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3 神保町で遭うのは偶然じゃない

 神保町にあるのは書店だけではない。書店よりずっと多くの飲食店がある。だが、地下鉄半蔵門線に乗って柊に連れていかれた店は表参道のおしゃれな和食店だった。

 かれんは、会社の人間に見られずに済むとホッとする一方、男と二人きりでの食事が五年ぶりで少し緊張していた。 


 仲居に案内された木製のテーブル席に着くと、竹の生えている中庭がガラス越しに見える。その風流さに、かれんは思わずこう尋ねた。


「こういうところで、作家さんと打ち合わせするんですか」

「したこともありますね」

 過去形で答えられた。


 先付は卯の花和え。すごく優しい味がして、かれんが「美味しい」と微笑むと、柊は「でしょ。ここ雰囲気だけでなく、味もいいんです」と満足そうに笑った。


 流行りの創作和食などではなく、定番和食メニューに葉物や花がかわいく飾られ、五臓六腑に優しく沁み渡る味だった。


 ――お店は選ぶひとに似ている。


 味にほだされ、かれんは、柊のことを一見派手だけれど、中は優しいのかもしれないとまで思うようになった。ただ、一瞬見せたあの狼のような表情が気にかかっていた。


 かれんがそんなことを考えていることも知らずに、柊は、流通について不思議に思っていることを次々と尋ね始めた。かれんもよくわかっていないことがあり、少し情けなくなる。


 たとえば、書店の注文を受け、取次の倉庫に搬入してから書店に着くまで、なぜ一週間もかかるのか、という質問。


「販売に異動になって、全販の倉庫を見学に行ったんです。そしたら、一分一秒を無駄にしないくらいの勢いで、書店別に本を仕分けている現場があった。一体どこで時間のロスが起こるんです?」


 もっともな疑問だが、かれんには「都内の超大型書店だと、すぐ着いたりするんですけどね……」としか答えられなかった。


 柊は納得がいかないという表情を浮かべている。


 柊はかれんではなく、取次のシステムや流通に興味があるだけだと、かれんは少し落胆したが、柊への興味はそれを上回っていた。


「柊さんは、入社して初めて編集以外に配属になったんですよね?」

「ええ」

「販売に異動して、いかがですか」


 ――編集に戻りたいんでしょう?

 そう予想しながら訊いた。


 すると、柊はお猪口の日本酒をぐっと全て呑みほしてから、じっとかれんを見つめて、ぼそりとつぶやいた。


「プライベートができた」


 かれんが意味を捉えかねて口をつぐんでいると、柊が続けた。


「今まで二四時間戦っていたんですよ。原稿ができなきゃ夜中だって作家のところに行くし、会社でメールを待っていたりする。編集長だから、編集部員やライター、関係者からも電話が入ればすぐ出ないといけない。早朝だって電話に出る。僕のところにかかってくる電話は大抵トラブルがらみだったりするしね」


 淡々と語る柊さんの顔をかれんは、まじまじと見てしまう。今までの”編集上がり”とは明らかに違う。


 ――このひと、本当に仕事してきたひとなんだわ……。


 それなら、なぜこんな人事が行われたのかと、かれんは不思議になる。


「販売だと、それがないわけですね?」

「ええ。仕事相手は会社員オンリーだから、夜中に電話をかけてきたりしない。だから僕は異動したてのとき、定年退職後のおじいさんみたいになってしまった」


 その似つかわしくない例えに、かれんはぷっと噴き出した。


「笑わないで。会社帰り、本当に何をすればいいのかわからなくて、毎日映画館に行ったりしたぐらい」


 かれんは、柊といるとよく笑っていると自分でも思う。

 すると、柊はビクター犬みたいに小首を傾げて微笑んだ。


「僕に十年ぶりにプライベートができた記念に、またごはん、つきあって?」


 そこで思わず、頷いているかれんがいた。二回目があるというのは……そういうことなんだろうかと期待してしまう。


 ただ、かれんにとって大きな問題は、五年も恋愛していないから、どういう順序で“付き合う”に至るのかが思い出せない――ということだ。


 ごはんは十時くらいに終わった。かれんが化粧室に立った隙に支払いを済ませたようで、払わせてもらえなかった。男に奢ってもらうなんて何年ぶりだろうか。女扱いしてもらえたようで嬉しい。


