02 深海 著 風・かげろう 『怨風の谷』(前編)
風が吹く。
びゅおうびゅおうと、谷間におどろおどろしく吹きぬける。
深き地割れが無理やり押し広がったような大峡谷。
眼下に見えるは、清き流れの銀の筋。
杖突く老人がひとり、あたかも舞台のごときにせりだした岩の上に登る。
耳を澄ませているのか、じっと谷底をみやるその双眸は、まばたきひとつない。
「なんと物悲しき音よ」
漆黒のマントが、強風にはためく。
「つわものどもの、怨嗟の声であろうな」
『主ぬしさま。かのお国よりご使者が参りました』
背後より呼ばわる朧な声に、老人が振り向く。
カッと眼光鋭く見開いたその眼に、ゆらゆら揺らめくかげろうの炎が映る。
青白い炎は、ぼんやり人の形をとっている。
およそこの世のものとは思えぬ輪郭だ。
「しもべよ。ここはかつて戦場となった地」
黒マントの老人は杖で谷底を指した。
「三十年ほど前のこと、大スメルニアの軍勢が、エティアに進入しようとこの峡谷を渡ろうとした。その進軍を食い止めるべく、エティア王は容赦なく、谷にかかる橋を落としたのだ。長き橋を、スメラの国の兵士たちが、いままさに走り渡っている時に」
『それゆえに、谷底から魂のざわつきが聞こえまするのか』
ゆらゆら揺らめくかげろうが、痛みの入った声を発する。
『それは大変きのどくなこと』
「この世ならざるものとなりしも、まだ心はあるのか」
『こころ?』
「まあ、おまえはまだ死して、間もなきからであろうな」
杖突く老人はかつかつ音を立て、岩を降りた。
目の前に大きなくろがねの塊がある。皇すめらの国より飛んできた、鉄昆蟲クンチョンティエだ。
その姿はカマキリのごとしで、すらりと細身。節が重なる六本足は鋭利な針のよう。前の二本はぎざぎざの刃状がついており、なにものも切り裂かんと、ぎらと光を放っている。
円く黄色い複眼を頂くくろがねの首が、カクリと動いて横にもたげられると、腹部の騎乗席に座す者の姿がかいま見えた。
「ごきげんうるわしく、黒き猫の当主よ」
目を半ば隠した銀兜をかぶり、ぴちりとした銀色の服をまとうその者は立ち上がり、朗々と共通語で挨拶してきた。
「我こそは斉洲荘公・光閣下より遣わされし、スメラの風乗り甲月栄。誉れ高き羗家の第三分家の家長たる卿のお役に立てと、本家主公、光閣下より仰せつかってまいりました」
「その心遣い、かたじけなし」
黒マントの老人はずいと、鉄の虫の騎乗席に登った。
二つ連なる席の前へ腰を下ろすや、一瞬くわりと眉を上げる。
「芳香……」
つぶやきを聞いた風乗りが、唯一あらわな口元をくいと引き上げる。
「失礼を。きつうございますか」
「否。メニスの甘露のごときおぞましさではない。銀の髪のあの生き物の甘ったるい香りばかりは、なんとも辟易するものだが。そなたの香りは心地よい」
「この薫香は、羗家に仕えし者の匂いにございます」
「であろうな。我が家でも儀式の折にまとう直垂には、香を焚きしめる。そなたのものと同じ、伽羅の入ったものをな。しかしこの国では、洗い落とした方がよいかもしれぬ」
「素性がばれまするか」
「いかにも。まあ……」
黒きマントの老人は目を細め、スメラの風乗りの紅き口元を眺めた。
「王弟殿下にお近づきになるのであれば、その香りはむしろ助けとなろう」
「……ではそのままにいたしましょう」
風乗りの艶やかな口元がほころぶ。
「腾飞!」
りりしきその声とともに、しなやかな細さを誇る鉄の昆虫がふわりと浮き上がる。
「しもべよ。ついて参れ」
老人は、宙にゆらめく人魂のかげろうに命じた。
「エティアの新政庁はすぐそこぞ」
銀に輝く羽を広げ、鉄昆蟲クンチョンティエは飛び立った。
峻厳たるも亡者の叫び満ち満ちた、絶壁を飛び越えるために。
しゅかしゅかと、蒸気の雲が青空にたなびく。
ゆるやかな稜線を左右に望む平原を、長い長い金属の箱のような連なりが走っていく。
野に敷かれているのは、地平線の果てまで続く鉄の道。
先頭で箱の連なりを引っ張っているのは、鋭利な形の機関車だ。
左右に流線型の、竜の翼のような耳がついている。
「海の次は、山ですかー」
背に長い剣を背負った赤毛の青年が、地図を片手に機関車がひっぱる車両のひとつから顔を出した。
とたん、うっぷと煙にまかれて目をしばたかせる。
「すごい煙!」
中に体を戻せば、向かい合わせに据えられた座席に、銀の髪の美しい人が座っている。
