第七話 死姫、酒を飲む
つい屋敷を飛び出してきたものの、デューイと連絡を取ったのは今日の朝であるし、特にこれといってすることはない。
ソフィアには「情報を集めてくる」と言った。けれど、私にとって最も欲しい情報は、既に風化し、どんなに探しても見つからない。たった三時間では破片すら見つからないだろう。
(……まぁ、なんの情報にしろ、耳を立てておくに越したことはないか。どうせ前みたいにこまめに来れるわけじゃないし)
ぷらっぷらと、いつも贔屓している酒場の一つに脚を運ぶ。
時刻はまだ四時。開いているかどうか怪しい時間ではあったが、店の扉にはちゃんと「開店中」の札がかかっていた。
「どもー、おひさっす」
古びた木の扉をくぐり、カウンターに声をかけ……ようとしたのだが、眼前に椅子が迫ってきていたので、慌てて伏せた。
「あらん?なんだ、シアンちゃんじゃない。ごめんなさいねぇ、別人と間違えちゃったわぁ」
まったく悪びれていないようなテノールの声に、私は飛んできた椅子を拾い上げて投げ返した。
「きゃんっ!ちょっと、何すんのよ!」
「それはこっちのセリフだボケェ。この酒場は毎度毎度入るたびに物が飛んできやがる……何だ?恨みでもあるのか?」
「そりゃああるわよぉ。女の子は優しくしなきゃいけないのに、今日もほら、ボケェ、なんて」
まったくひどいわぁ、とカウンターの中の男は腰をくねらせ頬に両手を当てた。
女性は曲線のライン、男性は直線のラインと絵描きは言うが、目の前の男ははだけたシャツから覗く胸板といい、上半身から下半身までのラインといい、丸みなど欠片もありはしない。
細身ながらも筋肉質な、明らかに男の体つきの奴にそれをやられると、つい鳥肌が立つ。
この店の店主、ダンは、ごく普通の店主だ。ただし、打ち解けた客の前では女口調になるという悪癖がある。
「あのな、その格好でその仕草と口調やめろや。せめて女装しろ。アンバランスすぎる」
「うるさいわね。客あんたしかいないんだからいいでしょうが。ちゃんとお得意さん以外の前では男らしい話し方してるわよ。つか何でこんな早くから来んのよ。近衛士って暇なの?給料泥棒なの?」
「近衛士やめたの俺は。今はもれなくフリー的な感じ」
「あぁ、無職なのね。そりゃご愁傷様」
水?酒?と無愛想に聞かれ、「一杯だけ酒」と答えてカウンターに腰掛ける。でん、とカウンターに置かれたのは、私の好きな銘柄。
「一杯だけなんてシケてるわねぇ。金がないなら奢ってあげましょうか?お代はカラダで払ってもらうから」
「それ奢るって言わない」
あと洒落にならない。苦笑しながら、グラスに軽く口を付ける。口当たりの良い果実の味が口内に広がった。
「ほんと、何しに来たのよあんた。いつもならこれぐらい一口で空けるくせに」
「や、今日はこの後ソフィアの機嫌を取りに行くから酔えないの。ただちょーっとね、気分転換と時間つぶしに」
ふーん、とダンはカウンターに肘を付いた。
「あたしで良ければ、話し相手になるわよ?」
「ありがと。でも、あんま話したいわけでもないんだ。その代わり面白い話聞かせてくれよ。気分が浮上しそうな話」
「しょうがないわね。その代わり食べ物注文してってよ。甘い甘ーいチョコレートケーキ」
「ここ、酒場だよな?」
この店のメニューは一体どうなっているのか。呆れながらも、私は笑みを浮かべて「それ一つ」と言った。
ダンは、目ざとい男だ。特に、男女の境が不安定な男だから、性に関しては目ざとい。
きっと彼は気付いている。私が彼と正反対の同類であることを。
「そうねぇ……ここ最近何かあったかしら。あぁそうそう、この前ねぇ、せっかく付き合っていた女の子に振られちゃったのよ。『女言葉で気持ち悪い』って。せっかく隠してたのに、癖ってやぁね、途中で出ちゃったのよ。……あたし、女の子と付き合うのは無理なのかしら」
「ちょっと素出したぐらいで逃げてく女なんて大した女じゃないぞ。本当に良い女はそんな細かいことは気にしないもんだ。あんた性格良いんだから、ちゃんと良い女が来るよ。だいじょーぶ」
「そうだといいんだけどね。ねぇシアンちゃん、もし相手が見つからなかったら、私のお嫁さんにならない?」
くすくす、と悪戯めいた笑みを向けられ、私は「そもそも俺、男だから」と苦笑した。
「そうなのよねぇ。あんた、良い男すぎるのよねぇ。もうちょっと女々しかったら可愛げがあるのに」
「え、ない?可愛げ。よく「シアン様ってお可愛らしいわ」って言われるんだけど」
「母性はくすぐるけどね。シアンちゃんはもっといろんな人に弱味を見せるといいわよ。そっちのほうがかわい……」
不意に、ダンの言葉がかき消された。
バァァン、という破壊音。吹き飛ばされるような勢いで扉が開き、私は眉間にしわを寄せて振り返る。
「……あいつらに、椅子ぶつけてやりたかったのよね」
ぼそり、と低い声でダンが呟いた。