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8 ネクタイを巻くのは襟だけじゃない

 その晩、信じられないことに柊が合鍵をくれた。キーホルダーも付いていない、鍵そのもの。かれんは自分の手のひらにのせて、じいっと鍵を眺め入った。かれんの奥底から喜びがこみ上げてくる。

 これは、かれんが唯ひとりの彼女であるあかしだ。過去は問答無用と言われたが、その通りだ。今、柊を独り占めできるなら、それでいいじゃないか。


 お酒を呑まなかった柊は、かれんの自宅がある梶ヶ谷駅近くまで車で送ってくれると言う。呑まなかったのはこのためかもしれないと思った。そしてそのアウビィのマークは車オンチなかれんにもわかった。


 ーー大文社って給料いいらしいもんな。


 運転している柊がかっこよすぎて、かれんがガン見していたら、柊がちらっと視線を向けてきて「視姦しないでくれる?」と呆れ顔になった。


 ――バレてたか……。


 柊に家まで送ると言われたのだけれど、親に見られたら恥ずかしいと断ったら、少し不満げな顔をされた。結局、駅の近くに車を停めてもらい、かれんがドアノブに手をかけて出ようとしたとき、こう言われた。


「明日、部数相談に行くからよろしく」

 いきなり仕事で使う言葉が出てきて、かれんは一瞬、目をぱちくりとさせてしまった。

「あ、年末だから前倒しですね」

 急にですます語になっているかれんに、柊はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「今度は搬入日などちゃんとチェックしてから参りますので、お手柔らかにお願いしますよ」


 柊は上体をかれんのほうに傾け、ちゅっと軽いキスをした。

 窓口ではさすがにキスはしないだろうが、こういうノリで来られるとまずいと、かれんは急に不安になった。

 そこで「仕事に私情は挟みませんからね」と、軽く睨むと、柊は「こわ……」と、冗談ぽく肩を竦めて微笑んだ。



 翌日、いつもの窓口。……のはずだが、落ち着かない。いつあのパイプ椅子にイケメンな洋梨くんが現れるのかと思うと、心臓の鼓動が妙にドクドクと大きく聞こえた。

 だが、かれんは、そんなことをおくびにも出さず、いつものサイボーグと化し「こういう小さい付録はウケないから、部数はのせられませんね」と厳しい言葉を浴びせ………。


 ーーぎゃー! 後方に洋梨を目視。


 そしてその十分後、目の前のパイプ椅子に柊が座っていた。彼が意味ありげに微笑んでいる。

 かれんが微笑み返せば、後ろにいる芋の子にその表情が丸見えとなる。


 ーー悪いが私は微笑み返せない! 視線を合せない! 


 かくして、かれんの視線が向かうのはパソコン画面となる。

 かれんが雑誌コードを打ち込む。

「『きらきら』、今売りの初動は……よくないですね」

 ――ごめん。私はただの番人なので、あなたが担当の雑誌は守れそうにありません!


「今何%で最終的にどのくらいになると思いますか」

「今、二四%で、最終的に……五十%に届かないでしょうね」

「どうしてかな」

 かれんはひたすらパソコン画面しか見ていない。

「発売日に関西で雪が降ったことも関係あるかもしれません」

「じゃあ、次号は降らないと想定して前号並びでいいですよね?」

 ――でも他誌より落ち方がひどい……。

「調整が必要です」

「どのくらい?」

 柊の声が少し不機嫌な気がするのは、かれんの被害妄想なのか、どうなのか。

「六百部」

 こういう少部数の雑誌は流石に削り方も小刻みになる。

「天気で?」

「天気の問題以上に落ちています」

「じゃ、三百にしたら?」

 ――ちょちょっと、しゃべり方がプライベートみたいになってるよ~! 

 かれんは柊を早く帰したくてつい「では、三百で」って言ってしまった。次号は絶対売上率落ちるだろうなと思いながら。


 柊が去ったあと、しばし落ち込んでしまった。仕事に私情を挟んでしまったような気がしたからだ。

 かれんが次の”版元さん”を呼ぼうと視線を上げると、パイプ椅子に並んでいた二人がいなくなっていた。コンビニ分の部数相談をしに行ったのかもしれない。トイレに立つチャンスだ。


 トイレの個室に入ると、ほかの個室の扉が開く音が二回続いた。手を洗う流水音とともに二人の会話が聞こえてきた。


「なんかサイボーグ、イケメンだと態度違くない?」

 かれんは思わず固まってしまった。柊に一度も微笑んでいないつもりだ。そもそも目も合わせていない。

 ――何この言いがかり。 

「だよね。私らのときは、傲慢に部数減言い渡すって感じだけど、さっきのイケメンのときは申し訳なさそうな顔してなかった?」

「やっぱ、そう思った?」

 二人でどっと笑っていた。


 二人がかれんにムカついているポイントは部数を削るところではなく、かれんの態度かもしれない。だが、部数減に関しては、削っているのはかれんではない。読者だ。いち番人にすぎないかれんは、雑誌の仕入部数をその読者の評価に合わせるだけ。かれんが申し訳なさそうにする必要はないはずだ。

