4 狼に狼狽
三十分後、かれんは渋谷のバー『earth』の前に立っていた。地球儀のような青いランプとグーグルマップがなければ、ここがバーだとは思わず通り過ぎていただろう。白くひょろ長いビルの一階にシンプルなドアがあるだけで、店名の入った看板も何もなかった。
渋谷駅の東がわというと、ヒカリエの印象しかなかったが、青山のほうに行くと、こういう隠れ家バーもあるようだ。かれんは、そのドアをそっと開けた。
中の壁もテーブルも白で、青い間接照明が怪しい感じだ。テーブルが五つあり、半分くらいが客で埋まっている。
カウンターに柊がいて、かれんに気づくと笑顔になった。あの犬みたいな人懐っこい笑顔だ。
その瞬間、かれんの心の底から喜びが湧き上がってくる。
――私、このひとが好きだ。いつの間にか好きになっている。
市場に出たいとか、平積みされたいなんて言っていられたのは、好きな人がいなかったからだ。突然現れた恋は、頭でっかちなかれんの屁理屈をかち割ってしまった。
「よく偶然お会いしますね」
かれんが心臓をどくどくと鼓動させながら、横に座ると、柊が首を捻って顔だけかれんに向けてきた。
「神保町で遇うのは偶然じゃない」
かれんもそう思っていた。柊はかれんのほうをじっと見据えて続けた。
「でも、三回続けば必然だ」
柊の視線は肉食獣が獲物に狙いを定めたときのようなそれになり、かれんはビクッとしてしまう。
――私は小鹿か!
メニューを見てドリンクを頼むより、バーテンダーに好みの味を伝えたほうがいいと言われたので、かれんが「柑橘系で、甘さ抑え目で、炭酸で……」と頼むと、“はるか”というレモンとオレンジの中間のような柑橘が添えられたシャンパンベースのカクテルが現れた。口にしてみると、それは理想的な味だった。
「おいしい! 今までで一番好きかも……」
好きなのはカクテルなのか、横にいる男なのか、なんてうっとりしていられたのはここまでだった。
「で、僕は何番目なわけ?」
かれんが驚いて、ゆっくりとカクテルから柊の顔に視線を移すと、以前書店で見かけたあの、狼モードの目つきになっていた。ちょっと攻撃的な、逆らったら噛まれそうな、そんな感じだ。
柊は、かれんに近いほうの手でウイスキーグラスを掴み、遠いほうの肘をテーブルに突いて手に顎をのせていた。
かれんは柊を見つめたまま狼狽えていた。
「質問を変えましょう。あなた、私のこと好きでしょう?」
なぜか目を眇めて訊かれた。
「え……」
かれんの狼狽度が更に上がり、目を泳がせてしまう。
「それなのに、なぜメールをくれなかったんです」
「え? お礼のメールしましたよね?」
「いつなら呑みに行けるとか、そういうメールはもらっていません。忙しいとかそういう言い訳はなし。合コンする時間はあったわけだから」
――まさか、このひと、私がスケジュールを出すのを待っていた!?
「柊さんのほうが忙しいでしょうから、柊さんが日程を出してくれるのかと…」
「僕は定年退職後のじいさんだって言ったでしょう」
――確かに。
でも何か腑に落ちない。普通男から誘うものだし、しかも今日、柊は女と食事していた。
「定年退職後のおじいさんが、いろんな女性とごはん食べに行ったりしますか?」
「それは今日のこと? あれは編集のとき世話になったイラストレーター。だが、これが嫉妬だとしたら、いい兆候です」
――ええ嫉妬です。
なんて答えられるわけもなく、呆然としていると、柊が詰問口調で訊いてきた。
「あなたは僕のことが好きなのか、嫌いなのか。もし好きなら何番目なのか」
かれんは目の前のカクテルをぐぐっと飲み干した。
ーー今日は合コンでも飲んだ。私はきっと酔っている。今なら、本音だって何だって話せるはずだ。
かれんはキッと、柊を見据えた。
――狼に受けて立とうじゃないか。
「好きです。もちろん一番目に決まってます」
柊は少し驚いた顔をした後、ニヤッと笑って、マスターのほうに視線を向けた。
「チェックお願い」
この店に着いたばかりなのに、柊は何をしようというのか。
「な、何を……?」
「好きな男とやることはひとつだろ」
柊は犬に戻って人懐っこい微笑を浮かべたが、言っていることは完全に狼だった。
彼が店を出るなり、かれんの腕を引いてすたすたと歩き始めたので、かれんは小走りとなる。
「あ、あのどこへ…?」
柊は、かれんのほうに振り返り質問で返してきた
「門限は?」
「終電までに帰れれば……」
「終電何時?」
「十二時半です」
「わかった」
柊は六本木通りでタクシーを拾い、かれんを先に乗せてから入って来た。運転手に道順を説明し始める。
「下北沢のほうなんですけど、まず淡島通りに入ってもらって……」
柊の最寄駅は下北沢、つまり自宅に行こうとしている模様。
「いつも渋谷からタクシーで帰るんですか?」
鎌をかけてみた。
柊は、ぽふっと、シートに背を凭れかけさせ、横目でかれんを見た。
「夜遅いときはね。終電まであと二時間弱……」
――やはり、自宅だ!
