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1 雪の中の

軽い血表現があります。本当に軽いものですが、苦手な方はご注意ください。

 夜半に降り出した雪は眠るように横たわる一人の女の上へ、まるで薄衣を掛けたようにうっすらと積もった。

 一面の白に反射した光が彼女の黒髪を照らしている。

 音すらも包み込む静かな雪の中、一人の男が近づきそのまま彼女の脇に屈み込んだ。それに合わせ装身具が冷たい音をかすかに鳴らす。

 男は剣をしまうと目を閉じたままの女の息を確認し、彼女を抱え上げた。青白い頬に血の気はないが、少なくとも生きている。急がなければ――。

 力強く雪を踏みしめ、男は足早に来た道を戻っていった。



●●●



「あ、今日も……」


 リサラが刺すような冷たい空気に耐え、窓際に置かれた広いベッドから身体を起せば、窓ガラスの向こう側に、『あるもの』が置かれているのが視界に入った。

 細く白い腕を伸ばして、一気に窓を開け放つ。


 外から吹き込む風に身を震わせながらも、燦々と輝く朝陽に照らされた『それ』を見つめて、彼女は暖かな笑みを浮かべた。


 窓枠にちょこんと乗っている、不格好な雪の塊。そこに緑の葉が、逆立つ耳に見立てて二つ刺さり、赤い実がこれまた二つ、丸々とした瞳のように、リサラを見上げている。

 

 ――――――俗にいう、『雪うさぎ』。


 おそらく、近所に住む子供が作ったものなのだろう。ここ三週間前から、毎日のように窓枠に置かれているそれは、お世辞にも良い出来とは言えず、また一向に上達の気配も見せない。

 だけどリサラは、この不細工な雪うさぎを見るのが、毎朝の楽しみになっていた。


「……どうかしたか、リサ」

「あ、すみません。起こしてしまいましたか」


 傍らで眠っていた男が、リサラの腰まである長い黒髪を軽く引っ張った。それに振り返り、リサラは二十代半ばにしては些か幼い顔立ちに、申し訳なさそうな色を浮かべて謝罪する。

 そして彼女は、ひんやりとした感覚に耐え、両手で持ち上げた雪うさぎを、同じく身体をゆっくりと起こした男の眼前に掲げて見せた。


「またこれが置いてあったんです。誰が作ったかは分かりませんけど、可愛らしいですよね。それにこの赤い実、あなたの瞳の色と同じではないですか?」

「俺の?」

「はい。だから余計、愛しく思えてしまって」


 そう言ってふふっと屈託なく笑うリサラに、男は切れ長の涼やかな瞳を細めた。その目の色は確かに、雪うさぎと同じ、熟れた果実のような鮮やかな赤色だ。

 男は「そうだな」と微笑んで、そっとリサラの……愛しい妻の丸い頭を撫でた。その手つきは何処までも優しげで、慈愛に満ちたものだった。


「だが、その雪うさぎを愛でるのもその辺にしておこう。そろそろ支度をして、俺は仕事に行かなくてはいけない時間だ。融ける前に窓の外に戻して、起きて朝食の用意をしよう、リサ」

「はい、クライン様」


 夫の優しい手つきに答えるように、リサラも柔らかく微笑んだ。


 ……これが近所でも評判の、熱々すぎて雪をも融かす、通称『雪どけ夫婦』の、普段通りの朝の会話だった。





 ――――――周りを山々に囲まれ、豊かな自然と澄んだ空気に満ちた辺境の小国・ミルキリア王国。

 そんな国のとある町の片隅で、三年ほど前から家を借り、ひっそりと暮らす『ニクス夫婦』の仲の良さは、周囲には有名であった。


 夫であるクライン・ニクスは、一つに束ねた濃紺の髪に、印象的な赤の瞳。優しげな顔立ちに、引き締まった体躯をした、明るく真面目な青年だ。剣の腕を買われ、国境警備隊として働いていており、その人当たりの良さで、町の人たちからも好かれている。


