6 そういえば彼はモテるんだった……
そして遂に二十二日がやって来た。
「二千部減」
「様子見で、前号並び」
「千部減」
窓口にて、今日のかれんは、いつにも増して斬れ味鋭い。
なんたって何がなんでも、残業なしで六時半の新幹線こだまに乗らねばならないのだ。
ーー次は……。
「大文社さん」
個性のないスーツ男がパイプ椅子から腰を上げた。柊が編集長をしていた『sunny』担当の藤原だ。
広げられた次号の表紙画像を見て、かれんは違和感を覚えた。かわいいモデルがにっこり笑っている。でも、それだけ。
ーー何か物足りない……なんて思うのは、柊さん贔屓なせいかな。
そんなことを思ってじっとその表紙画像を眺めていたら、藤原に質問された。
「十一月売り、閉まりました?」
「え、ああ、そうですね」
ーーいけない、余計なこと考えちゃった。
雑誌コードを打ち込む。
「十一月売り、前号より返品率少し上がってますね。四三%」
つまり売上率は、五七%。この雑誌、売上が前年維持、または特集によっては売上が増えているという数少ない有良雑誌だったはず。
「十二月売りの初動は……今のところ三二%」
ーーげ、十一月売りの初動よりも更に悪い。
『この雑誌、半年以内に一気に部数落ちますよ』
柊が言っていた通りになるかもしれない。この成績だと部数維持できない。
「『sunny』ずっと安定していたのに珍しいですね」
「え、ああ。編集長が変わったばかりだから」
「変わると落ちるものなんでしょうか」
「急な交代だったから。ほら、あの、こないだ部数打ち合わせに来た柊が前の編集長です」
「珍しい人事ですね?」
「ん、まあ。今回はちょっと会社での事情で」
藤原は言葉を濁した。
――前から思っていたけど、どんな事情で異動になったんだ、あのひと?
かれんが怪訝な顔をしていると、マイナス要因として部数を落とされかねないと思ったのか、藤原は饒舌になった。
「また盛り返すと思います。柊は、まああの通りイケメンだし、人たらしで、外部の女性スタッフや女性作家を使うのがうまかったけど、今度の女性編集長もやり手なんで」
「そ、そうですか」
――女性スタッフや女性作家を使うのがうまかった……。
その言葉がかれんの頭の中でエコーしていた。
「珍しいですね」
「え?」
「いつも、数字以外は興味なさそうだったから」
ーーあ、まずい。“色に出にけり”ってやつかな。
「いえ、ただ、ずっと安定していたのに意外だと思っただけです……千部減で」
「あ、いつもの赤野さん」
藤原が苦笑した。
そのころ大文社三階の販売課では、まだ五時半だというのに柊がデスクで帰り支度をしていた。かれんとの旅行のためだ。
そこに現『sunny』編集長の井口顕子が現れた。ショートカットに有名ブランドのスカートスーツを着こなし、ハイヒールでツカツカと近づいて来る。いかにもキャリアウーマンといったいでたちだ。
「柊くん、販売部、慣れた?」
顕子が近くの椅子を転がしてきて傍らに座ったので、柊は内心、苛立ちながら腕を組んだ。新幹線に乗る前にコーヒーでも買って行こうと思っていたのだ。
「みんなそれ訊いてくるんですよね。仕事にはまだ慣れませんが、体調はいいです」
「何それ」
顕子がおかしそうに笑った。
「販売に来て、規則正しい生活になったんで」
「うっそ、やだ、柊くんじゃないみたい」
「自分でもそう思いますよ。でもやっぱ会社のソファーで寝るより家のベッドのほうがずっと気持ちいい」
「そりゃそうよ」
柊がちらっと顕子に視線を送った。
「井口さんこそ、服装が女性誌っぽくなったじゃないですか。漫画誌のときはデニムにTシャツだったのに」
「さすがにTシャツで広告回りする勇気はないわ」
柊はわざとらしく腕時計をチラ見して「ちょっと用事があるので」とスッと立ち上がってスーツを羽織った。
「ねえ、山田文子と会ってよ」
