5 幸せの斜め上
それにしても急展開にもほどがある。
ビフォー柊に戻ろうとリセットした瞬間、アフターどころかアンダー柊だ。一寸先は闇ならぬ、一寸先はピンクだったと言おうか。
――恋って突然来るものなんだな……。
そんなことを考えながら満員の終電で揺られていると、スマホが振動した。
柊からのメールだった。
『下北沢の駅は、ややこしいから明日、一時に「カフェ ホーチミン」で待ち合わせしましょう』とあり、またしてもお店のURLが貼ってあった。
実は、帰りのタクシーで『和食、イタリアン、エスニックなら、何が食べたいか』と聞かれ、かれんがエスニックと答えたのだ。
ただ、かれんは、ずっとひっかかっていることがあった。
柊から一度も好きだと言われていないことだ。
社会人だから、中高生みたいに『好きです。付き合って下さい』などと告白から始めるわけではないのは、かれんだとてわかっている。大の大人がこだわるのはおかしいのかもしれないが、自分だけ『好き』と言わされておいて、これはフェアではない。
――明日、どこかでチャンスを見つけて、訊いてみよう。
一旦そう決意したものの、こんな藪蛇な質問して、『君が僕のこと好きみたいだから相手してやっただけ』と答えられたら……などといったマイナス思考が襲ってきたりする。
頭の中をプラス思考とマイナス思考がぐるぐる回っているうちに、翌日がやってきた。
少し道に迷い、一時を五分過ぎてから、かれんは『カフェ ホーチミン』に辿り着いた。白い壁に、赤いソファ、ホーチミンの顔を現代アート風にした絵が飾ってあったりするセンスのいいカフェだった。シモキタの底力を見た。
手動の木製ドアを開けて店内に入ると、奥の席で柊が、また犬みたいな笑顔をかれんに向けてくれた。
思わず、かれんの顔も綻ぶ。
ぐるぐる思考が一瞬で止まり『もう、セフレでもいいです! 抱いて!』みたいな結論に至った。
スーツ姿でない柊は、襟つきの白シャツに、だぼっとしたカジュアルなグレーニットを合わせていて、髪も少し無造作で、いつもより若くかわいい感じだったのだ。
かれんは昨日読んだファッション誌に一番モテると書いてあった白のニット。ちなみに、スカートとコートは無難なグレー。
かれんが座ると、柊はメニューを差し出し「ここの生春巻き、東京一だと思ってるんだ」と言った。
実際、それは今までで最も美味だった。蕩けるエビ、繊細な野菜、細かいピーナッツの感触、ソースのちょうどいいピリ辛さ、全てにおいて、かれんの中で一位を獲得。
――美味しいものを教えてくれるひとって……最高!
そんなことを思いながらも、楽しく食事をした。
デザートのチェーを食べ、「ごちそうさま」といった瞬間、柊の目つきが犬から狼に変わり、かれんの双眸を見据えた。
「うち、来るよね?」
――えええ? もしや真昼間からですかい?
かれんは自分でも顔がぼっと熱くなったのがわかった。ただ、まだ心配事があった。かれんは腹筋がないから、食後はしばらく腹が出ているのだ。
ボクサーパンツの次はでっぱらと、慣れぬ恋愛に次々とハードルが現れる。
かれんが黙ってそんなことを考えていると、柊は目を眇め、さらに獰猛な顔つきに変わってきた。
「昨晩、我慢させておいて、これ以上引っ張らないよね?」
かれんは「は、はい」と小声で頷くことしかできなかった。
実は、かれんは今日、賭けに出ていた。
昨日ブラとパンツがばらばらなのがバレて、今日は上下白というのもいかにもで恥ずかしい。敢えてまたボクサーパンツにするとしても、合わせるがブラない。悩んだ挙句、ノーブラで臨んでいた。こじらせ女子は時々、理解しがたい結論に至ることがある。
――この選択が吉と出るか凶と出るか。
果たして部屋でそれがバレたとき柊は「こういうの、好き」と、こじらせ選択を歓迎してくれた。かれんはあっけなく「好き」という言葉を手に入れたのだった。早くも目標達成である。ずっと腹部に力をこめてでっぱらを引っ込めていたかいがあったというものだ。
だが、ことが終わったあとベッドの上で「で、いつ結婚する?」と当たり前のように訊かれて、かれんは急に我に返った。
「でもまだ、知り合ったばっかりですよね?」
「知り合ったばかりの男に処女あげちゃうなんて、どんだけ俺が好きなんだ」
正確にはかれんは処女ではない。セカンドバージンだ。
――やばい、勘違いされている……。
それにしても二十八で処女だなんてどんだけモテないんだ、とかならわかるが、どうしたら、こういう結論になれるんだと、かれんは首を傾げた。かれんがモテるとでも勘違いしているのではないか。
そんなことを考えながら、かれんは柊の双眸を覗き込んでいた。
「その目つきはOK、だな」
柊にぎゅっと抱きしめられ、キスをされた。
――こんな、なし崩しでいいんだろうか!?
