04 紅之蘭 著 足跡 『ハンニバル戦争・カンナエ会戦4』
【あらすじ】
紀元前三世紀半ば、第一次ポエニ戦争で共和制ローマに敗れたカルタゴは地中海の覇権を失った。スペインすなわちイベリア半島の植民地化政策により、潤沢な資金を得たカルタゴに、若き英雄ハンニバルが現れ、紀元前二一九年、第二次ポエニ戦争勃発が勃発。ハンニバルは、ローマ側がまったく予期していなかった、海路からではなく陸路を縦断し、まさかのアルプス越えを断行、イタリア半島本土に攻め込んだ。ローマのスキピオ一門との激闘もここに始まる。
大地はローマ兵で埋め尽くされていた。国家の存亡をかけて元老院議員八十名までもが市民兵に混じっているくらいだ。号して十万、実質は八万前後といわれている。
対するカルタゴ軍は寡兵五万であり、しかも雑多な民族・部族で構成されている傭兵の寄せ集めだ。
――勝てるのか?
そんな傭兵たちの声を代弁する者がいた。
ハンニバルの幕閣にギスコという人がいた。戦象ブケパロス上にいた若き隻眼の将領の傍らに、馬上にあって、親衛隊を侍らせ指揮していた。この人自体は精鋭の戦士だが、敵数は尋常ではない。カルタゴ軍は、折りを見計らって戦術的撤退をするべきではないのか。思わず、「なんという数だ!」と叫んでしまった。
すると三十歳になったカルタゴの将軍が不敵に笑った。
「ローマの軍勢のなかに勇士ギスコはいない」
その言葉は各言語に訳されカルタゴ全軍に届いた。するとあれほど張りつめていた空気が一気になごみ、笑い声さえもきこえてきたのだ。
カルタゴ軍から負けるのではないかという空気が払しょくされた。
両軍の陣形は、ローマ側が横列陣形をとり、カルタゴ側が凸形陣形をとっていた。
ローマ側は、最後方に、糧秣を荷車に積んだ輜重隊を本陣として一万、そして戦場に残る全軍七万前後をつっこんだ。
カルタゴ側は、最後方に本陣一万を置き、残り四万を戦場につっこんだ。
ローマ軍の布陣は、歩兵による中央軍、左右両翼の騎兵隊で構成されている。中央軍がセルヴィリアス前執政官、右翼騎兵隊がヴァロス執政官、左翼騎兵隊がもう一人の執政官で、当日総指揮官の当番になっていたワロだった。はじめは小手調べという感じで、カルタゴ側の左右騎兵隊がぶつかってきた。
ローマ軍両翼の騎兵隊は、カルタゴ軍両翼の騎兵を跳ね退けた。
カルタゴ騎兵が引くと、ローマ中央軍の前衛にいた軽装歩兵が、投げ槍をそれぞれ投じた。投げ終えると軽装歩兵は、後衛の重装歩兵軍の後方に退く。
いよいよ、両軍主力歩兵隊同士の対決だ。
ローマ中央軍が突撃を開始した。
あわせて左右両翼のローマ騎兵隊も動きだした。
左翼騎兵隊の隊伍にあって、日替わり当直の全権指揮官となっている、ワロ執政官は、カルタゴ中央軍の凸形陣形が少し気になった。しかし……。
――二倍の兵数なら確実に押し潰せる!
現に、カルタゴ騎兵隊はローマ騎兵に跳ね飛ばされたではないか。カルタゴ主力歩兵は奇妙な陣形だが、ローマ主力全軍で簡単に粉砕してやる。
一般兵士はもとより、将領の大半がそう感じていた。一時は、右翼騎兵隊を率いるもう一人の将領ヴァロスさえ、そんなローマ軍の空気に酔ったほどだったが、すぐに正気に戻った。
――これは敵の罠ではないのか?
ヴァロスが、麾下の一支隊を任せたスキピオのところに駒を寄せてきた。
「どうなされたのです、ヴァロス閣下」
「頼みがある」
「なんです?」
「娘がいる。父親の僕がいうのもなんだが美人だ。もらってくれ。君の父上に、以前、具申していた。あとは君次第なんだ」
執政官の娘、アエミリア・ヴァロスは十五歳になった。ローマでも屈指の美少女だと評判で、誰が婿になるのか常に話題になっていた。
――光栄なことだ。しかし、なんでこのタイミングで?
ヴァロス執政官は、「約束したぞ」と勝手にいい放って、駒を自分の隊伍に戻した。
それにしても、あの凸形陣形はなんなのだ?