「電車のほうが早いかもしれないけど、今の時間帯は満員で、こういうわけにはいかない」
かれんが、どういうわけだ?と思っていると、柊の顔が近づいて来た。
ーーえええ―――!?
タクシーの中でそんなことをするのに抵抗があったが、かれんは自分が酔っているはずなことを思い出した。酔っ払いは往々にして恥知らずになるものだ。
実のところ、柊がお天道様の下では絶対しないような色っぽい目つきをしていたので抵抗できるわけもなかった。
かれんは五年間、男と縁がなかったので忘れていたが、恋愛すると、男は普段見せないような表情や言葉を女にくれる。
柊はかれんの左右に手をつき、深く長く口づけた。
思わず両手を彼の背に回してしまう。思ったよりガタイがいい。大きく、厚い。
――……このまま一緒にいたい。
そう思った刹那、かれんはショーツが五百円のユニグラ……という酷な現実を思い出してしまった。
現実はいつも厳しい。
柊が唇を離した。離したあとも、その距離、恐らく五センチ以下。半ば閉じた双眸が色っぽい。睫が長い。
――そんなことで、恍惚としている場合ではない!
かれん軍曹は今、目の前にある危機に対処せねばならないのだ。
どうも男は女を自宅に連れ込もうとしているようだが、それは、かなり、まずい。ほいほい付いて行く女は、せいぜいセフレ止まりだ。そもそも女は男に好きだとは言われていない。
そして、何よりもまずいのは、ショーツがユニグラの柄物、よりによってボクサータイプということだろう。セフレにすらなれない予感が満ち満ちている。
そんなかれんの懸念もなんのその、柊はまたかれんに口づけた。今度は角度を変えながら何度もキスをしてきた。
かれんは背中に回していた手にぎゅっと力をこめた。
すると、柊が嬉しそうな顔になった。
「今日、帰したくない……」
かれんも本当は帰りたくなかった。ショーツがりんご柄のボクサーでさえなければーー。
「そ、そんなこと言わないで。柊さんのおうちに行ったら、すぐ帰らないと……」
かれん軍曹はスカートを脱がされる前に、可及的速やかに渋谷に戻り、田園都市線に飛び乗らねばならなかった。
「十二時までにうちを出れば大丈夫だよ」
「で、でも、今、もう十一時くらい……でしょ?」
「“もう”じゃない。“まだ”だ」
柊はそう言うやすぐに運転手に向かって「あ、ここで大丈夫です」と告げた。
タクシーを出ると、五階建てのおしゃれなデザイナーズマンションがあった。
今度は、柊は手を引かず、肩に手を回してきて、城の石垣みたいなエントランスへと向かった。
「あ、あの、つい、来ちゃいましたが、お部屋を拝見したら、すぐ帰りますね」
柊はちょっと不満げな表情になって私に半眼を向けた。
「いつから、そういう企画になった…?」
「え、じゃあ……で、でもそれは困ります」
エレベーターに入ると、彼はまたキスをしてきた。
「なんで困るの?」
ショーツが……と言うわけにもいかず、しばらく悩んだ挙句、かれんは清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、かわいいことを言ってみた。
「ヒイラギサントノハジメテハモットユックリ……」
棒読みだったかもしれないが、かれんのキャラからすると、これが精一杯だった。
柊は少し驚いたような顔をしたあと、犬っころみたいに笑ってぎゅっと抱きしめてくれた。
「やっぱりラビラビちゃんだ」
――はあ? デレた覚えないんですけど。
そんな疑問を抱いていると、三階の部屋に連れ込まれた。ドアを閉めてから柊は告げた。
「今日は確認だけさせて」
――確認?