 そんな彼を支える妻、リサラ・ニクスもまた、周囲からの評価は高い。丸い頬に、タレ目がちの翠の瞳は、まだ少女の如きあどけなさを残し、流れる黒の髪は、女性なら誰もが羨む艶を誇っている。基本的にしっかり者であるのに、時折無邪気な面もみせる性格は、愛嬌もあり、誰もが好意的に彼女のことを評価していた。


 そんな二人の出会いは、今から五年前。 

 この国から遠く離れた場所にある、万年雪に閉ざされた山奥で、盗賊に襲われ倒れていたリサラを、クラインが保護したのが始まりらしい。

 下級貴族の次男として生まれたクラインは、自由気ままに諸国を回る旅をしていて、その途中での遭遇だったとか。彼は盗賊を追い払い、リサラを抱えて近くの小さな町の宿屋に駆け込み介抱した。


 幸い、リサラに大きな外傷等は見つからず、程なくして彼女はその瞼を開いたのだが。

 目覚めたリサラは…………倒れていた理由も、今までどんな生活をしてきて、自分が何者なのかも一切、己に関する記憶を失っていた。覚えていたのは、『リサラ』という名前だけだ。


 クラインもどうすべきか悩んだそうだが、酷く頼り無げな彼女の様子に胸打たれ、そんな女を一人放り出すわけにもいかず、記憶が戻るまで……という条件で、クラインはリサラを連れて旅をすることになった。

 しかし、最初はそのように、なし崩しで傍にいることになった二人だったが、一緒に山を越え海を渡り、時に短い期間だけ一定の場所に留まって金を稼ぎ、支え合いながら旅を続け、苦楽を共にするうち。


 次第に二人は惹かれ合い、まるでそうなることが運命であったかのように、極々自然と恋に落ちた。


 そして二年間ほど様々な場所を巡った末に、辺境で住む人間も少ないが、気候や風土が気に入ったこの国に居着くことを決めた。

 正式に婚儀などを挙げたわけではないが、『夫婦』として町の片隅で家を借り、ひっそりと暮らすことにしたのだ。


 そんな二人を周囲も受け入れてくれ、リサラもクラインも、とても幸せな日々を送っていた。


 …………リサラの失われた記憶は、いまだ戻ってはいないけれど。

 無理に思い出す必要もないと、クラインもそう言ったし、リサラ自身も、もう自分の過去になどさほど興味は無くなっていた。


 今が幸せで、それが永遠に続いたらそれでよいと、そう思っていたのだ。





「よし。掃除は終わり!」


 長い黒髪を結い上げて、三角巾とエプロンを身に着けたリサラは、綺麗になった狭い室内を満足げに見回した。

 クラインが仕事に出たあと、今日は家の裏にある倉庫の掃除に勤しんでいたのだ。今の季節は冬の始め。厳冬で知られるこの国では、天から容赦のない大雪が降り、これからますます寒さは深まっていくだろう。まだ雪の量も少ない今のうちに、リサラはずっと放置していた、倉庫の掃除をしてしまいたかったのである。


 埃っぽく、雑多な物で溢れた倉庫掃除は大変だったが、整理された棚や磨かれた品を見ると、骨が折れたがやって良かったと心から思える。


「あとはこれを元の位置に戻せば……」


 リサラは壁に立てかけて置いた、布に包まれた長い棒のようなものを手に取った。ずしりと重いそれは、倉庫の奥深くに眠っていた代物で、リサラが初めて目にするものだった。足にひっかけて一度転んでしまい、危なかったので避けておいたのだ。中は何か知らないが、きっとクラインのものだろうから、迂闊に見るのも扱うのも良くない。