やはり罠だった。
ハンニバルが周到に計算していた。
いかな大軍といえども、直接敵と剣戟を交える、兵士の接触面は限られている。カルタゴ中央軍の瘤に引っ掛かったローマ中央軍がそこで足止めされた。ローマ軍両翼の騎兵隊は、味方中央軍を置いてきぼりにする格好で、ズブズブと奥に引きずり込まれた。
凸状になった、カルタゴ中央軍の左右両翼として控えていたのは、相対する騎兵隊だった。全軍では倍するローマ軍だったのだが、こと騎兵隊に関しては、立場が逆転する。
カルタゴ軍騎兵隊一万。
対してローマ軍騎兵隊五千。
しかも、カルタゴ中央軍の凸形陣形によって、ローマ三軍は完全に分断されてしまった。まず、ワロ執政官麾下のローマ軍の左翼騎兵隊二千五百が壊滅、ワロ自身は近習五十騎とともに戦線を離脱した。続いて、ヴァロス執政官麾下の騎兵隊二千五百も壊滅。
ヴァロス執政官が、スキピオに命じた。
「この戦いでローマの将領の大半が死ぬ。将領の誰かが生き残って、次の戦いに備えねばならぬ。軍神ハンニバルの戦法を最も知っている者は君だ。スキピオ君、生き残れよ!」
「嫌です」
「ガキめ、軍令違反で叩き斬るぞ。スキピオ家の家名に脱走兵の汚名が残ってもいいのか?」
「閣下! 閣下! 閣下!」涙がこぼれ落ちて視界がかすむ。
「娘を頼んだ」
その言葉がヴァロスの最後の言葉となった。ヴァロス家から嫁をもらったスキピオは、さらに後に、嫁の甥っ子を養子に迎える。第三次ポエニ戦争において、完全にカルタゴを滅ぼすことになる小スキピオだ。
ローマ左右両翼騎兵が壊滅すると、カルタゴ中央軍から鳴り物が鳴った。音源近くに輿を載せた戦象がおり、隻眼の将軍が戦場一円を睥睨していた。
――ふん、バカめ。
カルタゴ中央軍は、凸形から凹形に陣形を変化させた。
「ハンニバル! ハンニバル! ハンニバル!」
馬上の若い将領がまた吠えた。ただ、いまは空しく、吠えるしかなかった。
カルタゴ軍はまだ数は少ない。……はずだった。
カルタゴ両翼騎兵隊一万が、突っ込んできた半数のローマ騎兵隊を、各固撃破してしまうと、そのまま前進してきて、ローマ中央軍の左右側面を衝いた。
長槍を標準装備とした重装歩兵は、正面には強いが、左右側面と後方からの攻撃に脆いという特性がある。特に騎兵突撃には、寡兵といえども、あっけなく粉砕されてしまうのだ。……加えて、アルプス越え以来の前哨戦で、ローマの精兵は消耗しており、戦場経験が浅い若年兵が大半を占めていた。
勝負あった。
ローマ中央軍指揮官旗が倒れた。馬上で指揮していた、セルヴィリウス前執政官閣下御討死! ヴァロ執政官が、瓦解寸前の中央軍の指揮を執った。
敵陣戦象上にいる隻眼の将軍はローマ軍の敗走すらも許さない。
前方と左右をU字に囲んだところに、ローマ中央軍の背後に別働隊を回して、退路に蓋をしてしまったのだ。袋の鼠とはこのことだ。
――包囲殲滅陣形!
ハンニバルの得意技で、同戦術は、後世二千年にわたって使われることになる。今回は、中央軍の凸形隊形という応用バージョンで、いままでのものよりもより完成度が高くなっていた。
スキピオが、ローマ軍の穀倉カンナエから二十キロ離れたカヌシュウムの市門をくぐり、たどりついたとき、出撃時に号して十万と呼ばれた友軍兵士の足跡は、わずかに数千人分のものだけだった。……ヴァロス執政官、セルヴィリウス執政官、ならびに従軍した元老院議員八十名討死。指揮官を失って降伏した本陣の一万将兵を除く、六万ないしは七万人と伝えられる兵士がこれに殉じた。
前哨戦からカンナエ会戦に至るまでに、通算十数万のローマ兵の血が流された。連戦連敗となる各会戦を目撃した青年将校スキピオは、ここにきて、ついにハンニバルの戦術の全容を理解した。そして瀕死のローマ共和国の救世主として歴史に名を残すことになる。
(カンナエ会戦・了)
【登場人物】
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《カルタゴ》
ハンニバル……カルタゴの名門バルカ家当主。新カルタゴ総督。若き天才将軍。
イミリケ……ハンニバルの妻。スペイン諸部族の一つから王女として嫁いできた。
マゴーネ……ハンニバルの末弟。
シレヌス……ギリシャ人副官。軍師。ハンニバルの元家庭教師。
ハンノ……一騎当千の猛将。ハンノ・ボミルカル。この将領はハンニバルの親族だが、カルタゴには、ほかに同名の人物が二人いる。カルタゴ将領に第一次ポエニ戦争でカルタゴの足を引っ張った同姓同名の人物と、第二次ポエニ戦争で足を引っ張った大ハンノがいる。いずれもバルカ家の政敵。紛らわしいので特に記しておくことにする。
ハスドルバル……ハンノと双璧をなすハンニバルの猛将。
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《ローマ》
コルネリウス(父スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ。ローマの名将。大スキピオの父。
スキピオ(大スキピオ)……プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。ローマの名将。大スキピオと呼ばれ、ハンニバルの宿敵に成長する。
グネウス……グネウス・コルネリウス・スキピオ。コルネリウスの弟で大スキピオの叔父にあたる将軍。
アシアティクス(兄スキピオ)……スキピオ・アシアティクス。スキピオの兄。
ロングス(ティベリウス・センプロニウス・ロングス)……カルタゴ本国上陸を睨んで元老院によりシチリアへ派遣された執政官。
ワロ(ウァロ)……ローマの執政官。カンナエの戦いでの総指揮官。
ヴァロス……ローマの執政官。スキピオの舅。小スキピオの実の祖父。
アエミリア・ヴァロス(パウッラ)……ヴァロス執政官の娘。スキピオの妻。