その膝の上にはちょっと太目のウサギがいて、目じりをたらんと溶け落ちそうなぐらい垂らし、ニンジンクッキーをほおばっている。
ウサギは青年の雇い主。銀髪の奥さんに抱っこされているので、大変ご満悦だ。
美しい人の体臭なのだろうか、あたりになんとも甘い香りが漂っている。
花のような。果実のような……。
胸いっぱいに吸い込むとくらりとふらつきそうになったので、青年はぶるると頭を振った。
機関車の旅を始めてすでに数時間。
「カーリン元気かなぁ……牙王が見てるから安心だけど」
幼い娘は、今回は塔で留守番だ。牙王と狼たちは、銀枝騎士団とともに、隣の王宮の警護に駆り出されている。
機関車に乗っているのは、青年とウサギ。そしてその奥さんの三人だけだ。
「あのう、今回はどうして塔で行かないんですか? 走りがのろいからですか?」
「いやさすがにさ、谷は越えられないから。あの塔、走り幅跳びは無理なのよー」
ウサギは幸せそうな面持ちで、ニンジンクッキーをごきゅりと呑み込んだ。
甘い匂いがするその菓子は、青年が朝、塔の厨房で焼いてきたものだ。
「断裂の谷にはさ、昔ちゃんとでっかい橋がかかってたんだけど、ジャルデ陛下が落としちゃったんだよな」
「蛇をお妃様にしている陛下が?」
「そ。蛇にとぐろまかれてる陛下が。スメルニアと戦をしたとき、相手の軍団を止めるためにやむなくな。で、橋はそのまま復旧されないできたんだ」
現在エティアはかの大国と友好的な関係にあるが、ひと昔前までは仇敵同士のごとく争っていた。
双方の国内には、反エティア・反スメルニアの派閥がいまだ存在し、それなりに発言力がある。
ほんのささいなことで、戦へ発展する動きが活性化する状況にあるといえる。
「断裂の谷は、スメルニアと国境を接する大山脈にある。橋の向こうの山々に住んでる人はほとんどいないから、橋の修復はわざと行われてないまま、放置されてるんだ。万が一、友好関係が突如崩れてスメルニアが攻めてきても、そこで寸止めできるように、っていう国土防衛策のひとつさ」
「ところが王弟殿下が谷の向こうの、スメルニアとの国境すれすれのところになんと……塔を建てた……」
青年は地図を指でなぞった。
平野の真東。突き当たりにある山脈の、南方の部分。スメルニアとの国境すれすれのところに大きく印がついている。
そこが、目指す目的地だ。
「塔の建設だけならまあ、病弱な王弟殿下が、転地療法のためにこっそりそうしたんだって話なんだがな」
まさか、落とした橋の復旧まで勝手に始めるなんてと、ウサギは深いため息をついた。
王宮に呼び戻されたウサギはそのため、あやうく自身も反乱の疑いをかけられるところであった。
王弟殿下が建てさせた塔は、ウサギの塔に瓜二つ。しかも塔の建設や橋の復旧に使われている重機は、ウサギが作ったものだったからである。
『いやあ、おじいに限ってそんなことはないと思うけどさー。でもガルジューナが』
『これウサギ。返答次第では、そなたをごっくんと呑み込んでしまうわえ?』
『……って言うもんだからさぁ。いちおう確かめさせてくれや。おじいが俺の弟に、重機渡したわけじゃあ無いよな?』
国王陛下の体に巻きついたちっさな蛇は、賢くて猜疑心満々。
国の守護神たる神獣であるので、王家や国を脅かすものにはこと神経質である。
ゆえにウサギは王宮に呼び出されて事情聴取され、重機の回収命令を下されたのだった。
「それにしても困りましたね。王宮に置いていたポチ五号を勝手に持ち出されてしまうとは」
困り顔の銀髪の美しい人が、黒い衣の懐から耳かき棒を出し、ウサギの耳を掃除し始める。
耳をこしょこしょされ始めたウサギは、あはんうふんと、もじもじ身もだえし始めた。
「ああん、奥さんきもちよすぎぃ。あ、そこそこぉ。そこかゆいのぉ」
「ピピさん、王弟殿下は、国王陛下にも議会にも黙って、橋の修理をお始めになったんでしょう?」
「うん、そうみたい。そんなことすりゃあ、兄ちゃんに対する反乱と思われても仕方ないよなぁ」
「一体何を思っての、修理断行なのでしょうねえ」
「殿下がポチ五号で塔を建てたら面白くなっちゃって、さらに何か建設したくなったとかだったりして? だってあいつ谷をらくらく飛び越えられるし、あれよいう間に、塔をくみ上げられるのよー。ああんっ。ふひひ」
「あ、あのぅ」
気持ちよさそうに手足をぶるぶるさせるウサギ。