このあと一日中いちゃいちゃした。かれんは自分が男とそんなことをする日が来るなんて……と笑いそうになっていた。
夜は、鮮魚が美味しいという居酒屋で食事をした。木造の古民家みたいなお店で、魚を見て選んで、刺身にしてもよし、イタリアンにしてもよしという面白い店だ。さすがシモキタ。
オレンジ色の間接照明の中、木製テーブルに向かい合って座っている柊は雰囲気があってかっこよかった
。そんな彼に酔いしれていたというのに、またびっくりするようなことを言われた。
「ロストバージン、やり直したいんだけど、クリスマスイブはベタだから、天皇誕生日の前夜どこかで一泊できる?」
もう十日もない。そしてかれんが五年前にロストバージン済みなんて今更言えるわけがない。
「そういうとき、自宅暮らしのひとってどうするの?」
なんの照れもなく、素朴な疑問という感じで、柊が目を合わせてきた。
前カレのときは、かれんが出張のとき、出張先に突然やって来るという荒技をされたのだった。三年も付き合って何もないので、彼も業を煮やしたのだろう。
ただ、あのあとかれんは二十代前半だった。今や二十代後半だから、一泊してもむしろ親に歓迎されそうな気がしてならない。だがかれんは、初潮のときにお赤飯炊かれるぐらいなら自害したいタイプだ。そんなかれんが『彼とお泊まりするから、明日の晩御飯いりませ~ん』なんて言えるはずもない。
そんな葛藤をしていたら、柊が手を伸ばしてきて、テーブルの上にあったかれんの手の甲に手を重ねた。
ーー大きくて温かい手……。
そんなことをされたら、もう今日、いや、今すぐ、『お願いします!』と頼んでしまいそうになる。
「ごめん。困らせて。きっと厳しいおうちなんだね。だから……」
柊は『だから今まで処女だったんだね』と言いたいのだろうが、かれんの家は厳しくない。かれんがこじらせているだけだ。二十八の娘に男の影がちらついたら、親には旗振って歓迎されそうだ。ただ、かれん軍曹がそこで勝ってくるぞと勇ましくお泊まりにでかけられるほどオープンになれないだけの話。
「柊さんとお泊まり……したい」
ごくりと唾を呑み込み、かれんは柊をじっと見つめた。もの欲しそうな目つきをしているはずだ。実際、頭の中はめくるめく妄想でいっぱいだった。
柊は、まいったな、みたいな感じでもう片方の手で自分の口を覆い、かれんの瞳をじっと見つめ返した。
「アリバイ作ってくれる友だちとかいないの?」
かれんは二十八だから、そんな高校生みたいなことしなくても外泊しようと思ったらできるのだが、友だちいないと思われても嫌だ。
「頼んでみます」
柊は嬉しそうに微笑み、どこに泊まりたいかを訊いてきた。
かれんは、かなり頑張ってかわいいことを言ってみる。
「ヒイラギサントナラドコデモ」
すると柊に、盛大に尻尾を振られた。
翌朝、理恵にメールした。相談があるので食堂ではなく外のカフェで食事をしようという内容だ。
すぐに返信がありOKとのことだった。メールに『あの合コン件かな(≧∇≦)』という一文があり、勘違いしていることがわかった。
十二時に会社を出て、近所のカフェでパニーニとスープのプレートをテーブルまで運んで二人向かい合って座った。お昼休みは一時間。時間が限られているので、かれんは早速、柊とのお泊まり計画のことを話した。すると、理恵に青天の霹靂みたいな顔をされた。
「そ、そんなに驚いた?」
「……お、驚くよ! この、全く男の気配がしなかった友人が急に彼氏とラブラブみたいな話をし始める現象に、誰か名前を……」
そう言って、理恵は両手でこめかみを押さえた。
「ごめん。合コンお願いしてたのに」
「あのとき、背後に立っていたひとでしょ」
「そう。大文社の柊さん」
「それより合コンの現場見られて、なんで急につきあうことになるんだ……普通逆でしょ」
疑問に思っていたことだったので、かれんは身を乗り出した。
「だよね!? 合コン行く女って男ウケ悪いはずだよね!?」
すると、理恵の目が悲しげになった。あなた、本命じゃないかもよ、という目つきだ。
「……あのひと、モテそうだから気をつけたほうがいいよ。確か、山田文子は担当編集とつきあってたんじゃなかったっけ」
冷水がざばーっと、かれんの頭上にかかった。
そういえば、かれんも最初はそう思って、ビフォア柊に巻き戻したのだった。柊の『定年退職後のおじさん』という言葉をかれんが信じないでどうする。
「私もネットでその噂見たけど、違うと思う」
実は既にそこらへんの情報は検索済みだ。
すると理恵に、ふーんと、冷めた目で見られた。
恋は盲目だと思われているのだろう。明らかに騙されているのに恋に夢中という友人の話は誰しも聞いた経験がある。もちろん、かれんだってそうだ。
だが柊はなぜか、かれんにぞっこんなのだ。そんなことを言ったら呆れられそうだから、かれんは口を噤んだ。
「で、私は、一週間後、赤野とどこにお泊まりしたらいいの?」
これだから理恵は好きだ。
「箱根」
今朝、また旅館のURLを貼ったメールが来たのだった。
「なにそれ、もしかしてホテルじゃなくて旅館ー!? エロいー!」
かれんは頬を赤らめ、パニーニを口に押し込めた。