この男は言葉の使い方が独特だ。
玄関に足を踏み入れ、廊下を歩くとダイニングキッチン、その奥にドアがふたつあった。2DKだ。ひとつはドアが閉まっていて何の部屋かわからないが、私が連れ込まれたのは……やはり寝室だった。目の前にグレーのベッドカバーのかかったセミダブルベッドがで~んとあった。
ぎょっとして、柊の双眸を見つめ「どういうこと!?」と語気を強めた。
「下着だけ確認させて」
ーーえええええ!? むしろそれが嫌で、拒否してるっていうのに――――!?
「どうして、そんな必要が?」
慌てるかれんを柊は抱き上げ、ベッドの上にそっと仰向けにさせた。
彼は眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。
「合コンウケしそうな服着やがって」
――急に来たー! 狼モード!
それにしても、なんで脱がすのに不機嫌になってるんだ?
かれんより二回りもガタイの大きい柊が上に覆い被さった。彼はまずアンサンブルのカーディガンを剥がし、七分袖のニットとスリップをいっしょくたに上げた。ブラを見られた。
――もしや、下着マニア?
ちなみに、これはお金がかかっている。オーダーメイドだ。かれんは胸に合ってないブラをすると一日中気持ちが悪くなるのだ。デザインも少しレースがついているし白だ。
ーーここで終われば乗り切れる!
「レースか」
舌打ちの音こそなかったが、舌打ちするような顔をしていた。
――レース、お嫌いですか?
彼の手が今度は、スカートに向かった。
――これはヤバイ!
「ちょ、それは……だめ!」
かれんは柊の腕を掴んだが「何もないから」と言って、スカートを捲った。
肌色のストッキングに押しつぶされて、無様に歪んだボクサーパンツがそこにあった。しかも、りんご柄。
――私の恋、終わった……。
しばし二人とも固まっていたが、柊が沈黙を破った。
「白のレースにボクサーパンツ!」
柊が犬に戻って天真爛漫に笑っている。
かれんは無言で起き上がり、スカートを直し、ニットとスリップを下げた。
「じゃ、帰ります……」
無表情でそう言うと柊に腕を掴まれた。
「ごめん、馬鹿にしてるんじゃない。安心しているんだ」
ーー本当に、この人の言葉、意味がわからない。
柊はほっとした顔で微笑んでいた。
「勝負下着で合コンに参加していたら、どうしようかと思っていたんだ」
かれんは口をあんぐりとさせてしまった。開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。
「え? 確かめるって……そういうこと?」
柊は当然という顔をしていた。
「そう。バーに呼んだのも合コンの二次会を阻止するため」
合コンに行く女は一般的に嫌煙されることが多いが、世の中いろんな考え方があるものだ。
「ドタキャンがあって、今日、社員食堂で誘われただけですから」
前々から頼んでいたのを隠したはかれんはずるい女だろうか。
「何それ。芸能人になったキッカケは、友達が勝手にコンテストに応募したから、みたいな…」
柊のコメントは相変わらず表現が変わっているが、的外れではなかった。
「じゃ、そろそろ帰りますね……」と起き上がったところで、また柊に腕を掴まれ、今度は、ベッドに倒された。
「もう一回だけキスさせて」
また艶っぽい視線を向けられ、彼の首に手を回してしまう。下着もバレたし、このまま一気になだれこみたい感じだが、帰るしかあるまい。
柊は唇を離し、顔を近づけたまま言った。
「明日、会える?」
明日は土曜日だ。
「あ、はい」
「じゃ、会って」
また犬になった。背後にふりふり揺れるしっぽが見える。その後タクシーで渋谷まで送ってくれて、改札で別れた。本当に"下着確認"だけで終わったのだ。
ーーでも、きっと明日はそれだけで終わらないんだろうな。
明日、両方白レースだとあざとすぎるし、一体どんな下着を身につければいいのか。
恋に慣れない乙女の悩みは尽きない。