月ノ介さん、気をつけて
イラスト:闇蛇様
りん子は大きな肉まんの傘を持っている。雨に濡れてもふやけないし、持ち歩かなくても勝手に浮かんでついてきてくれる。皮はふわふわの雲のようで、たけのことタマネギのいいにおいがする。
雨上がりの朝、りん子は肉まんの傘を玄関の脇に干しておいた。その日は風が強かった。ベランダのシャツやバスタオルは飛ばないようにしっかり留めていたが、傘のことはすっかり忘れていた。
買い物へ行こうとドアを開けると、白いものが飛び立つのが見えた。肉まんの傘が日差しを受けて大きく膨らみ、風に乗って舞い上がるところだった。
「待ちなさい!」
りん子はジャンプをしたが、もう少しのところで届かなかった。肉まんはさらに膨らみながら、空へ上っていく。りん子は階段を駆け上った。踊り場で何度も手を伸ばしたが、肉まんはクラゲのように身をかわしていってしまう。
アパートの屋上に着き、角まで走っていった。隣の家の屋根よりも大きくなった肉まんが、右へ左へ揺れながら飛んでいく。りん子は手すりから乗り出した。
「りん子さん」
下から声がした。前の道を見下ろすと、月ノ介さんがこちらを見上げていた。月ノ介さんはこの町に長く住んでいるので、巨大な肉まんが飛ぶような超常現象にも慣れている。捕まえ方も知っているかもしれない。
りん子は手を振った。
「りん子さん、命綱忘れてます。それとエアマット」
「飛ぶんじゃないわ。あれを取るのよ」
月ノ介さんは、りん子が指さした先を見た。今行きます、と言い、階段があるほうへ回った。
程なくして、長い棒の先に三日月型の磁石がついた道具を持って、月ノ介さんが上がってきた。
「人工衛星を取るには、ちょっと短いかもしれないです」
「そんなの取らないわよ」
「じゃあ肉まんですか」
「そうよ」
もっともりん子には、人工衛星なんて見えなかった。
月ノ介さんは肉まんを見つめ、厄介ですね、と言った。
「発酵が止まっていません。このまま膨らみ続けると、空を覆い尽くしてしまいます」
「すると、どうなるの?」
「雨が降らなくなります」
りん子は感心した。あんなに大きくなっても、傘としての本分を忘れていないのだ。でも、雨が降らないのは困る。買ったばかりのレインブーツを履く機会がなくなってしまう。
月ノ介さんは目を細め、空に向かって磁石を構えた。肉まんは今や、二つ隣の通りまで陰らせるほどの大きさになっている。
「これで穴をあけます」
「大丈夫?」
「わかりません」
月ノ介さんは数歩下がり、ひゅっと磁石を投げた。
りん子は目を見張った。磁石は肉まんを斜め下から刺し貫いたが、ちょうど強く吹いてきた風に乗り、皮を突き抜けて遠くの空へと飛んでいってしまった。
「りん子さん、下がって」
「え?」
穴のあいた肉まんから、肉汁の雨が降る。湯気を立てて、たけのこやしいたけの欠片も落ちてくる。風にあおられ、皮をひだひだとさせながら少しずつ縮み、やがて屋上に収まるほどの大きさになると、りん子のそばに下りてきた。両手でぎゅっとつまむと、穴も塞がった。
「まだだいぶ大きいわね」
「涼しいところにつないでおくといいですよ」
肉まんはぷるんと震えた。嫌がっているようだ。
「食べれば小さくなるわ。月ノ介さんもどう?」
「いえ、僕はそろそろ」
その時、どこか遠くでサクッと音がした。
出来たてのエビフライにフォークを刺すような、軽い音だった。
落ちてきますよ、と月ノ介さんは言った。
「人工衛星。僕の磁石が刺さったみたいです。早くお家に戻ったほうがいいですよ」
「私はこの傘があるから大丈夫」
りん子は注意深く、肉まんから手を離した。今度は逃げずに、頭上二メートルほどの高さに浮かんでくれた。
そうですか、と月ノ介さんは言った。上着を羽織り直し、先に階段を下りていく。
「どこ行くの?」
「夕食の買い物に」
「人工衛星が落ちてくるのに?」
「人工衛星は食べられないですから」
それもそうだ、とりん子は思う。気をつけて、と言うと、月ノ介さんは楽しげに笑い、駆け下りていった。
肉まんの傘はほっとしたように、そばまで下りてきた。
りん子は空を見上げた。遠くまで晴れ渡り、小さな雲がぽつぽつと浮かんでいる。いつ人工衛星が落ちてくるのか、まったく見当がつかなかった。
星のように光るのか、ランプのように燃えるのか。暗い宇宙からでも、りん子のいる場所がわかるのか。壊れずに真っすぐ落ちてくるのか。
「日傘になってくれるといいな。だって雨傘はもうあるから」
りん子は手すりに両腕を乗せ、日差しに目を閉じた。肉まんはうなずく代わりに、湯気をほわっと吐き出した。