幕間 月が満ちるその前に
暗い路地を、一人の男が歩いていた。
肩甲骨ほどまで伸びた金色の髪をうなじでくくり、月明かりが濃い影を落としている。石畳を進む足取りはまるで幽霊のごとく静かで、彼は静寂な路地に見事に同化していた。
男は路地の、古びた家の前で足を止める。それから少し考えて、彼はその扉を叩いた。
「はーい」
扉の向こうから、やや間延びした声が聞こえた。
まだ声変わりしていないボーイソプラノの持ち主は、古びた木戸を開け、そして扉の前に立つ男を眺める。
「おや、珍しいですね。点検まであと一ヶ月はあったでしょう?」
目尻の垂れた青色の少年の瞳が、不思議そうに男を見上げる。招き入れられるままに扉をくぐりながら、「少々用事がありまして」と男は答えた。
「あと一、二週間の間に大切な用事があるので、その際に動かなくなると困るんです」
ため息混じりの男の言葉に、少年はなるほどなるほど、と頷いた。
「それは、ちょうどタイミングが良かった。ちょっと僕も用事が立て込みそうだったんですよ。……腕と足を出してください」
少年が工具を弄りながらそう指示をすると、男は上着から片腕を引き抜き、手袋を外した。
そこから覗いたのは、木の腕だった。まるで人形のような硬い木材で作られた腕は、球体関節でつながれ、さらにいくつかの線が引かれ淡く光る石がはめられている。続いて剥き出しになった彼の両足も、腿から下は木製の義足になっていた。
少年は義手の連結部分を確認し、そこから指先まで、正常に動くかを確認する。
「……特に異常はなさそうですね。擦れたり、痛みを覚えたことは?」
「特にありません」
「なら大丈夫かな。魔力の淀みもないし、魔石も壊れていない……集中力が乱れて制御不可能になったり、意識と違う行動をとったことは?……それもない、と。うん」
なら大丈夫です、と少年はもう一度言った。少年の言葉に合わせて男も笑みを浮かべ、礼を言う。
「ありがとうございます、フィーア様。貴方がいなければ、俺は何もできなくなるところだった」
「お気にせず。僕も試作品の実験に使っているようなものですから。君も、異常を覚えたらすぐに使用をやめてくださいね」
男は再び上着に腕を通すと、深々と礼をする。それを見ながら、少年が苦々しく笑った。
「やだなぁ。騎士様に頭を下げられる子供、なんて非常に変な絵柄になるじゃないですか。僕は一介の本屋、頭を下げられる程の者じゃないんですよ?」
「……どうでもいいですが、魔具を操る本屋なんて普通いませんからね、普通。魔術師を名乗ったほうがよっぽど儲かるでしょうに。魔術師なんて、まだ片手で数える程しかいないはずなんですから」
男の問いに、少年は飄々とした笑みを浮かべて「僕は本屋ですよ」と笑った。
古びた家の中に山積みにされた大量の本の、皮と埃とカビの混じりあった匂い。それに包まれた場所が彼の住処だ。だからこそ彼は本屋なのだという。
それよりも、と少年は目を細めて笑う。外見の年と不相応な労わるような瞳で。
「くれぐれも無茶はしないようにしてくださいね、デューイ。君の手足は所詮偽物。無茶に耐えうるものではないんですから」
少年の言葉に、デューイは口の端を曲げて笑みらしきものを作ると、「善処しますよ」と言って扉をくぐる。
月明かりだけが、路地を進む彼の姿を見守っていた。
◇◆◇◆◇
「……くそっ」
羊皮紙に箇条書きにされた住所の最後のものを爪で書いた二本線で消しながら、ブライアンは小さく舌打ちをした。
遅かった。何もかも遅かった。彼女と連絡を取ろうと思い返したこと自体が既に遅かったし、その連絡が返って来るまでも遅かった。
嫌な予感がしたのだ。あの日あそこで、彼女とそっくりなあの後ろ姿を見てしまった時から。それでも、彼女がここにいるはずがないと、ブライアンは自分に言い聞かせてしまったのだ。
彼女がいたはずの孤児院からの手紙には、《大分前に王都へと向かった》とだけ書かれていた。
《てっきり貴方のところへと行ったのだと思っていたわ。彼女からの連絡はなかったの?》
彼女を見つけなければいけない。彼女が壊れてしまう前に。
彼女を守ると、決めたのに。
悔しさに歯噛みしながら、ただ王都の地図を睨みつける。幼い頃の約束が、ひどく重く感じた。
「……お前は、待てなかったのか……?それとも俺がのんきすぎたのか?」
入隊以来の親友がここにいたら、きっとやはり「お前はのんきだろ」と肯定される気がする。ついでにいろいろまとめて説教されそうな気がして、ブライアンは僅かに力を抜いた。
「……見つけよう」
せめて、もう取り返しもつかない状態になる前に。