赤毛の青年は頬をほんのり赤く染め、もだえるウサギをそうっと視線から外した。
「この塔って、谷の上にあるんですよね? 我々は、どうやってそこまで登るんですか? やっぱり登山?」
「ああ、そろそろ飛ぶからそれは大丈夫……ああん、奥さぁん、そこぉ。そこ突いてぇ~」
「え? 飛ぶ?」
「ええ、飛びますよ」
微笑みながら耳かき棒を動かす銀髪の人。
しかし突然、その優雅な白い手の動きがひたと止まった。
「あら。ハヤトが」
「え? 奥さん?」
「ハヤトが、ピピさんの耳かきをしたいと……」
言うなり、美しい人の容姿がみるみる変わっていく。
「えっ!? ちょちょちょちょっとおおお、やだよおおおっ。まだ顕現したばっかりじゃん!」
うろたえるウサギを抱く白魚の手が、節くれだつ。紫の瞳は碧眼に、銀の髪は漆黒に……。
そうして美しい人はみる間に、まったく性別が違うもの――無精ひげがぼうぼうの、むさいおじさんになってしまった。にっこりうへへと笑う、黒き衣の導師に。
とたんに、あたりに漂っていた甘やかな芳香がすうと消えた。
「へへへへ。ぺぺえ、耳かきさせて♪」
「やだ! 奥さんがいい! お師匠さまのバカ! なんで出てくるんだよお!」
ウサギは怒り心頭、涙目である。
心地よかった耳かきを台無しにされては、さもあらん。ぐいとおじさんのあごを後ろ足で押しやり、ひょいとその膝から逃れ落ちた。
「ひどいや! 一度引っ込んだら、半日ぐらいおとなしくしててよ!」
「やーだね。こんないいこと、俺にさせないなんてダメだろ。ほらぺぺ、膝の上に乗れ」
「だが断る! なんで奥さん顕現装置のエネルギーをがっつがっつ食いやがるんだよぉ!」
「それはひとえに、愛の力というものだろうっ」
「顕現装置?」
「ああこれこれ、この腕輪さ。これのおかげで俺、時々銀髪のおねえさんにとって代わられるんだよ。俺はずうっと、外に出ていたいのにさぁ」
おじさんが口を尖らせて、手首にぴたとひっついている銀の腕輪を青年に見せる。
べったり接着されて剥がせなくされているらしい。
「人格を安定させる特殊な周波数を発してるとかなんとか……こらぺぺ、逃げるなって」
「こっちくんなー!」
釣り棚の上に飛んで逃げるウサギに、おじさんが手を伸ばす。
そのとき。ぐら、と車体が大きく揺れた。
「お! 浮遊モードに入ったのか?」
「おばちゃん代理、先頭の機関車に移れ!」
ウサギが青年の腕の中にぼすんと飛び込んできた。
「おばちゃん! 俺にぺぺをくれえー!」
「おばちゃんじゃないです、おばちゃん代理ですっ」
「逃げろおばちゃん代理!」
「うわわ」
赤毛の青年が、ウサギをひったくろうとするおじさんの腕をかわす。その動きがあまりに速かったので、黒髪のおじさんは一瞬目を剥いた。
「何だ今の?!」
「はい?」
「ほら。ほら。ほらー」
「お? お? おおー?」
腕をぶるぶる振って青年をつかもうとするおじさん。しかし青年の体は紙一重のところでひょいひょいと、その攻撃をかわしていく。
「なにこれ面白いー! 磁石がはじき合ってるみたいじゃん」
「面白がらないでくださいよ! こっちは必死なんですよ!」
「いやでも、すっげえ反射神経じゃね?」
「動体視力がいいんじゃないかー?」
青年の腕の中でウサギがにやりとする。
「なんかどこかの、どえらい体術のようにみえるぜ? 剣の使い方といい、やっぱ道場とかで本格的に習ってんじゃないのー?」
「はあ? そんな経験皆無ですよ! っととと……」
青年が身をかがめておじさんの腕をかわし、蒸気吹き出す機関車に走り移るなり。先頭の機関車が、めきめきと形を変え始めた。
「ポチ2号! 竜化変形! 浮遊モードから飛行モードへ移行っ!」
不思議なことに、ウサギが機関車に呼びかけるや。
『リョウカイ、マエストロ・ピピ!』
「な……! 返事? ていうか、つ、翼が出た?!」
赤毛の青年は仰天して機関車の窓から外を見やった。
いやそれはすでに、窓と呼べるものではなかった。
機関車は後ろの車両を半分切り離し、三両分ほどの車両を尾のように垂らしながら、空に舞い上がっていく。
輝く銀色の竜と化しながら――
「と、とんで、る!」
「うん。ポチ二号は、竜王メルドルークをモデルにしてるんだぜ!」
「竜王……!」
びゅおう、と風を切り。
しろがねの竜は長い尻尾をなびかせながら、蒼穹を飛んだ。
一路まっすぐ、断裂の谷間をめざして。
(つづく)