 かれんは既に用を済ませていて、出ようと思ったら出られたのだが、この二人の前に顔をさらすのがいやで、しばらく便座に座ったままでいた。


 柊もこんなかれんの噂を聞いたら、きっと嫌いになる。


 ーー残念ながら、あなたの彼女はみんなから好かれるような性格じゃないんだ。


 七時。かれんが帰ろうと思ったらスマホが振動した。柊からだ。

『まだ仕事終わってなくて、かれんより家に帰るのが遅くなるけど、今日絶対来て』というメールだった。

 かれんは今ひとりで帰ったらネガティブ思考ループに入りそうだったので、ありがたく感じた。



 一時間後、かれんはドキドキしながら合鍵で柊宅の玄関を開けて入った。リビングのテーブル上に印刷した紙が散らばっていた。その中のひとつは『CATS LIFE』というロゴと『フリーペーパー』などといった文字だけが入っている、これから表紙になるであろう画像だった。写真やイラストは入っていない。

 ――こんなの大文社、出してたっけ? 

 そんなことを思いながら眺めていたら、鍵を開ける音に続けて「ただいま」という柊の落ち着いた声が聞こえてくる。

 リビングから玄関のほうを覗くと、柊が立っていた。

「あ、晴輝! おかえりなさい」

 かれんは自然と笑顔になった。


 ――やだ~、私、まるで奥さんみたい!


「新婚みたいじゃん」

 柊もそう思ったようだ。


 かれんのどんよりしていた心の中にほわほわとした陽気が広がっていっていく。

 それなのに柊に「今日、愛想なさすぎ」という言葉を投げかけられ、急に心の中が曇天どころか雨天に急変。


「僕以外には愛想がないほうがいいけど、僕に対してあれはだめだな」

 そう言ってコートを脱ぎながらウォークインクローゼットのほうに向かった。

「でも、後ろに他社のひとが並んでいるから……」

 柊はカラー襟のシャツ一枚になって、ウォークインクローゼットから出てきた。なぜかネクタイを肩に掛けている。かわいいりんご柄だ。


「だからって、視線合わせないのはやりすぎじゃないの」

 かれんは思わず俯いてしまった。

「俯かないで答えて」

 柊は片手でかれんの顎を上げ、背を屈めて軽いキスをした。


 かれんは目を見開いてじっと眺め入った。


 なんと整った顔だろう。眉は濃すぎず薄すぎず、きりっとしていて、瞳の大きさも、睫の長さも、鼻の高さも、唇の薄さも絶妙だ。均整のとれた顔とはこういう顔のことだろう。だが、その顔がキスをするときには艶っぽい表情に変化する。その均整が崩れる瞬間に、かれんはいつもうっとりとしてしまう。


 柊はいつものように少し顔を離してじっと見つめながら質問を重ねてきた。

「なんで、会社では目を合せなかったの」

 柊の睨むような表情もクールでかっこいい。


 ――目を合せたら、絶対、“色に出にけり”になって、またどんな悪口言われるか。

 かれんは、そんな言葉が喉まででかかったが、版元さんに評判の悪い女だなんて知られたくなくて口を噤んだ。


 かれんが黙っていると、柊にジャケットを脱がされた。

 柊はかれんを抱き上げて、リビングの椅子に座らせた。


「いつまで黙っていられるかな」


 柊が、りんご柄のネクタイで椅子の背もたれの後ろでかれんの両手首を縛った。


 ――えええー!? もしやSM的な!? ちょっとそれはカンベン!。


 かれんが狼狽うろたえて目を泳がせていると、ストッキングを脱がされた。


 ――ぎゃー! いきなり!


 しかも柊が足元でかしずくような恰好になった。

「やめてー! ひゃーはははは」

 次の瞬間、かれんは爆笑していた。


「足の裏、弱いよね」

「ちょ、やめてよ~! くすぐったい~~~!」

 かれんが脚をばたつかせると、椅子もぐらぐらと動いたので、柊が片手で椅子を固定した。

「訳を話すまで、やめない」

「ひぃ~! ひゃっは」

「なんであんな意地悪したの」

「意地悪じゃ、なっ、ひょははは」

「ねえ、なんで」

 ーーああ、しつこい!