 そう考えて、両手で丁寧にそれを持ち上げたのだが、ひっかけた瞬間に布を縛っていた紐が緩んでしまったようだ。

 しゅるりと紐が解かれ、布がずり落ち、中身がリサラの目に触れてしまった。


「これは……剣?」


 現れたのは、一本の長剣だった。

 深い青の鞘に、持ち手部分の煌めく銀細工が美しい、素人でも分かる高価な代物だ。


「クライン様、こんなのをいつ買われたのかしら……?」


 まだ出会った当初の呼び方が抜けず、『様』付けで夫の名を口にしながら、リサラは首を傾げた。つい好奇心が勝り、なんとなく拙い動作で鞘から剣を抜いてみる。

 外気に晒された刀身は、小窓から差し込む日中の陽の光に当たり、鋭い輝きを放っていた。


 だが、所々に血による赤銅色の錆のようなものが付着しており、『剣』というものの用途を分かっていても、ついリサラは身を震わせてしまう。旅をする中で、獣等に襲われることも度々あり、その都度クラインが剣を振うところは見てきたはずなのに……やはり、怖いものは怖い。


 早く片付けてしまおうと、リサラはその剣を再び鞘に収めようと試みる。


「ん……?」


 しかしふと、刀身に薄らと刻まれた紋様のようなものに、視線を吸い寄せられ手を止めた。

 複雑な図を描くそれは、家紋か何かのようにも見える。クラインの関係を絶った生家は貴族だというし、これは彼の家に伝わる大事な剣とか、そういう類のものだろうか。


 だけど――――――何故かこの紋様を見ると、胸が騒ぐ。


「っ!」


 不意の頭痛に襲われたリサラは、思わず手を滑らせ、刃で指を切ってしまった。

 頭を襲う鈍い痛みに加え、指先にはじんわりとした熱が広がる。


 なんとか剣を取り落とすことだけは耐え、素早く地面に布を敷いて剣を置いたあと、その場にスカートを広げて座り込む。

 まだズキズキと痛む頭を片手で抑えながらも、怪我の確認をすれば、指先からは血が伝い、白い服の袖口を微かに赤く染めていた。


 意外と深く切ってしまったらしい。

 これでは隠していても、心配性な夫にはすぐにバレてしまうだろう。リサラは過剰なほど顔を青ざめるクラインを想像して、きゅっと唇を噛んだ。


 彼に、傷をバレて心配させたくない。


「……誰もいないわよね?」


 クラインには、『これ』は控えろと言われていたが……少しだけならいいだろう。


 そう考えてリサラは息を殺し、周囲に人の気配がないかを確認する。ご近所とは少し距離があり、家の裏に建てられた倉庫なので、誰かに見られるということはないだろうが、念のためだ。


 確認してから、リサラはそっと息を吸った。

 そして口を開き、なるべく小さく、けれど澄み切った美しい声で、『歌』を紡いでいく。



「――――――」



 とても不思議な旋律の歌だ。

 歌詞は自然の雄大さや厳しさを讃えるものだったが、何処か郷愁に駆られるような、物悲しい切なさを織り混ぜている。

 それがリサラの透明な歌声と合わさって、独特な響きを倉庫内に静かに溢れさせていた。


 ――――そして、一小節を歌い上げる頃には、みるみると血は引いて傷は無くなり、白い指は元の状態へと戻った。


「うん、これで大丈夫」


 リサラは手を軽く握る。いつの間にか頭の痛みも一緒に消えていて、ホッとしつつも立ち上がった。

 今度は細心の注意を払いながら剣を片づけ、早足で倉庫をあとにする。クラインが帰ってくる前に、服についた血を洗い流さなくてはと、それだけを考えながら。


 ……すっかり、剣に刻まれた紋様のことは忘れて。




●●●




 空には三日月が昇る真夜中。リサラは木々が鬱蒼と茂る山道を、降りしきる雪の中、縺れる足や叩きつける冷風に逆らうように、ただひたすら走っていた。


 足を、止めてはいけない。

 後ろから剣を引き摺り、足元の悪さなんてものともしない、あの全身を黒いローブで覆った恐ろしい男が追いかけてくるから。


 立ち止まるな。疲労と恐怖で体に力が入らずとも。捕まってはいけない。捕まったら、何をされるか分からない。あの男はきっと恐ろしい――――


「きゃっ!」


 リサラは積もった雪から飛び出していた、樹の枝か何かに引っ掛かり、無様にも白い地面へと倒れ込んだ。すぐに起き上がれと脳が命令するのに、限界だったらしい肢体はピクリとも動かない。