 親と暮らしていると言ったらすごく驚かれ、二軒目はなしで、そのまま帰宅することになった。

 その驚き具合からして、作家や編集者はきっとみんな独立して、一人暮らしを謳歌しているんだろう。早く帰らないといけない自分は、柊にとって付き合いづらい相手なのかもしれない。



 かれんがそんなことを思っていると、柊はそれを察したのか「今度は呑みに行こう」と言ってくれた。


 それにしても、“ごはん”や“呑み”がプライベートだとすると、彼は一体、私のどこを気に入ったというのだろうかと、かれんは首をひねる。取次の仕事について聞きたいとか、そういう目的があってのごはんだと考えたほうが納得できる。彼はプライベートでも仕事をしてしまう(・ ・ ・ ・ ・)タイプに見えるからだ。


 取り敢えず、スマホのメルアドを交換して別れた。


 帰宅して二階の自分の部屋に上がり、『ベアベアちゃん』の冒頭を読んだだけで『笑うとかわいい』の意味がわかった。ベアベアちゃんは、クマということで、みんなから怖いと思われているのだけれど、実は笑うととってもかわいい女の子、という設定だった。

 ――そういうことか!

 つまり、他の『版元さん』同様、柊もかれんを怖いと思ったということだ。

 『笑うとかわいい』の前に心の声で『一見怖いけど』とか『会社では無表情だけど』とかが入っていたに違いない。

 かれんが気を取り直して読み進めると、ラビラビちゃんについて『秘密です』と答えた訳も判明した。ラビラビちゃんはいつもベアベアちゃんに冷たくしているが、仲良くされたり褒められると急に照れるような女の子だった。


 ――いわゆるツンデレか。


 確かに、知り合ったばかりの取次の仕入れ担当を捕まえていきなり『ツンデレなとこが似てる』とは言えないだろう。それにしてもデレた覚えはない、とかれんは不快に思う。


 気を取り直して、ご馳走様のお礼メールをしたが、そっけない返信があっただけで、その後、かれんのスマホにメールが来ることはなかった。

 かれんは、その夜、柊のことを思い返してしまい、なかなか眠れなかった。


 翌週の金曜日、食堂でエビフライを食べていると、理恵が定食のお盆を横に置いてきた。


「今日、空きできたよ」


 かれんは一瞬何のことかわからなかった。


「合コン、広告代理店。急だけど行ける?」と言われてやっと思い出した。理恵に合コンを頼んでいたのだった。ビフォーアフターではないが、ビフォー柊のときの自分が昔のことのように思える。とはいえ、柊の“ごはん”は社交辞令だったわけで、気持ちをビフォー柊にリセットしないといけない。


「こんな地味な服で大丈夫かな」


 理恵は横目で、かれんの服を上から下まで見回した。

「そういう派手じゃない、グレーのアンサンブルとかのほうが合コンでウケるよ」

 さすが合コンの達人である。

「では、遠慮なく参加させていただきます」

 かれんが少しオーバーに礼をすると、理恵は満足そうに微笑んだ。


 その夜、七時、神保町一のおしゃれイタリアンで、十人掛けのテーブルにて男女交互に座るという、典型的な合コンがスタートした。


 かれんはテーブルの端に座ったので、話し相手は隣の井上という二十代後半の男のみとなる。顔は普通だが、変な眼鏡をして個性を出そうとしている感じだった。

 インターネット広告を主にやっているらしく、“あどわーず”とか“こんばーじょん”とか、横文字が入って意味がよくわからない。


 つい柊を思い出してしまう。同じ業界だからかもしれないが、彼の話はわかりやすかったし、楽しかった。編集上がりの販売なんて嫌いだったはずなのに、こんなふうに気になる存在になるなんて、自分でも驚きだった。


 かれんは相槌を打つのが面倒になって、ついつい、カクテルに手を伸ばしてしまう。


 すると斜め向かいにいる、理恵が、キッと鋭い視線を送ってきて、拳を少し上げるような仕草をしてきた。


 ――戦いを放棄するなかれ!