「……見惚れちゃうからだよ!」


 かれんが白状すると、柊の手の動きが止まった。

「なにそれ」

 柊が立ち上がった。

「仕事中、取引先のひとが後ろにいるっていうのに、彼氏を見てうっとりするわけにいかないでしょ」

 ――そんなことしたら、どんな陰口(たた)かれるか…。

 というか、そんな女がいたら、かれんも陰口に参加しかねない。


 ――ドン引きされたかな。


 かれんが恐る恐る柊の顔を見上げると、彼は眉を下げて片方の口角を上げた。椅子の背のほうに周り、手首のネクタイをほどく。かれんを抱き上げて、今度は柊がその椅子に座り、自身の膝にかれんを横座りにさせた。


「じゃ、今、好きなだけ見て」


 目の前で柊が微笑んでいる。そんなこと言われたら、それはそれで見つめにくいものである。かれんは両手を柊の背に回して彼の胸に頬を埋める。彼の体は大きくて温かい。

「かれん……」と呼ばれて顔を上げると、柊が愛情たっぷりの眼差しを向けてキスをくれた。

「かれん、好き。大好き」

 柊が頬をかれんの頭上に擦りつけた。

「私を好きって初めて言ってくれた……」

 柊はいつも『結婚しよう』だったのだ。

 ーー普通『結婚』より『好き』が先だよね?

 改めて変わったひとだと、かれんは思った。

「え、そうだっけ。じゃ、もっと言う。好き好き好き」

 今こそ、かれんが前から気になっていたことを聞くチャンスだ。


「一体どこが?」


 版元からサイボーグと呼ばれる、かれんのどこが好きだというのか。本当のかれんも知らずに、何か大きな勘違いでもしているのではないか。


「好きになっちゃったから全部……と言いたいところだけど、それじゃ納得してくれないよね?」

 かれんはぶんぶんと頷いた。

「それじゃあ、初対面のところから」

 柊はかれんの肩をぎゅっと抱いてくれた。


「あの日、僕は、取次の担当者名と連絡先だけ渡されて、取り敢えず、一番社から近い全販の月刊誌課に行ったんだ。病院の待合室みたいに並ばされて正直面食らった」

 ――やっぱり前任者がちゃんと仕事の引き継ぎしなかったんだな。

「待っている間、窓口にずらっと並んでいる三人を観察していたんだ」

 かれんのほうから見ると出版社社員がずらっと並んでいるように見えるが、パイプ椅子がわから見ると仕入れ担当者が机を前に、ずらっと並んでいるように見えるのだ。


「皆、版元に、申し訳なさそうな顔をしたり、無駄話をしたり……気を遣ってるんだけど、君だけは、テキパキとすごい速さで仕事をさばいていった。能面みたいだった」


「やっぱり……」

 ――能面……日本版サイボーグだな。


 かれんが項垂うなだれると、柊が髪の毛を撫でてくれた。

「能面っていっても怨霊系じゃなくて小面こおもて小姫こひめのほうね。上品で美しい顔を指す。君は媚びずに凛としていて素敵だったよ」

 ーーえええー!? 無表情サイボーグなのがよかったってこと――!? 

 人生は、何が幸いするかわからない。


「そして僕に対しても淡々と対応した。何の準備もせずに行ったのに、特に不快な表情も見せなかったね」

「あそこでは、感情のスイッチを切るようにしてるから……」

 サイボーグは悪感情も出ない。

「でも僕に目を合せるとスイッチが入っちゃうわけだね」

 柊がニヤッと笑って顔を覗き込んでくるので、かれんは自分でも顔がぼっと赤くなったのがわかった。


「そんな君が、書店で僕の話にコロコロ笑ってくれたから嬉しくなってしまった。それでつきあうことにした」

「え? そのときに? そんなことで?」

 かれんが呆気に取られていると、柊が犬みたいににっこり笑った。

「うん、そう。あのときから、かれん狙われてたの」

「そんなので好きになるなんて、変なひと……」

 かれんにじとっとした視線を送られても、柊はお構いなしだ。


「その後、君の行動はいつも予想を裏切ることばかりで、ハマってしまった」

「え? たとえば」

 自分を”普通”だと思っているかれんには意外な言葉だった。

「たとえば、ノーブラで来たり……」

 かれんは照れて「いや、あれは……」とごにょごにょと口ごもるのを見て、柊はクスッと笑った。

「私、晴輝のこと想像の斜め上行くひとだと思っていたよ。今も思ってる」

「どこが?」

「いろいろあるけど、まあ一番は、なぜか私のこと好きみたいだってこと」

「かれんはもっと自信を持ったほうがいい」

 柊はキスをしたあと、じっとかれんを見つめた。

 かれんは思わず、涙が出そうになる。

「晴輝……」

 ――あなた、どうして、どうして私の心をそんなに温かくすることができるの。

 かれんは、今日会社からそのまま一人で帰宅していたら部屋で泣いていたかもしれなかったのだ。柊の背に手を伸ばし、ぎゅっと抱きしめてしまう。


 ――晴輝は体も温かい……。


 かれんは、いつか柊に愛されて当然と思えるくらい自分に自信が持てる日が来るのだろうか、と不思議そうに柊を見上げた。

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