 それどころか、徐々に全身から温度が消えていき、意識が遠退いていくのが分かる。


 まだ辛うじて働いている耳は、サクサクとこちらに雪を踏んで近付いてくる、あの男の足音を捉えていて。霞む瞳を動かせば、少し離れたところにぼんやりと、男の黒い影が見えた。

 フードの下の瞳や、煌めく剣が視界に映った瞬間。


「た、すけて、……ンさま」


 ――――――誰かの名を呼んで、リサラは意識を手放した。





「……また、この夢」


 定期的に見る悪夢から、意識を現実に戻したリサラは、寒いのに嫌な汗をかいていたことに気付いた。


 目を覚ませば、いつも夢の内容は朧気にしか思い出せないのだが、これは恐らく、五年前のあのときのことだ。

 はっきりとした記憶はなくても、クラインから聞いた話と合わせると、夢の中の自分を追ってきたあの男こそが、襲ってきた盗賊なのだろう。

 そしてきっと、倒れて気絶したあとにクラインがきて、あの男を追い払い、自分を助けてくれたのだ。


 脈を打つ心臓を、息を吐き出すことで落ち着けたあと、リサラはベッドから降りた。


 窓に向き合えば、外は早朝から相も変わらず雪が降っていた。しかも、大粒の白い塊が途切れなく。

 一週間前のまだ雪が本降りではなかった頃に、倉庫掃除を終えておいたのは、やはり正しい判断だったようだ。


 しかし、心配なのはクラインのことである。

 先ほどまで寝ていた寝台の上には、リサラ一人で、クラインはこの場にはいない。昨日の夕方から、仕事で急遽呼ばれたとかで、遠方へと出向いているのだ。


 この大雪が彼の仕事の邪魔をしていないか、寒さで体調を崩していないか、リサラの不安ばかりが雪と共に積もっていく。

 

「あ……」


 思わず翠の瞳に陰を落としかけていたが、リサラはまた居座っている雪うさぎの存在に気付いて、顔を綻ばせた。

 しゃがみこんで、窓ガラス越しにその赤い瞳と目を合わせる。


 昨日の出かける直前。クラインが似た色の目に優しさを宿して、「すぐに帰ってくるから大丈夫だ。お前こそ、俺のいない間に風邪なんて引かないでくれよ、リサ」と頭を撫でてくれたことを思い出した。

 含み笑いを溢して、なんとなく元気をくれた雪うさぎに対して「ありがとう」と礼を言う。


 いつクラインが帰って来てもいいように、今日は部屋の掃除の方をしてしまおうと、リサラは伸びをして立ち上がった。


「さて、まずは朝ごはんを食べてから……って、あら?」


 前向きに色々と取り掛かろうと考えていたリサラの耳に、来客を告げるベルの音が響いた。こんな雪の中に何の用かしら……と、訝しく思いながら部屋から出て玄関へと向かう。

 足取りはのんびりしたものだったが、玄関が近づくにつれ、リサラは違和感に気付いた。


 ぶ厚いドアであるため、音が響かず分からなかったが、ドンドンと打ち付けるように扉が揺れている。誰かが必死に叩いているのだ。


 その尋常じゃない様子に、リサラは靴を慌てて履いて、警戒しつつもドアを開けた。

 

「リ、リサさん、良かった、いたんですね……!」

「ファンさん?」


 そこに居たのは、町で花屋を営むまだ年若い青年、ファンだった。彼はそばかすのある顔を真っ青に染め、息を荒げていて、酷く切羽詰まっているようだ。

 普段は落ち着いている彼が珍しい。リサラは「どうしたんですか?」と、そう尋ねようとしたが――――彼女が口を開く前に、ファンの方から、リサラの心臓を止めるような言葉が飛び出た。



「ク、クラインさんが大怪我をしてっ、今、意識がない状態なんです……っ!」



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