「異動する前に担当の桜田に引き継いだはずです」
「私たちが行っても、"ひいさん"に会わせてくれないと書かないって言い張るのよ」
「……今号の初動が悪いのは何も"ふみちゃん"が載ってないせいだけではないと思いますよ」
「感じ悪いわね」
「感じ悪いついでに、俺、今はもう編集じゃないし、自分たちでなんとかして下さい。で、これからデートなんで失礼します」
「デート? 柊くんが!?」
顕子は驚きのあまり素っ頓狂な声を出してしまった。
「俺、『普通』に目覚めたんです、じゃ」
柊が足早に去っていく。
顕子は椅子の背もたれに顎を乗せ、柊の後ろ姿を見ながら舌打ちした。
「リア充、爆発しろ」
かれんのほうも、出がけに電話が入ったりして、会社を出る時刻が遅れていた。なんとか出発五分前の新幹線こだまに乗り込む。指定席に着くが隣に誰もいない。スマホを見るが何も着信がない。
急に不安がかれんを襲った。
かれんはすっかり自信を失っていたのだ。柊について語った二人が二人とも、柊がモテるということを示唆したからだ。
嫌な想像ばかりが頭を駆け巡る。
たとえば、会社を出ようとした瞬間に山田文子から『今会いたい』というメールが届いたら来るのをやめるんじゃないか、とか。たとえ柊にその気がなくても、この出版不況下に初版二十万部を出せる作家を放っておけないだろう。
はたまた、今の『sunny』女性編集長に『次の号、全販のいけすかない女に千部も削られちゃったの。相談に乗って』なんて言われたら、もう来る気がなくなるんじゃないか、とか。全販は他社取次より率に厳しいので有名だ。部数の削り方が一番エグい。おかげで他社より売上率がいいのだ。
そもそも、かれんは無愛想だから出版社ウケが悪い。そんな悪い評判を聞いて『結婚』どころか箱根に行く気もなくなっているんじゃないか、とか。
ーー『サイボーグと結婚するなんて超ウケる!』って言われそう。
かれんがそんなことを考えていたら、柊の明るい声が耳に飛び込んできた。
「あ、もう席に着いてたんだー」
『ムーンバックス』の紙袋を手にした柊が現れた。ネクタイは外しているが、ダークブラウンのスーツ姿で、少年のような屈託のない笑顔を浮かべている。
――眩しい。
こんないい男がなぜかれんと箱根に行かんとしているのか。
かれんがじとっと湿った視線を向けているのに構わず、柊はビジネスバッグを棚に上げ、紙袋からムーンバックスのロゴ入り紙コップを取り出した。
「カフェラテ、よかったら。新幹線の中のコーヒー、あまり美味しくないでしょ」
かれんは素直に喜べず、こんなことされたら女性スタッフは仕事頑張っちゃうような、みたいな思考に陥ってしまう。
「ありがとうございます。柊さんはいつも美味しいものをくれますね」
「うん? だって、そうしたら、かれんちゃんが嬉しそうに笑ってくれるから」
一瞬、かれんの心の中で歓喜の鐘が大音量で響き渡ったが、すぐ我に返った。
ーー馬鹿な私。
かれんは自嘲する。柊は目の前の女が何を求めているか、それがわかって期待に応えているだけなのだ。つまりナチュラルボーン女ったらしである。
かれんがその紙コップを眺めながら俯いていると、柊が「どうした? 今日元気なくない?」と顔を覗き込んできた。
ーーああ、小首を傾げたビクター犬が、こんなに愛おしいと思う日が来るとは……。
かれんは柊の顔を見つめ返した。
「そんな顔を赤くして……そうか、今日のことで緊張しているんだね」
――きたー! またこのよくわかんない前向き発言……。
かれん、思わず白目。
「大丈夫。一週間経ってるし、きっと今日は痛くないよ」
――ちょ! せめて小声で頼みますよ!
かれんは顔が火照っているのが今度は自分でもわかった。
「益々赤くなってるよー、かわいー」と言って柊が楽しそうに笑っている。
ーー私がかわいいだって!?
かれんは柊といると調子を狂わされっぱなしだった。