 恐らくそんなメッセージだろう。だが、かれんにしてみれば、こんなつまらない会話なのに、ちゃんと相槌を打っているのだから、かなり頑張っているほうだ。


 そんな視線を理恵に送っていると、理恵が目を見開いた。

 何を驚いているのかと思い、振り向くと、目の前に、かわいい黄色に白の水玉が入ったネクタイがあった。


 かれんが顔を上げると、そこには柊が立っていた。上背があるので首が痛くなるくらい上を向いて、やっと顔が見える。


「こんばんは」と、柊は微笑んだ。


 かれんは久々に、その顔を見ることができて、すごく喜んでいる自分に驚いた。いつの間に、こんなに彼に惹かれてしまったのか、と。


 そう思ったあと、はっとした。


 こんな、いかにも合コンな席にいるところを見られたら、もうダメだ。たとえもし、かれんを誘う可能性が十パーセントあったとしても、今、急に一%ぐらいに急降下したのではないか。

 そんな考えが脳裏をよぎり、引きつり笑いで「こんばんは」と応えた。


「お知り合い?」

 背後から女性の声が聞こえてきた。


 ――女と一緒か!


 二十代後半くらいのきれいな人だった。変わった服装だった。年齢と少し合わないファッション――ちょっときゃりーぱみゅぱみゅが入っているような。こういうひとは神保町の出版社付近でよく見かける。恐らくライターかイラストレーターあたりではないか。


「ええ。とりつ……販売会社の方」

 一般的に、取次の人間の前で『取次』と呼ぶのは失礼というのがあり、版元さんは、『販売会社』と呼んでくる。


「そっか。ひいさんが行くのは書店だけじゃないわけね」

 取次にまで顔出す羽目になっているの、みたいなニュアンスを感じて、少し嫌な気持ちになった。


「そう。じゃないと本が流通しないでしょ」

 柊は外国人のように肩を竦めたあと、私に視線を向け「じゃ、また」と告げて、その女性と去って行った。もう会計が済んでいるようで、柊はレジ前の店員に会釈だけして通り過ぎた。

 きっといつも、女が席を外した隙に支払を終わらせているんだろう。


 柊は会社帰り何をすればいいかわからないと言っていたけど、毎日映画に行く時期が終わって、今は毎日女と食事をする期間なのだろうか。


 ――そりゃ、私にまで手が回りませんわ。


 合コンは全体的に盛り上がらないままお開きとなった。得意げにあちらの幹事が「女性は四千円でいいから」と言った。男性は女性の倍くらい飲んでいたと思うのだが、五千円だった。


 ――千円多めに払うのって得意げに言うようなことか?


 解散したあと、理恵がかれんに耳打ちしてきた。

「さっきのイケメン、誰?」

 かれんは、いつものサイボーグモードで「ああ、版元さん。大文社」と答えた。

「へえ~。あんな人もいるんだね」

 理恵は何かいいことを知ったというような表情になった。


 そのとき、ポケットのスマートフォンが振動した。


 かれんがスマホの画面を見ると、そこには柊の名前があった。


 メールには『ちょうどお互い、食事終わったところでしょう? 渋谷のearthってバーにいます』とあり、そのバーのURLが貼ってあった。


 あの女性との二軒目はなかったということだ。


 それに場所は渋谷。かれんが田園都市線であることを覚えてくれていたのだろうか。そういえば彼は井の頭線だから、お互い渋谷はちょうどいい。


『お誘いありがとうございます。今から向かいます』

 かれんはすぐに返信をした。

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