはかかるまい。しかし実際のところ、その瞬間というのはスローモーションのようで、数分に感じた。
乗客たちは何が起きているのか判らない様子だ。――宇宙飛行士の地球上での訓練では、飛行機が急落下するときに無重力状態ができ、繰り返すことで宇宙生活に馴染ませる。そんな場面をテレビで視たことがある。――バスの中にいた乗客たちはまさにそんな感じだった。
阿鼻叫喚。
対照的に、ザクロをくれた年若い男性は、椅子の背もたれの端についた環に手をやって宙に浮かんで私にむかって微笑んでいた。
――私のせいでみんなが死んじゃうの?
「まだなんとかなる。毒を吐きだすんだ」灰色猫がいった。
灰色猫がいわんとしていることは理解できた。私は抱っこしていた少年の唇に私の唇を重ねた。すると、身体にたまった毒気・瘴気がどんどん吸いだされてゆくのを感じた。
転落していたはずのバスはふつうの姿勢になり、村役場前にあるバスターミナルに着いていた。
「麻亜胡お嬢様、お帰りなさいませ」
ドアが開きステップを降りると、私の家にいる、番頭さん、手代さん、女中さんたちが皆で迎えにきていた。
バスを振り返ると、行商人や町から戻ってきた村の人ばかりで、灰色猫と男の子、それに鬼もいなかった。
茅葺屋根の母屋と離れの群れが山裾の石垣平場に配されている屋敷。実家だ。バス停からそこに至るまでの畦道をみんなで歩いた。黄金色になった稲穂が首を垂れていた。そのただなかに人影がみえた。カカシではないが、人という感じでもない。しかし怪異という感じでもなかった。縁にたくさんの鈴がついた麦わら帽子を被った青い服の少年。――バスに乗っていた、あの子だった。
シャンシャンと鈴が鳴っている。
今年八十になった番頭さんにきいてみた。
「――あれかの? 〝新米っさん〟っていうんじゃよ。秋になるとやってくる。まっ、福ノ神だな」
少年が、千年前の堂宇がある、古いお寺のほうに歩いていった。すると私の前を灰色猫が横切った。
私は、ちょっと立ち止まった灰色猫が、少年を追いかけてまた駆けてだす間際にきいた。
「いったい、あなたって何者なの?」
――俺かい? 猫だよ。
番頭さんは、〝狐の窓〟をつくって、灰色猫が駆けてゆくのを見送っていった。
「きょうはどうしたものか縁起がいい。今度は、猫王様がこられた」
いわく、昔から、山寺の経典を守ってきた神獣とのことだ。
了
ノート20161012




